第3話

「ただいまぁ。腹減った、真里也、ご飯大盛りで頼む」

 玄関から疲弊した羽琉の叫び声が聞こえ、「おかえりー」と、返事をしたけれど、ここは射邊家であって、玉垣家ではない。

 ほぼ毎日、羽琉は自分の家ではなく、真里也の家に帰ってくる。

 小学校のある日を境に羽琉がただいまと言うのは、射邊家になっていた。

 夕食まで一緒に宿題をしたり、遊んだりと毎日を過ごしていると、晩飯食って帰れと、言い出したのは博だった。

 羽琉を交えての夕食は恒例になり、今では風呂も入って帰る。

 けれど、それらは全部、真里也のために始まったことを、真里也本人だけではなく、博もわかっているから、博は実の孫のように羽琉を可愛がっていた。

 

 江戸時代から続く繁華街で、にぎわいが今もなお続く商店街がある下町で両親の離婚後、真里也は暮らしていた。

 家は商店街を少し外れた場所にあり、最寄駅もさほど遠くなく、買い物にも困らない、利便性のいい場所だ。

 古い平屋の一軒家で、古民家と言えば聞こえはいいが、ただ古いだけの家で洒落たものは何もない。

 夏は涼しくていいけれど、冬になると、どこからか隙間風が入ってくるのか、ストーブ、こたつ、エアコンの三点セットがないと寒さは凌げない。


 寒々しい三和土たたきに、玄関の上がりかまちを跨いで廊下を歩けば、左手には居間と台所。反対側には博の部屋と、今は使ってない、亡き父の部屋がある。廊下の突き当たりは真里也の部屋があり、どれも六畳の和室と言う、至って普通の家だ。

 自慢できるところと言えば、まあまあ広い庭の美しさだ。博が丹精込めた木々が、そこかしこに植栽されている。

 中でも柚子と茶梅さざんかの木は、デッサンの練習になると博に言われ、暇があれば縁側に座って描いていた。


 美しく花が咲くようにと心を込め過ぎたから、脚立から足を踏み外したりするんだよと、博に言いたかったけれど、間違いなく怒鳴られるから決して言わない。

 何て言ったって、博は祖父で家族だけれど、彫刻の師匠なのだ。歯向かえば波紋され兼ねない──と言うのは大袈裟だが。


 中一の時に父が出張先で事故死してから、この家に博と二人だけで暮らすのは寂しい。

 そんな真里也の気持ちを察してくれた羽琉は、父が亡くなったあとから、自分の家のように射延家へと帰ってきてくれる。それは本当に嬉しい。


 父がまだ生きていた時から、食事の担当は真里也で、博もたまに作るが、味付けは精進料理よりも薄いかもしれない。だから、極力、真里也が料理を作っている。

 二人だけの食事は寂しかったけれど、羽琉が加わってくれたことで、また射延家の食卓は三人になった。

 

「お、今日は唐揚げかっ! やったー、労働の後に俺の好物を用意してくれるとは、さすが俺の嫁」

「誰が嫁だよ。今日は、その……モモ肉が安かったからだっ」

 バレバレな嘘だった。今日、實川と話したせいか、夢に向かっている親友を労ってあげたくなっただけだ。でも、そこは言わない。言えば羽琉はまた調子に乗る。


 美味そーと言いながら、制服のジャケットと鞄を羽琉が畳に投げると、博が新聞紙越しにぎろりと睨んでいる。

 あ、これは雷が墜ちる──。

 被弾が羽琉に直撃だと悟ったから、真里也の方が身を縮めた。案の定、「羽琉っ、服と鞄は──」と、新聞紙から顔を出した。けれど、羽琉の方が一枚上手だった。


「はいはい。隅っこに置けでしょ? わかってるって」

 博の言葉を遮ると、羽琉が行儀悪く足で制服と鞄を足蹴にして隅に追いやっている。

 あーあ、それもアウトだと思ったけれど、博は眉間にシワを刻むだけで何も言わない。

 え、何で? 俺の時はめっちゃ怒るくせにっ。

 思わず訴えそうになったけれど、やめた。

 なぜか博は羽琉に甘い。前から薄々感じてはいたから今更だった。

 実の孫には厳しくても、三軒隣の家に住む羽琉を、博が真剣に怒ったところを見たことはない。


 博は家族であろうが、他人であろうが、大人であろうが、子どもであろうが、悪いことをすれば叱り付ける。以前なんかは、家の前に煙草をポイ捨てしていた男性を叱っていた。

 物騒な今、どこで恨みを買うか分からないから、むやみに他人を怒らないで欲しい──と言うのが、孫である真里也の切実な悩みだった。


 茶碗にご飯をよそいながら、博が羽琉に何も言わないのは、多分……羽琉の家の状況を知っているからだろうなと思った。

 いや、それはそうかもしれないけれど、毎日頑張って食事を作っている孫にも、ちょっとくらい甘くなって欲しい。


「羽琉、手洗った? うがいは? 汗かいてるなら風呂も入って帰れよ、もう沸かしてるし」

 居間の座卓に料理を並べながら言うと、羽琉と博が顔を見合わせて笑いを堪えている。

「な、何だよ。二人して。俺、変なこと言った?」

「真里也は羽琉の母ちゃんか? お前の言葉は母親が子どもに言うセリフだ。羽琉もそう思ったろ」

 読んでいた夕刊を畳みながら博に言われると、横で「確かにっ」と、羽琉が腕を組んでうんうんと、頷いている。


「か、母ちゃんって。俺、高校生だよ。十七歳の男だよ? じいちゃんも羽琉もひでぇ」

 唐揚げは抜きにするかと、湯気のたつ大皿を引っ込めようとしたら、

「あー、うそ、うそ真里也さま、どうかお慈悲をっ」

 呼ばれた名前の言い方に、カチンときた。

「羽琉、『さま』は付けるなって何度も言ってるだろ。もし、それを学校で言ったら許さないからな」

 へーへー、わかったよと、欠片ほどの反省を口にした羽琉が、いただきますっと言って、早速唐揚げを頬張っている。横では博が野球中継を見ながら、晩酌を始めた。


『真里也』と言う名前が、嫌だった。

 小学校の低学年特有の、名前をもじったり、何かにたとえたりで揶揄うことを、クラスの中で真っ先にされたのは真里也だった。

 決まって言われたのが『マリヤさま』だ。


 イエスキリストの方はなんだと、何度も言ったけれど、囃し立てることに一生懸命な子どもには馬耳東風だった。

 あだ名地獄は高学年になっても引き継がれ、今度は名前だけでなく、フルネームごと弄られた。

 物知りな誰かがアヴェマリアをもじって、『ああ、イヴェマリヤ様』と言いながら、祈る仕草をされ、冷やかしは彼らが飽きるまで続いた。

 何度無視しても囃し立ててくるから、ムカつくやら、悔しいやらで学校に通うことが心底嫌になっていた。


 真里也が自分の名前を毛嫌いするのは、揶揄われただけではない。

 原因は、母にもあった。

 父と母は普通に出会い、普通に恋愛して結婚した。ただ、ひとつ変わっていた──と言うか、異常だったのは病的に女の子を欲した母の女児への執着だった。


 真里也が生まれた時、娘ではなく、息子だったことに母は酷く落胆したらしい。

 このことも、真里也本人からすれば凹む話だ。まるで、男の子なら要らないと言っているように思える。

 当然、二人目を欲しがった母だったが、中々妊娠の兆しがなく、半年が過ぎた時、二人目不妊を告げられたとらしい。不妊宣告を受けた母の行動は、常軌を逸するものだったと父から聞いていた。


 妊娠しやすいと聞けば、何でも取り入れていた。

 食べ物、睡眠、サプリメントに運動。最後には、父の精子まで調べたけれど母の努力は虚しく、一年が過ぎ、二年、三年と時間だけが経過して益々焦り、とうとう母は鬱病を患ってしまった。

 育児も放棄し、真里也は保育所に預けられ、父が働きながら育てる──といった、目まぐるしい生活を送っていたと言う。

 数年後のある日、仕事から戻った父が目にしたのは、離婚届と結婚指輪だった。

 そして、あの、手紙が置いてあったそうだ。

 ゾッとした父は、自分の精神や息子を守るため博に助けを求め、真里也を連れて実家に戻ったのだ。


「真里也、おかわりっ」

 懐古に浸っていると、羽琉が目の前に茶碗を突き出してきた。

「あ、ああ。わかった。味噌汁は?」

 頼むっと、元気な声が返ってきた。こんな風に、明るく振る舞う羽琉の性格には随分と救われた。けれど、羽琉だって、初めからテンション高めに接してきたわけじゃない。あからさまに羽琉が明るさを増長させたのは、小学校三年生の時、真里也が誘拐され、家に戻れた頃からだった。

 誘拐犯は、離婚して出て行った母だったから、事件にはならなかったけれど。


 学校の帰り道、いつものように羽琉と二人で帰っていると、突然、母が現れた。

 迎えに来たと告げる母に、また三人で暮らせるのかと真里也は嬉しくて尋ねると、そうだと、頷いた母を信じて彼女の手を取った。

 一緒に暮らしていた時、手を繋いでくれることもなかった母の手の温もりを知れたことが嬉しくて、真里也はすぐに帰ってくるからなと、笑顔で羽琉に別れを告げて、母と一緒に町を出た。


 バスと電車を乗り継いで、見たことのない景色に降り立った駅には迎えが来ていた。知らない男が運転する車に乗れと言われ、尻込みしていると、母に背中を押され、後部座席に押し込められてしまった。

 怖い、このまま一緒に行けば帰れないかもしれないと直感し、真里也は帰りたいと母に訴えたが、目さえ合わせてもらえず、母と男が暮らす家に閉じ込められてしまった。


 夕方になっても、夜になっても真里也が家に帰らないことに慌てた父と博は、羽琉の話を聞き、別れた妻が連れ去ったと警察に訴えた。

 父はすぐ母に連絡をしたが、真里也が帰らないと言っていると嘘をついたらしく、母は父の訴えに耳を貸さなかった。

 警察も事件性はないからと、夫婦で話し合うことだけを勧めて関わることをしなかった。


 親権者の父の元から勝手に真里也を連れ出すことは、未成年者略取等罪の可能性があると考え、父はすぐ知り合いの弁護士に相談した。

 母の携帯番号は変わっていなかったが、居場所がわからない。

 父は何度も何度も、母に連絡をして真里也を返してくれと嘆願したが、母は尽く無視したと言う。


 弁護士が調査し、母の居場所を突き止めたのは、真里也が連れ去られてから、三ヶ月が過ぎていた。

 母の家で真里也が執拗に受けていたのは、幼い子どもの心を歪めるものだった。


 新しい男との間にも女の子どころか、妊娠することもできないでいた母は、まるで人形を着せ替えするよう、真里也に女の子の格好をさせた。

 学校へも行かしてもらえず、毎日、毎日、真里也は女の子の服を着せられ、カツラまで付けられた。


 女の子の姿になった真里也を、母は可愛い、可愛いと人形のように扱い、名前を囁いてくるのだ、『まりあ』と。

 自分の名前は『真里也』だと、抵抗すると思いっきり叩かれる。頬、腹、背中、母の気が済むまであっちこっち叩かれた。

 母の監視下で軟禁状態され続け、真里也の精神はおかしくなっていた。なのに母は真里也が父の元へ帰るギリギリまで、息子のことを可愛い、可愛い、まりちゃん、まりちゃんと言い続けていた。

 この時既に、母は白痴はくちのような精神状態だったのかも知れない。


 可愛いと言われることを嫌い、女顔に嫌気がさし、家族と羽琉以外から名前で呼ばれると返事もしなくなった。

 母に叩かれることを思い出し、目の前で急に腕を振り上げられることに恐怖を覚えるようになってしまったのだ。


 唐揚げを箸で摘んだまま、トラウマになったきっかけの女のことを考えていると、何かを悟ったのか、「食わないんなら、よこせ」と、皿に残してあった唐揚げを羽琉に奪われてしまった。

「あ、最後の唐揚げなのにっ」

 叫んでも遅かった。唐揚げはもう、羽琉の口腔内に収まっている。

 美味い、美味いと平らげてくれたから、まあいっかと、口元を緩めた。


 父と弁護士の粘りで真里也は、博の家に戻ってくることができたけれど、その時は連れ去られてから半年近く経っていた。

 家に帰ってきても学校へ、外へ出ることが怖かった。

 また、母やあの男が来て連れ去られるかもしれないと、怯えて博の側から片時も離れずに過ごしていた。


 そんな真里也を心配し、羽琉は毎日会いに来てくれたのだ。

 子どもでも真里也に何かが起こっていると察してくれ、羽琉は事細かく真里也の様子を観察して、何をされたら怖いのか、嫌なのかを理解しようとしてくれた。


 羽琉のお陰で学校へ通えるようになり、中学生になったある日、父が思い出したように誘拐された理由を教えてくれたのだ。

 母が女の子を欲しがっていたこと、母の内縁の夫が、真里也を引き取れば父から養育費を奪えると思ってやったことだと。母が女の子にこだわっていたのかは、興味はないから聞かなかったと、父は安堵を含んだ微笑みで話してくれた。

 誘拐された小さなこどもは成長し、トラウマを克服すること以外は、何事もなく元気に過ごしていた。

 そんな時、父の訃報は突然訪れたのだ。


「羽琉、仏さんの唐揚げも食っちまいな」

 博の言葉を待ってましたと言わんばかり、羽琉が仏壇の前に座ると線香を上げて静かに手を合わせている。

「おじさん、元気? 俺も真里也もじいちゃんも元気だ。だから唐揚げ、俺が貰うな」

 何だその報告は——と、笑いがこみ上がり、羽琉の後頭部を漫才師のようにツッコミを入れたかったけれど、博がよしとしているなら、まあいっか。

 きっと、天国で父も爆笑しているだろうと想像し、真里也はサラダをパリパリと頬張った。


 自分がいなくなることを想定していたかのように、誘拐の真相を真里也に聞かせてくれた一ヶ月後、中学一年の秋に父は出張先で事故に遭った。

 金をせびる相手がいなけりゃ、もうお前に手を出さないだろ。

 葬式を終えた夜、父の遺影を前に博がポツリと呟いた。

 そんなこと言わないで欲しいと当時は思ったけれど、息子を先に見送る父親の強がりなのかなと、高二になった今ならそう解釈できる。


「はー、食った食った。腹一杯だ、あ、真里也。食器洗うのは俺がやってやるからな」

「いいよ。羽琉はバイトで疲れてるんだし。ってか、毎回言わなくてもいいよ。羽琉に気ー使われると気持ち悪い」

「っだよ、気持ち悪いって。俺はいつもメシ食わしてもらってる礼をだな──」

「はいはい、羽琉の気持ちは十分伝わってるよ。だから将来、羽琉が店を持ったら、俺だけ無料でずっとカフェオレ飲ませてくれればいいからさ」

 食器を流しへ運びながら言うと、おう、任せとけと、威勢のいい声で返事をくれた。

 両親の離婚後、この町へ引っ越してから羽琉との長い付き合いは、真里也にとってかけがえのないものだった。

 欠けた家族の代わり以上に真里也に関わってくれる幼馴染の存在を、真里也は今日も心から感謝していた。

 

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