第17話 宙を舞う島Tシャツ
島Tシャツが、ふわりと宙を舞っていた。
その行方を目で追うと、ほどなく、僕の頭の上に被さった。つかの間、野崎さんのいい匂いに包まれた。
僕が島Tシャツを取り払うと、彼女は履いていたハーフパンツに手をかけていた。ホックが外れると同時に、それが何の抵抗もなく、足首まですとんと落ちた。
僕は思わず息を呑んだ。そのまま呼吸をするのも忘れ、野崎さんの体を見つめた。
走高跳びの選手特有の、すらりとした体型は少し痩せて見えたけど、お尻から太ももにかけて、しなやかな筋肉が覆っていた。
高く舞い上がるために鍛えられた体だった。
「今日は泳ぐって決めてたんだ」
そう明かした野崎さんは、真っ白なビキニの水着を着ていた。胸元にはフリルがついていて、潮風になびかせていた。
僕は我に返り、彼女を諌めた。
「ここは泳ぐ場所じゃないよ」
「海があるなら泳げるでしょ。先に行くから、これ、畳んでおいて」
野崎さんは脱いだハーフパンツを足首に引っ掛けると、僕の方へ器用に蹴ってよこした。すると、こっちの返事も待たず、彼女は防波堤の向こうへ飛び降りた。
「だから、危ないってば!」
僕は肝を冷やした。
たしか防波堤の向こうは、高さ二メートル以上あったはず……。
急いで下を覗き込むと、野崎さんは体のバネを使って着地したようだ。何事もなかったように、海へ駆け出していく。
「まったく、あの人は無茶ばかりする……」
僕は鼻を鳴らしながらも、言われた通り野崎さんの服を畳んだ。荷台にあった帽子を拾うと、自転車のカゴに服と一緒にしまった。
さて、これからどうしたものかと考える。
野崎さんのように、防波堤から飛び降りる勇気は僕にはない。
監視所に海岸に下りる階段があった。僕はおとなしく、それを使うことにする。少し遠回りして、そこから野崎さんのあとを追った。
防波堤の向こう側は磯になっていた。低い岩場が不規則な海岸線を作っていた。目に見える大きなものから、気づかないほど小さなものまで、黒い岩礁がところどころ、海面から顔を覗かせていた。
野崎さんは辺りをぐるりと見渡した。
「海も穏やかだし、天気もいい。今日は海水浴日和だね」
彼女の口元に笑みが戻っていた。どうやら機嫌を直してくれたようだ。泳ぐ気満々で、ストレッチをはじめた。
そんな野崎さんに僕は注意点を告げた。
「海に入るなら足元に気をつけてね。裸足だと何かの拍子で怪我しちゃうから、靴は履いたままで」
「わかった」
「あまり遠くまで行かないでね。何かあると大変だから」
「うん」
「じゃあ、あとはご自由に」
僕はそれだけ言って、防波堤の根元まで戻ろうとした。自転車漕ぎでへとへとの体を休めるには、その壁がいい背もたれになる。
けど、僕が踵を返すとすぐ、野崎さんに腕を掴まれた。
「どこにいくの?」
「ちょっと、涼みに」
「まさか、私ひとりで泳がせる気?」
「でも、僕は」
嫌な予感がした。野崎さんがニヤリと笑った。
僕の腕をぎゅっと握り締めると、彼女は強引に海の方へ引っぱりだした。
「ほら、早く! 直人もいっしょに泳ぐの!」
「ちょ、ちょっと待ってよ」
野崎さんはもの凄い力で、戸惑う僕を引きずって行く。こっちはまだ、何の準備もできていないのに。
僕は必死にズボンのポケットをまさぐった。スマホに財布、自転車の鍵。ほとんど投げ捨てるように地面に落とす。
僕の慌てぶりに、野崎さんは大笑いだった。つられて僕も笑顔になる。
もう、服なんて濡れてもよかった。どうせすぐに乾くだろう。
潮溜まりを避けながら、僕たちは海へ走った。岩場の切れ目に狙いを定め、ふたりで勢いよく海へ飛び込んだ。
ばーんと、高くしぶきが上がった。
「気持ちいい!」と、ふたりでいっしょに叫んだ。
海の中は冷たくて、火照った肌を冷ましてくれた。溜まった疲れも吹き飛んで、体がふわりと軽くなる。
「ねえ、あの岩場まで競争しようよ!」
突然、野崎さんのひと声で勝負がはじまった。ゴールは少し沖にある一番目立つ岩場だった。そこは人が乗れるくらいの大きさがある。
「先に行っちゃうよ」と、野崎さんがスタートを切った。
僕もすかさず、あとに続いた。
先を行く野崎さんは、余裕ある泳ぎを見せていた。ときどき仰向けになって楽しそう。
「やっぱり、日本海はしょっぱいなあ」
なんて言って、彼女は舌を出しておどけていた。
海は青く透き通っていた。底の様子までくっきりと見えていた。ふたりの影が下まで届いて、まるで空に浮かんでいるみたいだった。
僕たちを縛るものは何もなかった。この広々とした美しい海はもう、ふたりの思うままだった。
しばらくしてゴールの岩場にたどり着いた。勝利は野崎さんに譲ることにして、僕たちは岩にしがみついた。ここまで来ると、もう足は届かない。
野崎さんは満足げに笑みを作った。
「直人、泳ぐの上手いじゃん」
「泳ぐのは得意だよ。走るのは苦手だけど」
なにせこっちは島育ちだ。
幼い頃から海で泳いできたのだ。プールがない小岐島の学校は、水泳の授業を港の一画で行う。防波堤で囲まれたそこが、即席のプールになる。
「島の子どもはみんな、海で泳ぎを覚えるんだ」
「そっか、こんなにきれいな海が近くにあるんだもんね。羨ましいよ」
野崎さんに島のことを褒められて、僕は自分のことのようにうれしかった。
「でもね、さっきからすごく、くすぐったいの。私の体をこちょこちょしてくるんだ」
野崎さんは肩をすくめ身悶える。
彼女の足元を見ると、赤茶けたひだのようなものが蠢いていた。
「藻だね。この一帯は藻場なんだ」
海藻が波に揺れていた。海の底を覆い隠すほど密生していた。それが肌に触れると、もぞもぞとした、何とも言えない感触に襲われる。
水着の野崎さんはなおさらだろう。
「
「じゃあ、直人に何か獲ってきてもらおうかな。それを夕食のおかずにしよう」
「もう、ごはんの話?」
僕は呆れる。
「ひなちゃんに教えてもらったの。海の底に落ちてるって。でも、私が勝手に獲ったら駄目なんでしょ?」
「罰金百万円になります」
「高っ」と、野崎さんは目を丸くした。
厳しいとは思うけど、そこまでしないと好き勝手に漁られてしまう。資源を守るためにも、必要なことだった。
「そんな大金、私には無理。だから、直人に獲ってきてほしいの」
「急にそんなこと言われても……」
島民であれば、その日の食事代を浮かすくらいなら、獲っても構わないことになっている。それはこの島だけのルールだけど、海女さんでもないのに、潜ってまで獲ろうなんて島民はいない。
「漁師じゃないんだよ。それに、道具もなんじゃ……」
僕が返事をしぶっていると、野崎さんの頬が次第に膨らみはじめた。おまけに、うーん、と唸っている。僕はまた彼女が怒り出すのではないかと縮み上がった。
「わ、わかったよ。でも、あまり期待しないでね……」
まったく気が進まないけど仕方がない。
僕は胸いっぱいに空気を吸い込むと、勢いよく海の中に潜り込んだ。
そして、海面を蹴って海の底へ向かう。冷たい水の壁を切り裂くように、腕を伸ばして大きく掻いた。
すると、景色は一変した。目の前に広がるのは、海の森だった。海藻の群れがどこまでも、絶え間なく続いている。
陽の光が、まるでレースのカーテンみたいに、帯になって差し込んでいた。その合間を縫うように、悠々と魚たちが泳ぎ回る。
藻場は生き物たちの産卵場所だ。
そして、彼らにとって豊富な餌場でもある。海藻がゆりかごのように、たくさんの命を育んでいた。
僕はその神々しさに、思わず見惚れた。
これが島の宝だった。豊かな海の証だった。僕たちはこの美しい森を守らなければならない。
それが、この島で生きる僕らの使命だ。
早速、野崎さんから仰せつかった仕事に取り掛かる。
僕は海底まで来ると、岩の隙間に狙いを定めた。海藻をかき分け手探りで探す。手に触れられれば何でもよかった。とにかく、野崎さんをよろこばせてあげたかった。必死に手を動かしていると、指先に何かが当たった。
僕は慎重につまみ上げる。
それは、小指の先くらいの大きさの、小さな黒い固まりだった。面白いものが見つかって、僕は思わず笑みをこぼした。
ズボンのポケットにそれをしまうと、早速、野崎さんのもとへ急いだ。
海面に顔を出すと、野崎さんが岩場の上にいるのが見えた。僕が潜る様子をそこから眺めていたようだ。僕の顔を見るなり声をかけてきた。
「獲れた?」
「うん、獲れたよ」
「おおっ、すごいじゃん!」
野崎さんは興奮して立ち上がると、
「早く上がってきて!」
と、急かしてきた。
野崎さんに手招きされながら、僕は岩場によじ登る。
だけど、海から上がった途端、体にずっしりと重力がかかった。服は海水をたっぷり吸っていて、体が押さえつけられているみたいに重かった。
何とか野崎さんの元に辿り着くと、図らずも、僕は彼女の前で片膝をついた。
「じゃあ、見せて」
「では、お手を」
「はい」と、野崎さんは手を差し出した。
ぴんと伸ばした手のひらに、期待がこもっているのがわかった。僕は野崎さんの手を取ると、ズボンのポケットからそれを取り出した。
そして、彼女の白く柔らかい手のひらに、そっと置いた。
「ん?」
と、眉をひそめる野崎さん。
「何これ、ただの石ころじゃん」
「石ころじゃないよ。生き物だよ。何だと思う?」
見かけはただの黒い塊だけど、よく見れば、小さく渦を巻いているのがわかるはず。
しばらくして、野崎さんは気づいた。
「これ、サザエの赤ちゃんだ」
「そう。この藻場で育ててるんだ。海藻を食べて大きくなるんだよ」
「へえ、そうなんだ。よく見るとかわいいかも」
野崎さんは指先でやさしく撫でる。
「まだ小さいから、最近撒いたものだと思う」
「それも直人の仕事なんだね」
「そうだね」と、僕はうなずいた。
生まれてすぐの、生存率が低い時期を水槽で飼育し、ある程度大きくなったら海へ放流する。一般的に栽培漁業と呼ばれている。これは漁協が担う仕事のひとつだ。
「どれくらいで大人になるの?」
「五年くらいかな」
「五年か……」
野崎さんはため息をつくと、サザエの稚貝をつまみ上げ、陽にかざしていた。
時間はあっという間に過ぎていった。太陽はすでに西に傾いていた。空には大きな入道雲が、海を跨ぐように立ち上っている。
すっかり遊び疲れた僕たちは、大の字になって海に浮かんでいた。頭の中を空っぽにして、波に身をゆだねる。ただそうしているだけで満たされていった。心が羽のように軽くなっていく。野崎さんは言った。
「体から抜け出したみたい。空から自分を見ているような感じ……」
辺りは光に溢れていた。海が火花のように煌めいていた。その中に野崎さんはいた。
僕はに彼女がすごくまぶしくて、気が遠くなりそうだった。
「こんな気持ちになるなんて思ってもみなかった。このまま消えちゃいそうなくらい安らいでる。そんなの絶対に嫌なのに。ずっと怖がってたはずのに……」
「どうして怖いの?」
僕は尋ねた。
「ときどき、自分が誰なのかわからなくなるんだ。本当の私って何なんだろうって……」
僕は驚いて体を起こした。
野崎さんの声が弱々しくて、普通ではないことに気がついた。
「このままじゃ駄目だってわかってるの。でも、どうすればいいのかわからないの……」
彼女の顔に苦悩が滲んでいた。
その眉根を寄せる表情が、あの日の野崎さんと重なった。それは、僕が花嫁候補を頼みにいった日のこと。彼女の進路相談が終わったあとだ。
野崎さんは泣いていた。
悔しそうに大粒の涙をこぼしていた。その姿が、僕の脳裏に甦えってきた。
「ずっと気になってたんだよ。何があったの?」
僕の問いかけに、野崎さんはぎゅっと瞼を閉じた。
そして、抱えていたものを解き放すように、ゆっくりと話しはじめた。
「私のお父さんは建築家なんだ。業界では有名なんだよ。みんなが一度は目にしたことがある競技場や、美術館をたくさん作ってるの。私にとって、幼い頃からの憧れなんだ。優花ちゃんのお父さんはすごいね、って言われるのが私の自慢だったの。私もいつか建築家になるんだって。お父さんみたいに、すごい作品を作るんだって。それが私の夢なの」
「頑張ってるんだね」
「うん。頑張ってる」
野崎さんはまぶしそうに空を見つめる。
「第一志望の大学で、お父さんの後輩が教鞭をとってるの。待ってるぞって、はっぱをかけられてる。みんな私を応援してくれるんだけど、全然駄目なの。勉強も手につかないくらい怖気づいてる。お父さんと同じ道に立とうとしたら、見えたものが違ったんだ。現実はすごく長くて厳しい道のりなんだよ。大学行って、実務経験積んで、資格取って。それでやっとスタートラインに立つんだ。サザエの赤ちゃんが大人になるより、もっと時間かかかるんだから……」
野崎さんは小さく吐息を漏らした。
まるで、胸の内から悲しみが溢れてくるようだった。
「ずっと抱いてきた夢も、お父さんの存在も、私には大きすぎるんだって。私には手が届かないんじゃないかって、そんなことばかり考えてる……。怖いんだ。全部失いそうで怖いの。好きじゃなきゃいけないのに。それが私の力だったのに。もうそれさえも消えてしまいそうなの。直人が島のことを好きみたいに、私もちゃんと好きでいたいのに……」
野崎さんは目にいっぱい涙を溜めていた。
それが今にもこぼれそうで、見ている僕も辛かった。
後から調べてわかったことだけど、野崎さんのお父さんは業界を席巻するほどの実力者だった。以前調べてもわからなかったのは、本名で活動していなかったからだ。その時の僕にはたどり着けない情報だった。
「進路相談の時は気持ちが爆発して、先生と喧嘩しちゃった。私のために言ってくれることでも、すごく苦しかったんだ」
「先生は、熱い人だしね」
「うん」
と、野崎さんはうなずくと、ゆっくりと体を起こした。
「学校がはじまったら、謝りに行かなくちゃ」
野崎さんはほんの少し笑顔を見せていたけど、表情はまだぎこちなかった。濡れた髪がぴったりと体に張りついて、弱々しく見えた。
僕は悔しかった。野崎さんにしてあげられることが何もなくて悔しかった。でも、あの人なら、きっと教えてくれるはず。だから、僕はそうしようと決めた。野崎さんの好きが、ずっと続くように。
僕は彼女に告げた。
「君に見て欲しいものがあるんだ。おじいちゃんのアトリエだよ」
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