第19話 その女の名はハセガワ
その女はやばい。早くここから逃げるんだ。
僕の体が危険信号を発していた。死の恐怖が頭をかすめる。でも、逃げ場なんてどこにもなかった。出口はすでに塞がれていた。またしても予想外の事態に、僕は天を仰いだ。
「どうして帰って来たんだって顔してるね。別にいいでしょ、この島は私が生まれた場所なんだから」
女は全部お見通しとばかりに、ほくそ笑む。
僕は実に不快だった。まるで、頭の中に手をつっこまれているような気持ち悪さだった。僕はその女の身勝手で、暴力的で、思い込みの激しい性格に、ずっと苛まれてきたのだ。
この三日間で、絶対に出くわしてはならない人物だった。
「ねえ、どちらさん? ちゃんと紹介してよ」
野崎さんが呑気にせっついてきた。僕は声を絞り出すように答えた。
「あ、あの人は長谷川
三年ぶりに見た梨沙の容姿は、まったく変わっていた。
まさか、彼女のスカート姿を見るなんてと、僕は内心驚いていた。髪も肩にかかるくらいまで伸ばしていて、都会的でおしゃれな印象に。
いつも上下スウェットで島をうろついていた頃とは大違いだった。
「直人は私のことを、ただの同級生と思ってたんだ」
梨沙の低くしゃがれた声が、余計に怖かった。僕はぎろりと睨みつけられ、おしっこが出口付近まで下りてきた。
「野崎優花さんだよね、噂になってるよ。すごくかわいい花嫁候補が島に来てるってさ。私もそれを聞いて、居ても立ってもいられなかったんだ」
梨沙の言葉尻に、怒りと憎しみがこもっていた。
アトリエの空気が一気に凍りつく。
「直人にはもう、私が戻ってきた理由がわかるよね。今日は私たちの関係に、ケリをつけに来たんだよ」
「はあ?」
と、野崎さんは顔を曇らせた。
「関係? ケリ? どういう意味? 直人、ちゃんと説明してよ……」
動揺する野崎さんの視線が、僕と梨沙の間を何度も行き交った。
「こんなの最低だよ……」
野崎さんは疑いの目を僕に向ける。
「い、いや、ちょっと待って……。冷静になろう……」
僕は何とか落ち着かせようとしたけど、野崎さんはみるみる顔をこわばらせた。そして、しどろもどろの僕に業を煮やした野崎さんは、全身で怒りをあらわにした。
「直人のウソつき!」
これが修羅場というやつでしょうか……。
野崎さんの剣幕に、僕は一瞬、めまいを覚えた。でも、僕がふたりに咎められる筋合いはなかった。
だって、僕と梨沙の間に、特別な関係なんてないのだ。因縁はあっても、誓って恋仲になったことなんて一度もなかった。梨沙は勝手にそう思い込んでいるだけの、頭のおかしい人なのだ。
野崎さんの絶対条件があるがゆえ、花嫁候補が嘘だとは言い出せなかった。かといって、梨沙との関係が誤解だと言えば、命の保証はない。
僕は完全に板挟み。
なぜだか、野崎さんまで本気で怒っているしで、僕はこの状況に、どうすることもできず、ただ、そっと目を閉じた。
「ちょっと、何ひとりで、すん、としてるのよ。何か言いなさいよ、もう!」
僕は野崎さんに激しく体を揺さぶられた。
「ふたりだけで、話がしたいんだけど。表に出てくれる?」
「行って来なよ! ふん!」
野崎さんにも見放され、僕の処刑は決定した。きっとこのあと、アトリエから引きずり出され、梨沙にひどい目に合わされるのだろう……。
僕は恐怖でぎゅっと目を閉じていた。近づく梨沙の気配に震え上がっていた。
だけど、しばらくして、その気配が僕の前を通り過ぎるのがわかった。
妙な気がして、僕がおそるおそる目を開けると、あろうことか、梨沙の手が掴んでいたのは野崎さんの腕だった。
「ちょっと、借りるよ」
「私ですか、ひいっ」
野崎さんの悲鳴がして、僕は声を荒らげた。
「離せよ、優花は関係ないだろ!」
「直人に用はないよ。ここにいな」
「そんなわけにいくかよ、離せってば!」
必死に食い下がる僕に目もくれず、梨沙は強引に野崎さんを外へ連れ出した。僕だけアトリエに残すと、彼女は勢いよくシャッターを閉めてしまった。
「何考えてるんだよ、梨沙の馬鹿!」
彼女の頭ごなしのやり方に、僕は柄にもなく悪態をついた。やり場のない怒りで、体がわなわなと震える。
とにかく、ここを出ないことにははじまらない。
僕はすぐにシャッターを開けようとしたけど、梨沙とは違い、僕にはピクリとも動かせなかった。
素手では無理だと諦めて、近くにあった足場パイプを手に取った。
すごく重くてバランスを崩したけど、何とかそれをシャッターの隙間に差し込んだ。あとは、てこの原理でこじ開けるのみ。
僕は不満をぶちまけながら、力まかせに引き上げた。
「梨沙は何であんな上から目線で偉そうなんだよ! いつもいつも昔のことを鼻にかけてさ! もう十七だよ、大人なんだよ。僕は小学生じゃないっての!」
ひとりで怒鳴っているのは滑稽だけど、この方が、なぜか力が入るから不思議だった。バキバキと音を立てて開いたシャッターは、何とか通り抜けられるくらいには広がった。
僕は作業台にあった野崎さんの帽子を手に取ると、そこから芋虫のように這い出した。
「優花!」
僕は急いで辺りを探した。
だけど空き地には、ふたりの姿は見当たらなかった。慌ててスマホを手に取るも、ここは圏外。僕は野崎さんを見失ったことに気がついた。
「大変だ、どうしよう……」
僕は完全にパニックになっていた。考えるより先に走り出していた。
「優花、優花!」
僕は叫び声を上げながら、猛スピードで来た道を戻った。鬱蒼とする森を抜けると、飛び込むようにして集落に入った。
「優花!」
僕は彼女の名前を呼び、必死に探し回る。
この島の家屋はどれも密集していて路地も狭い。容易に人を隠してしまうほど入り組んでいる。事件が起こりそう、なんて冗談めかしていた野崎さんの言葉が甦ってきた。
真夏の孤島連続失踪事件……。
本当にそんなことになったら、洒落にならない。
「優花!」
僕は不安を拭い去るように、一心不乱に叫び続けた。
気がつくと、僕は港まで下りていた。そこで偶然、小さな人影を見つけた。釣竿とクーラーボックスを抱える少女がいた。
「ひなちゃん!」
「あ、直人くん」
僕は彼女のもとに駆けつけると、息を切らせ尋ねた。
「優花、見なかった?」
「見てないよ。どうしたの?」
「梨沙が帰って来たんだ。優花をどこかへ連れて行っちゃったんだよ……」
「それは大変だ!」
と、ひなちゃんは目をまん丸に見開いた。
「どこへ行ったか、心当たりある?」
「梨沙ちゃんが行きそうなところ……」
しばらく、うーんと難しい顔で考えたあと、ひなちゃんは悩ましげに答えた。
「もしかしたら、灯台かもしれないよ」
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