第3話 ジャバトとビハム、それに悪魔の話
満月の光だけが差し込む部屋の中は、思っていたよりも明るく感じた。
魔法陣の描かれたページを開き、そこに残しておいたおやつのマドレーヌを置く。
母の部屋から内緒で持ってきた卓上鏡を、月光が供物のマドレーヌに当たるよう調節する。
これで召喚できるはずだ。
ジャバトは速くなる心臓を落ち着かせようとしながら、悪魔が現れる瞬間を待ち続けた。
物語はその日の朝に遡る。
登校中、遠くに見える柔らかそうな金髪の後ろ姿。それだけでビハムだと分かった。
駆け出していきたい気持ちを抑え、不自然でない程度に足を速めてジャバトは彼に近づく。
「お、おはようビハム、」
「おはようジャバト! 朝からジャバトに会えるの珍しいな、」
「朝はつい寝坊しちゃって……」
朝の空気よりも爽やかな笑顔で迎えてくれるビハム。
一緒に並んで登校できるなんて、いかにも親友同士のようでジャバトの顔もほころんだ。
ところが、しばし歩いたところで向かいの通りから手を振る人物が現れてしまった。
ジャバトは身を固くし、自然と俯いてしまう。
「おはようビハム~!」
「おはようアルビ!」
ジェミニ兄弟の小さい方が嬉しそうに駆けてきて、ビハムの隣に並んだ。大きい方もわざわざ学校へと向かう曲がり角を通り過ぎて、にこにこしながらビハムの方へ向かってくる。
こうなってしまえばもうジャバトは蚊帳の外だ。皆はジャバトの知らない会話で盛り上がり始め、ジャバトはいないもののように扱われる。
いたたまれずにジャバトは足を速め、学校への角を曲がろうとした。
「あれ、ジャバト急いでるのか?」
ビハムの声が聞こえてジャバトは驚く。ビハムが自分のことを気にかけてくれているという嬉しさがじんわりと体全体にしみこむ。「あれ、ジャバトいたんだ、」などというジェミニ兄弟の言葉など耳にも入らない。
「ちょ、ちょっと用があって……」
思わず嘘の言い訳をしてしまう。
「そっか。じゃあまた後でな!」
また後で。ビハムがまたジャバトといたいと思ってくれている。
そう思うと先程の疎外感などなかったかのように、ジャバトの心は温かい気持ちに満たされるのだった。
結局、また後でが叶うことはなかった。
授業が終わる度にジャバトはビハムの様子を伺ったが、いつも色んな生徒がビハムの方へやってきて、ジャバトが入る隙はどこにもなかった。
ビハムは皆の人気者だ。明るいし、皆に分け隔てなく優しいし、勉強やスポーツができて、それを嫌味に感じさせることが少しもない。
ジャバトにとってのビハムはたった一人の大事な友達でも、ビハムにとってのジャバトは大勢いる友達の内の一人にすぎない。
ビハムはジャバトの特別だけれど、ジャバトがビハムの特別になれることは決してない。
分かっていることなのに、そう思う度に喉が詰まったように苦しく痛くなって、ジャバトは教室から出ようとした。
「それこそ、魔法でなんとかすればいいだろ。」
すれちがいざまにそんな声が耳に入った。ジェミニ兄弟の小さい方の声だ。
一体何の話をしていたのかさっぱり分からないが、その言葉が何故か気にかかった。
魔法。どうしようもない現実も魔法が使えれば変えられるような気がする。
そんなもの使えるはずがないと思いながらも、もしかしたらとジャバトは図書室へ向かい、魔法の本を探すことにした。
図書室を探してみたが、求めているような本は見つからない。「友達と仲良くなるおまじない」を見つけ、幼稚だと思いながら目を通してみたが、やはりジャバトを満足させるようなものではなかった。大体、仲良くなりたい相手と一緒に何かしなければならないおまじないなんて、断られたらどうするつもりなのだ。
溜め息をつき、図書室の壁に
台でもないとあんなところに本を置くことはできない。誰がわざわざそんなことをしたのだろうか。
なんだか気になったジャバトは台の上に乗ってその本を取ってみた。
『悪魔召喚術』。
そんな題名の本だった。パラパラとめくってみたが、ほとんどのページは外国語なのか、何が書いてあるのか分からない。
急に自分でも読める文字が現れ、そこには願いを叶えてくれる悪魔を召喚する方法が書かれていた。
満月の晩、魔法陣の上に供物を載せ、鏡の反射で供物に月光を注ぎ込む。
魔法陣の描かれたページもあるし、供物もなんでもいいらしい。とても簡単な召喚術だ。
そういえば、天文部の奴が今日は満月だからどうのこうのと云ってたのを聞いたような気がする。
運命を感じた。
借りようとして裏表紙を開き、図書カードがないことに気づく。
図書カードを入れる袋もなければ、図書館の物であることを示す判子も押されていない。
ジャバトは辺りを見回したが、誰もいなかった。
心臓が早鐘を打つ。
ひょっとしたら何か大変なことが起こるのではないかという怖れもあった。でももし本当に願いを叶える悪魔を召喚できて、ビハムの一番の親友になれるのなら。
ジャバトはその本を服の下に隠し持ち、咎められるのではないかと内心怯えながらも図書室を後にした。
そして物語は冒頭に戻る。
ジャバトは固唾を飲んで見守っていたが、一向に何かが起こる気配はなかった。
やはり魔法や悪魔なんて実際には存在しないのだろうか。
皿の上のマドレーヌを見やる。夜遅くまで起きているせいか、妙にお腹がすいてきた。
歯磨きはしてしまっているが、今日は良い子でいる気持ちになれない。 食べてしまおうとマドレーヌに手を伸ばす。
なんだか違和感があった。鏡に映った手が別の方に向かい、鏡から飛び出て本物の床に手をついた。
それに続いて頭が、体が、鏡の向こうからずるりと出てきた。
自分と同じ顔、だけど違う。山羊のような角に、蝙蝠のような羽、先の鋭く尖った尻尾。意地悪そうな笑みを浮かべた口からは牙が覗いている。
「願いはなんだ?」
自分の声とは違うように思うけれど、傍から聞いたらこんな感じなのかもしれないと思わせるような声だった。
「ビハムの一番大事な親友になりたい。」
逡巡する間もなく口をついて出た願い。それを聞いて悪魔は笑みを深めた。
「契約成立。」
悪魔に抱きすくめられる。
ジャバトの心音だけがうるさいくらいに存在を主張している静かな夜だった。
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