最終話 あの夏に届け!

 ゴトンゴトンと音がした。


 コースターがレールのつなぎ目を渡っていく。ただそれだけだった。さっきまでの喧騒が、嘘みたいに静かになっていた。

 僕はものすごく緊張していた。体はがちがちに固まっていた。狭いコースターに女の子とふたりきり。しかも、こんな体勢で野崎さんと……。

 みんなに妙な盛り上げ方をされたあとだけに、僕たちはお互いよそよそしくなっていた。会話もなく、じっと耐える時間が続いた。

 しばらくして坂が見えてきた。

 そこから先は、リフトでコースターを引き上げる。フックがついたワイヤーが車体の下にかかった。すると、お風呂コースターは音を立てて傾いた。


「わっ」と、野崎さんが声を上げた。


 彼女の体が浴槽の底を滑って、僕の方に寄りかかってきた。

 ううっ、と一瞬、僕は息を詰めた。野崎さんの細く柔らかい髪が、僕の頬をくすぐった。その途端、胸の鼓動が一気に激しくなって、まるで、彼女の背中を突き飛ばす勢いで高鳴った。

 僕はもう限界に近かった。理性を保つのに精一杯だった。

 けど、そんな僕とは対照的に、野崎さんはくすくすと笑い出してしまった。


「直人の体って柔らかいんだね。背もたれにちょうどいいよ」


 彼女はもぞもぞと体を動かして、座り心地を確認した。


「君の体は、はんぺんみたいだね」


「はんぺん……」と、僕は気の抜けた声を出した。


 たしかに、僕の体に硬い筋肉なんてものはない。白くてぺたぺたとした肌だった。はんぺんとは言い得て妙だけど、あまりうれしくなくて、でも、少し気持ちが落ち着いた。


「ねえ、どこか変じゃない?」


 野崎さんが何かに気づいた。


「ずいぶんゆっくりだよ」


 と、コースターの動きを見やった。


 坂を上る速度が、人が歩くよりも遅くなっていた。今にも止まりそうなほど勢いがなかった。

 ひとり乗りなら、頂上まで二分くらいだけど、この調子だと倍はかかりそう。


「たぶん、重すぎるんだね。ふたり分だし、お風呂の重さもあるし……」


「でも、これくらいゆっくりが、ちょうどいいかも」


 と、野崎さん。


「だって、コースターで下りたら、全部終わっちゃうんだもん。そう考えたら名残惜しいの。この三日間、あっという間だったもん」


 野崎さんは自分の膝をぎゅっと抱え込んた。


「この夏は、私の一生の宝物になったよ。島の人たちと出会って、触れて、感じたんだ。もうこんな体験、二度とできないかも。今は心から、島に来てよかったって思ってる」


 野崎さんはしみじみと言った。


「これも、直人のおかげなんだからね」


「僕?」


「そうだよ。君が島を諦めずにいたから、私はここにいるんだよ」


 野崎さんはうれしそうに笑った。


 僕はその言葉で胸がいっぱいになった。この三日間が特別なのは、僕も同じだ。

 目まぐるしくて、思いがけないことがたくさんあったけど、それはどれも、僕にとって、熱くて、まばゆいほどの出来事ばかりだ。

 僕がこんな体験ができたのも、僕がここにいるのも、野崎さんのおかげだ。


「僕は野崎さんに、すごく感謝してるんだ。僕が……」


「優花って呼んでよ」


 くるりと振り返った野崎さんと目が合った。その大きな瞳が澄んだ光を放っていた。そんな近くで見つめられたら、どきりとしてしまうではないか。


「ゆ、優花にはすごく感謝してるんだ。僕が島に戻れたのも、優花のおかげだから……」


 僕はまた、しどろもどろになってしまった。

 ここは、バシッと決めておきたいところなのに。慣れるのに人一倍時間がかかる僕には、やっぱり、まだ、ちょっと恥かしい。


「私、この島が好きになったよ。また戻って来るから」


「本当に?」


「うん。その時はレールをつなげに来るからね。このまま放っておけないもん」


「そうしてくれるとうれしいよ」


 僕は目の前が、ぱっと明るくなった気がした。

 未完成のジェットコースターは最大の問題点だった。もしこれが完成すれば、おじいちゃんの夢の実現に弾みがつく。小岐島が本当に変わるかもしれない。


「でも、その前に、直人に確認しておきたいことがあるんだけど」


「な、何?」


 一転して、野崎さんの表情が険しくなった。


「梨沙ちゃんとのことだよ」


「梨沙?」


 思いがけない人物の登場に、僕は露骨に嫌な顔をした。


「どうして今、その話なの?」


「だって、ちゃんと説明してもらってないもん。直人ったら、昨日ずっとプンスカして何も話さないんだから。私は直人に裏切られて傷ついたんだよ。だから、今後のためにも、はっきりさせておきたいの」


 野崎さんは不満そうに頬を膨らませた。

 僕は慌てて弁明する。


「誤解の無いように言っておくけど、僕は梨沙と付き合ったことなんてないからね」


「何それ、本当に言ってるの?」


「本当だよ。向こうが勝手にそう思い込んでるだけ。梨沙は頭がおかしいんだよ」


「おいおい」


 僕のあけすけな物言いに、野崎さんは呆れていた。

 だけど、スイッチが入った僕は止まらない。


「梨沙に助けてもらったことは感謝してるよ。でも、何年も前のことなのに、未だに鼻にかけてくるのが、うんざりなんだよ。ねちねちねちねちしつこいんだ。いつも上から目線で、指図してさ。結局、いつも僕が悪いって話へ持っていくんだから」


「はあ……」


「それに、梨沙は何でも力で解決しようとするんだよ。だからみんな怖がってる。それで思い通りになると思ってるんだ。少しでも口を出そうものなら、食ってかかってくるし。もう本当に迷惑。それに……」


「それに?」


「僕のお風呂やトイレを……、覗きに来るんだ……」


 一瞬、世界が凍りついたように静かになった。野崎さんは、ぽかんと口を開けたままだった。

 勢い余って梨沙の闇までバラしてしまったけど、今までの鬱憤を晴らすかのようで、僕は少し気持ちがよかった。


「わ、わかったよ。でも、梨沙ちゃんには絶対に言っちゃダメだからね。墓場まで持って行きなさいよ」


「うん、わかってるよ」


 僕は鼻を膨らませ大きくうなずいた。

 そんなことを梨沙に言ったら、命がいくつあっても足りないことは、僕が一番わかっている。

 そうこうしているうちに、坂は終わりに近づいていた。もうすぐジェットコースターの頂上だ。


「見えてきたよ」


 野崎さんが首を伸ばして言った。


 ほどなく、コースターは水平を取り戻しはじめた。次第に視界が開けてくる。

 そこから先は、緑一色の下り坂が続いていた。木々の間を縫うように、レールが縦横無尽に伸びていた。


「いよいよだね。わくわくする」


 と、大はしゃぎの野崎さんの後ろで、僕は完全に参っていた。


 正直言うと、絶叫アトラクションは大の苦手だった。端から見ているだけでも、すくみ上がるほど怖れていた。

 僕は一度だけ、作品の試験走行で、無理やりおじいちゃんに乗せられたことがあった。その時だって、すごく怖い思いをしたけど、今回はお風呂コースターだ。長谷川さんが絡んでいるしで、無事に帰って来れるかもわからない。

 僕はもう、生きた心地がしなかった。


 ガタンと音がして、コースターがリフトから外れた。なだらかな坂を、ゆっくりと滑り出した。左に大きく曲がると、最初の坂が見えてきた。いよいよコースターが下りはじめる。

 僕は祈る気持ちで天を仰いだ。


「行けー」


 と、野崎さんが奇声を発し、両手を上げた。


「うわあああっ!」


 と、僕は浴槽にしがみついて、悲鳴を上げた。


 轟音を立ててコースターは急降下した。僕のお尻がふわりと浮いて、口から心臓が飛び出しそう。

 お風呂コースターはぐんぐん加速した。

 木々の間を右に左に、ぎりぎりで避けていく。それはまるで、ツバメが地面すれすれを低空飛行するかのようだった。

 小岐島の自然を生かしたジェットコースターを作る。それがおじいちゃんが考えた、作品のコンセプトだ。


「おじいちゃんすごいね! こんなジェットコースターはじめてだよ!」


 両手を広げ、大よろこびの野崎さん。

 彼女の体が左右に揺れる度に、僕の足に柔らかいものが当たるけど、とてもその感触を味わう余裕はなかった。

 僕の頭の片隅には、引っかかるものがあった。


「たしか、この先に……」


 倒れた木をくぐり抜けるトンネルがある。僕は舞い上がる野崎さんの髪を掻き分け、前を見た、その瞬間。


「危ない、頭下げて!」


「ひいっ!」


 野崎さんは咄嗟に身を縮めた。悲鳴とともに、倒木がものすごいスピードで、頭の上をかすめていった。

 僕たちは、ぞっとして顔を合わせた。


「何か変だよ。こんなにスピードが出るなんておかしいよ!」


 僕は必死に訴えた。

 異変は他にもあった。激しい振動が浴槽の底から突き上げていた。僕はまさかと思って下を覗き込む。

 すると、レールを挟んでいる車輪が、がたがたと暴れているのが見えた。軸が折れていて、今にも外れてしまいそうだった。これでは、いつコースターがレールから飛び出してもおかしくない。

 飛んだ火花がレールの上を跳ねていった。


「最悪だ……」


 僕は血の気を失った。


「直人、あれ見て!」


 今度は野崎さんが声を上げた。

 彼女が指を差した向こうに、レールの切れ目が見えていた。終点が目前に迫っていた。

 そこはコースターを減速させるための坂になっていて、レールが弓なりに、大きく上に反り返っている。でも、このスピードでは、とても止まれそうになかった。

 僕は最悪の事態を口にした。


「どうしよう、このまま突っ込んじゃうよ」


「じゃあ、跳ぼう!」


「え?」


 僕は思わず聞き返した。


「本気なの?」


「本気だよ。やるしかないよ」


 野崎さんにためらう様子はなかった。すくっと立ち上がると、片足を浴槽の縁に乗せ、低い姿勢で構えた。


「ほら、早く! 直人もいっしょだよ」


 野崎さんが僕に手を差し伸べた。


 一瞬、呆気に取られたけど、もはや迷っている時間はなかった。僕は覚悟を決め、野崎さんの手を取った。


「行くよ直人、高くだよ!」


「わかった!」


 野崎さんに手を引かれ、僕も彼女と同じ姿勢を取った。お互い腰に腕を回して、離れないように支え合う。

 コースターが最後の坂を進んだ。終点がぐんぐん近づいて来る。コースターは加速したまま、猛スピードでレールの切れ目に突っ込んだ。


 瞬間、大きな衝撃とともに、お風呂コースターは宙を舞った。

 緑の地面が、勢いよく離れていく。

 森を抜けると、目の前は空色一色だった。

 ふたりで、息を合わせてコースターを蹴る。


 より高く、もっと遠くへ!


 野崎さんの腕が、空にまっすぐ伸びていた。その手のひらが、太陽を掴もうとしていた。僕も負けじと腕を伸ばす。

 ふたりいっしょなら、何でもできる気がした。

 あの太陽でさえ、手に入る気がした。

 僕の夢も、野崎さんの夢も、そして、おじいちゃんの夢も。

 僕たちが望むもの、全部。


 どん、と大きなしぶきを上げ、ふたりで海へ飛び込んだ。

 まだ見ぬ未来に、胸を弾ませて。

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パッとしない僕と進路相談がツラい夏 乃代悠太 @yutanoshiro

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