匣=自己

鍋谷葵

匣=自己

 喧しい鐘の電子音が空間を揺るがす。


「私は人を撃ち殺した」


 冷たくてコンクリートの床に、星辰と月光の侵入だけを許している格子窓、そして無限なる孤独と深い闇が私の罪を露わにしている。

 この吊り下げられた剥き出しの電球が、最後に点いたのはいつなのであろうか。私はそれさえ覚えていない。それどころかここに収監されたときの記憶さえ朧げだ。明瞭に覚えていることと言えば、こうして仰向けになって見つめている天井の隅に作られた銀糸の如き蜘蛛の巣だけである。

 幾何的なそれはいまも青白い月光を浴びて輝いている。もっとも、暗がりの中で強調されても、そこに巣の主を認めることは出来ない。

 巣の主はどこへ行ってしまったのだろうか?

 おおよそ巣を作る種類の蜘蛛であれば、昼夜問わず自身の仕掛けた罠に餌が飛び込んでくるのを待っているはずであろう。しかし、いま、彼はいない。いや、それは『いま』ではなく『常』にだろう。輪郭を失い、融解した記憶によれば私はいままでただの一度たりとも彼を見たことがない。私が見たことがあるのは、彼の巣だけである。

 なぜ、彼を見たことがないのであろう。私が動いていないからだろうか。私は鉄格子と石壁から成る埃っぽい独房の中で、ひたすらに寝そべっている。身動き一つ取らず、仰向けになっている。その背中の痛みや腰の痛みを覚えることなく、私はぼんやりと蜘蛛の巣を眺めていたのが私の日常だ。私は何も動いていない。そして何も感じていなかった。

 ところで私は何も感じていないと言った。だが、いまこの瞬間、私は痛みという感覚を獲得した。いままで想起し得なかった能動的に動くという意識を獲得した。そう、私は私に関する感覚を『獲得』したのである。

 喪失の彼方より取り戻したそれは、床に張り付いてしまった身体を引きはがした。背中の皮は剥がれ落ち、尻の肉が抉れるような想起さえさせる痛みは立ち上がってなお身体に沁みついている。ただ、ふくらはぎにそれを抱えた脚は、三畳にも満たない石櫃と形容すべき部屋の中で私の身体を支えている。


「ここは一体どこなのだろうか?」


 口から漏れた疑問は、独房の闇に溶け込んでいく。

 音の消滅は私をそぞろにさせる。戸外の音、風の音さえ聞こえない空間は、自意識をも融解させようとしているように思える。鉄格子の外の真っ黒な闇は、私の存在を空間の中に霧散させる印象を覚えさせる。その強烈な不安から自ずと鉄格子から距離を取ってしまう。しかし、この狭苦しい独房における退却は意味を成さない。逃走の意思は人力で破壊できない冷たい壁を前に妨げられてしまう。

 不羈奔放に振舞うことを抑圧された空間から向こう側の闇を睨みつける。闇の向こう側、その先に看守が居るのだろうか。もしも彼がいた場合、彼はいまの私を見て何を思っているのだろうか。殺人犯の奇怪な言動に恐怖しているのだろうか、それとも嘲笑を浴びせているのだろうか。

 自己の自由を自分の手によって失った私の脳裏に浮かび上がるのは、そういった妄想だけのようだ。独房と暗闇から成る孤独の中に置かれた私にとって、観測し得ない向こう側には憎悪に似た感情のほか獲得できない。だが、憎悪を獲得したとはいえ、強烈な復讐心が噴き出してくることはない。この妄想が与えてくれた憎悪は、極めて単純な物語の記号的な悪役に対する憎しみの他ならない。私は看守を、彼を見たことが無いのだから。

 私は人を撃ち殺し、裁かれ、独房に収容された。私は私自身のちっぽけな手で拳銃を把持し、引き金に指をかけ、人を撃ち殺した。裁判では情状酌量の余地を与えられず、無期懲役が即刻下された。そして私は独房に入ったのである。私はそれらを明瞭に覚えている。しかし『誰』を撃ち殺したのか、『誰』が捕縛したのか、『誰』が裁いたのか、『誰』が連行して来たのかそれらを覚えていない。

 何をもって私は過程を失い、結果だけを獲得し得たのだろう。記憶を何らかの要因で喪失したと言えば話は早い。だが、記憶を喪失していれば過程に疑念を抱くはずである。しかし私の心持と言えば満足を覚えている。現状が当然であり、辿ってきた過程は全て真であり、偽は何一つとしてなく、私は私の罪を認めている。

 現状に充足しているのであれば、それでよいだろう。飢えも無ければ渇きも無く、夜風に晒されることも無い石櫃の中で横たわり、終わりを待つのが私の運命なのだろう。

 充足した諦観の中で再び硬くて冷たい床に体を横たえる。体の芯へと食指を伸ばしてくる痛みの侵食を遅らせるため、体の向きを変える。私の視界を満たすのは、冷たい灰色だけである。

 絶対に壊れることのないだろう石の壁には亀裂が入っている。そして、その亀裂からはどうしてか光が漏れている。

 光。

 この光は自然な光ではない。一様な明るさと指向性がある。乱れることを知らず、ただ私の目に向かって一直線に光は伸びている。

 そう言えば、私はこの壁をどうして石の壁であると断定したのだろう。私はこれの印象にのみ囚われ、手で触れた時にその印象通りの感触を得たためにこれを石と認識した。それだけに過ぎない。つまり、私はこの壁にまだ一切の確証を得ていない。

 光の漏れ出る亀裂を指の腹で摩る。そして、爪を立てひっかくと、掌に収まる程度の塊(それは石ではなく発泡スチロールのように軽い)が抉り取れた。

 いともたやすく壊せる壁を前にして、自由を渇望しているはずの囚人が停滞を選ぶのであろうか。いや、そのような選択はありえない。囚人に用意された選択肢は脱獄の一択であり、私は両手で亀裂を抉り続ける。抉れば抉るほどこちらに向かってくる光は強烈になり、両目が焼かれる錯覚を覚える。だが、両目が焼かれたとしても、囚人は壁の向こう側にある自由を望むはずである。もはや、私の中に一瞬間前までの充足は存在し得ない。私の中にあるものは自由を渇望する活力だけである。私はこの原動力をもって壁の孔を広げ続ける。

 ゴルフボール程度の孔は、瞬く間に野球ボール程度の大きさとなる。そして視界は段々と白んでいき、もはや孔の大きささえ認知できない。私の眼前にあるのは、眩いばかりの白だけである。

 孔を抉り続け、白む視界の中で身動ぎをして前進し続ける。孔は私を通すのには狭く、芋虫のように体をくねらせなければならない。しかし、私は自由を求めて白い世界を前進し続ける。

 万華鏡のような視界では、空間さえ認識できない。全ては白み、全ては歪んでいる。しかし、私は壁の向こう側に到達した。もはや壁は無く、空間だけがそこにある。

 等身大の孔から這い出て、立ち上がるとそれまで獲得し得なかった疲労が私の身体をどっとのしかかる。私はそれに耐えきれずばたりと倒れる。顔がぶつかった床は、冷たい金属で格子状の形をしているようだ。


「Jさん! 落ち着いて!」


 私の背中に向けて女性が『落ち着いた音声』で心配の声をかけてくれる。牢から脱した囚人に向ける対応ではなく、病人をいたわるような声は、疲れ切った体を微かに癒し、自由を求めて興奮していた精神を安堵させる。


「先生! 鎮静剤を、急いで!」


 女性は柔らかな声で『私』の名前と、その声音に反する『凶器』を呼んでいる。

 なぜ、彼女は疲れ切った私をいたわりながらも、それに反した暴力を要請しているのだろう。もしかしたら、牢から脱獄した囚人である私をこの場で処すつもりなのかも知れない。

 彼女を疑うべきではなく、彼女の声に身を委ねるのが現状における最適解であろう。しかし、私は牢の中で現状に充足していた時と同じものを獲得しておらず、現状に対する猜疑を抱いている。

 不義理を承知で背中を床に向け、彼女の顔を見る。彼女は柔和な笑みを浮かべており、私の心をさらに落ち着かせてくれる。


「Jさん、少しチクッとしますよ」


 しかしてその傍らにいる白衣を着た『私』は、私に向けて自動拳銃の銃口を突きつけている。右手に把持され、引き金には人差し指があてがわれている。


「あっ」


 私が情けない声を発すると同時に引き金は一切の躊躇を示さずに引かれる。目では捉えることができない銃弾が、光とともに射出される。すると、それは私の全てをバラバラにする。

 私は再び全てを失う。

 私は再び切り離される。

 そして、私は私の創り出した孤独な世界に『私』によって連れ戻される。



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匣=自己 鍋谷葵 @dondon8989

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