第20話 去る者と残る者
ひなちゃんの助言を受け、僕は灯台へ向かっていた。
場所は島の東側。山の中腹にそれはある。木々で覆われた細く暗い坂道を上っていた。
「梨沙のやつ、わさわざ灯台を選ぶなんて……」
彼女が考えそうなことだった。灯台は僕と梨沙の因縁の場所だった。ふいによぎる嫌な記憶が、僕をいっそう苛立たせた。
とにかく一刻を争う事態だった。僕は早く野崎さんに会いたかった。
この状況を解決する術は僕にはないけど、今はただ、野崎さんが無事でいてくれることを願った。
坂を上りきる途中、ドーム状の白い屋根が見えてきた。高さ十メートルほどの小さな三階建ての灯台だ。
最上階に大きなランプがあって、その下の二階は展望スペースになっていた。突き出した欄干がぐるりと周りを囲っていた。
僕が物陰に潜んで様子を窺っていると、灯台の二階に人影を見つけた。
胸に大きな島の文字。
野崎さんだ!
まさか、あのTシャツが役に立つとは。
すぐ隣に梨沙の姿も見えていた。まだ距離があって、ここからでは何をしているのかわからない。
僕はふたりに気づかれないように、裏側から近づくことにした。何だかこそこそしているのが情けないけど、僕に正面から行く度胸はなかった。
僕は野崎さんの帽子を被ると、鬱蒼とする雑木林に紛れ込んだ。姿勢を低くし、草木を分け入り距離を縮めた。
すると、ふたりの話し声が聞こえてきた。
「島はどう? 気に入った?」
「うん、気に入ったよ。海がきれいだし、お魚も美味しいし」
「で、そのTシャツ何?」
「かっこいいでしょ。えへへ」
野崎さんの笑い声がした。
すでに、お互いをちゃんづけで呼び合っていた。僕は何だか拍子抜けだったけど、深刻な状態ではなく、ほっとする。
何とか灯台の根元に飛びつくと、僕はそこでしばらく様子を見ることにした。息をひそめて、ふたりの話しに耳を傾けた。
「ここから見る景色が、好きなんだ」
梨沙の声だった。
「灯台は子どもたちの遊び場なんだよ。私も小さい頃はこうしてよく登ってたんだ。だから、ここに来ると落ち着く。何も変わらないなって」
「そうなんだ」
野崎さんは短く返した。
そこから望む景色は、ひと気のない森と海だけの殺風景なものだった。おまけに山の影が海まで伸びていて薄暗い。
寂しがり屋の野崎さんなら、南側のにぎやかな景色を選ぶだろう。
「久しぶりに帰って来たって言ってたけど……」
「うん、今は島に住んでない。中学を卒業したあと家を出たんだ。島には中学までしかないから、進学する子は街まで船で通学するんだ。でも、これが結構不便でさ。本数も少ないし、海が荒れると欠航になるんだ。だから、街で家を借りて通ったほうが楽なんだよ」
「みんな島に戻ってこないの?」
「一度離れると、帰ってこない子がほとんどだね。私の兄もそう。街のほうが便利だし、楽しいからね。まあ、私が島を出た理由は別にあるんだけどさ」
「ほう」と、野崎さんが興味を示した。
「聞いてくれる?」
「うん、聞きたい」
「本当の理由は、家庭のいざこざなんだ。会ったんでしょ、あの人と」
梨沙はつっけんどん言い放った。
あの人とは長谷川さんのことだ。実の父親というのに、あまりにそっけない扱いだった。梨沙本人は気にもかけないけど、耳にする方はちょっと悲しくなる。
「家は理容室やってるんだ」
「うん、知ってる……」
「やってるっていっても、お客さんほとんど来ないんだよ。島で唯一の理容室なのに、なぜだかわかる?」
野崎さんは首を横に振った。
「漁師と喧嘩ばかりしてるからだよ。この島は漁師の島なんだ。仲良くやっていかなかったら、誰がお店に来ると思う? 漁師はみんな街へ髪を切りに行くんだ。これで商売が成り立つわけないでしょ」
梨沙は呆れたように、大きなため息をついた。
「結局、お母さんが愛想尽かしてさ。もともと街から嫁いで来た身だし、島に未練もないみたいだし。私も面倒臭くなって、高校進学を期にお母さんと一緒に島を出たんだ」
「そうだったんだ、大変だったね……」
野崎さんは梨沙を気遣った。
これには僕も同情する。
家庭の問題は、梨沙の人生に暗い影を落としていた。家族はすでにバラバラだけど、長谷川さんが頑なに離婚に応じず、ここ数年ずっと膠着状態のままだった。
そんな具合だから僕は気を使って、長谷川さんの前では梨沙のことを口にしないようにしていた。
「挙げ句の果てにあの人、今度はおじいちゃんの作品に飛びついたんだ。直人から聞いてるでしょ」
「うん、ジェットコースターだよね」
「そう、それよ。そんなことしてる場合じゃないだろって。もっと自分のことしっかりしろって感じだよ。あの人は他人の夢に乗っかってはしゃいでるだけなんだ。夢を叶えるとか言ってもさ、そんな簡単なことじゃないでしょ」
「はうっ」と、野崎さんは息を詰まらせた。
まるで、みぞおちを打たれたような声だった。
「それに、直人のおじいちゃんもおじいちゃんだよ。あのジェットコースターは、大事な退職金をつぎ込んで作ったんだ。おばあちゃんのこと、ちゃんと考えてるのかなって思う。そんなことしたって、島が変わるわけないのにさ」
梨沙は当たり散らすかのように捲し立てた。
僕は唖然として、彼女を見上げた。
夢を叶えるのは難しいだとか、島は変わらないだとか、他人の気持ちをそぐようなことを平気で言えるのは、梨沙の特技なのだろうか。
せっかく、野崎さんに元気を出してもらおうと、アトリエを見せたばかりなのに。しかも、栗原家の内情までバラされて、僕にもとんだとばっちりだ。
すでに船が出る時間が迫っていた。
僕は頼むから早く帰ってくれと願っていたけど、そこはやっぱり梨沙だった。また余計なことを言いはじめた。
「実はね、直人は灯台に登れないんだよ」
「何それ、どういうこと? 高所恐怖症とか?」
「そうじゃないんだ。トラウマなんだよ。直人は昔、上級生によく呼びつけられてさ、灯台でいじめられてたんだ」
はあ? と僕は気色ばんだ。
よりにもよって野崎さんに、あの因縁話をするなんて……。
嫌な記憶とともに頭に血が上ってきた。うれしそうに話す梨沙を見ているだけで、僕は歯ぎしりするほど最悪の気分になった。
「最悪だ」
「でしょ。直人は気が弱いから言いなりになって、そいつにやられっぱなしでさ。どんどんエスカレートしていくから、私もすごく不愉快になって。だから、直人をかばってやったんだ」
「それで、いじめは止まったの?」
「ううん、止まらない。今度は私にも嫌がらせしてきたんだ。そいつは私の髪型にケチつけたんだ。こけしってあだ名で呼ぶんだよ」
「こけし……」
「しつこくて失礼な奴なんだよ」
梨沙は怒りがぶり返したのか、激しく毒づいていた。
当時、彼女の髪を切っていたのは、お父さんの長谷川さんだ。家が理容室だからそうなのだ。
「ある日ね、直人が灯台に呼び出されるタイミングで、そいつをシメてやったんだ」
「ええっ、すごい!」
「口で言ってもわからない奴は、拳で教えてやらないとね」
梨沙は臆面もなく言い放った。
でも、彼女は勘違いしている。僕にトラウマを植えつけたのは、梨沙自身だ。
僕が上級生にいじめられていたことは、その一因だけど、戦慄したのは僕の目の前で起こった梨沙の凶行だ。
彼女は空手の有段者だった。
幼い頃から街の道場に通っていた。それでも、上級生が舐めていたのは、梨沙より体格で勝っていたからだけど、そのあと彼が地獄を見るのには、さほど時間はかからなかった。
最初は、胸に一発。
鈍い音が響いたあと、上級生の顔が青ざめた。
彼が怯んだところを、二発、三発と、梨沙は立て続けに打ち込んでいった。
正確に拳を繰り出す彼女の姿は、まさに精密機械のようで、うずくまる相手に容赦なく鉄槌を下した。
彼の悲鳴が、うめき声に変わった。
梨沙の所業は、教育的指導をはるかに超え、相手の心まで打ち砕くものだった。
僕は今も憶えている。拳を振り下ろす彼女の口元に、ほんの少し、笑みが浮かんでいたことを……。
「そういえば、直人にケリをつけるって話、どうする気なの?」
瞬間、僕の心臓が凍りついた。
「ああ、それ。ちょっと脅かしてやろうと思っただけ。何もしないよ」
「はあ、よかった……」
野崎さんと同時に、僕も胸を撫で下ろした。
「直人とは中学二年の時に付き合いはじめたんだけど、彼のお父さんの転勤が決まって、そのまま自然消滅って感じ。私の方も家のゴタゴタがあったから、今はそれも仕方がないなって思ってるんだ」
僕に梨沙と付き合っていた憶えはまったくないし、彼女にそんな感情を抱いたことも一度もない。でも、梨沙の頭の中ではそうなっている。
僕には狂気の沙汰としか思えなかった。
「一年以上付き合ったけど、直人と恋人らしいこと何もなかった。手もつないだことないんだ」
「そうなんだ……」
「直人は極端に口下手でしょ。いっしょにいても全然喋らないんだ。私はあの頃はすごく悩んでた。直人にはそんな私の気持ちなんて、わからないだろうけどさ」
梨沙には僕の気持ちなんてわからないだろう。
「実はここに来た本当の理由は、花嫁候補にアドバイスがしたかったんだ。島に嫁ぐって大変な事だし、知っておいたほうがいいこともあると思ってさ」
梨沙のおせっかいめ。
僕には彼女の行為が、ただ引っ掻き回しただけとしか思えなかった。
「もう船の時間だから行く。話聞いてくれてありがとう」
「私も話せてよかった」
「帰り道、わかる?」
「うん、大丈夫」
「じゃあね」
と、梨沙は野崎さんに別れを告げた。
出港時刻五分前だった。急いで下りれば、間に合う時間だった。
僕の疲労とイライラはピークに達していた。
早く帰ってくれと、心の中で叫んでいたけど、梨沙はふいに、何か思い出したようだ。
「あっ、さっき何も変わらないって言ったけど、直人は変わったかも」
「どんな風に?」
「背が伸びてたし、顔もほんのちょっと長細くなってた。声も大人びた感じ。あと……」
と、少し間をおいて、
「ちょっとは強くなったかな」
梨沙はひとり納得したようにつぶやいた。
彼女は灯台を降りて、足早に港へ向かった。途中、梨沙が振り向いて手を振ると、野崎さんも手を振って応えていた。
梨沙の姿が下り坂の向こうに消えた。
やっと嵐が去って、僕はほっとしていたけど、頭上から野崎さんのため息が聞こえてきた。
見上げると、疲れた様子で欄干に突っ伏していた。
僕は急いで野崎さんの目の前に飛び出した。
「うわっ、そんなところに隠れてたんだ。しかもそれ、私の帽子」
野崎さんは僕の頭を指差した。
「島中探したんだよ。すごく心配してたんだ」
「ふーん、どうだか」
野崎さんは不審な目で僕を見下ろした。
「ちょっと怖い思いしたんですけど」
「ごめんね、怪我はない?」
「ないよ。でも、聞きたいことが山ほどあるから、早くこっちに来てよ。もしかして、登って来れないとか?」
「そんなことないよ!」
僕はムッとして、灯台の入り口へ向かった。野崎さんには悪いけど、今の僕に軽い冷やかしさえ受け流す余裕はなかった。
僕は灯台の中の螺旋階段を踏み鳴らして登った。
二階に着くと僕は顔も合わせず、野崎さんの横についた。
「何で直人が怒ってるのよ!」
野崎さんは信じられないといった表情だった。
でも、僕は押し黙ったまま海を見つめていた。子どもみたいに口を尖がらせ、不機嫌の塊と化していた。
「君は怒ると無口になるタイプなんだね。こりゃ、相当面倒くさいなあ」
と、呆れる野崎さん。
彼女は僕の頭から帽子を取り上げると、物珍しそうに僕の顔を覗き込んだ。
「でも意外だったよ。直人にも島に嫌いなところがあるなんて。しかも、それが灯台だなんて」
「別に、嫌いってわけじゃ……」
僕はいつになく歯切れが悪い。
「実はね、直人が先に進路決めちゃったから、私は内心羨ましかったんだよ。何だか置いていかれちゃった気分で寂しかったんだから。でも今は、ちょっとした仕返しができた気分だよ」
と、野崎さんは屈託なく笑う。
ふと、出港を知らせる警笛が鳴った。しばらくして、山の陰から船が現れた。白い船体を揺らしながら、波立つ海を進んで行く。
僕は梨沙が乗るその船を睨みつけていた。島は変わらないと言った彼女の言葉が、僕を無性に苛立たせていた。
僕は絶対に負けたくなかった。必ず島を変えてみせると心に誓っていた。いつか、その事実を梨沙に突きつけてやるんだと、僕は密かに闘志を燃やしていた。
そんな僕に、野崎さんはそっと微笑みかけた。
「この灯台も好きになれたらいいね」
そのやさしさに満ちた言葉が、僕の胸をチクリと刺した。
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