第16話 花嫁候補はご乱心

 防波堤はぐるりと島を囲んでいた。その壁沿いに道があった。


 僕たちを乗せた自転車は、その一本道をひた走る。ここまで来ると、人の気配はまったくなかった。僕と野崎さんのふたりだけ。


 波の音が聞こえていた。風が潮の匂いを運んでくる。


 海は瑞々しく澄み渡っていて、まだ、何色にも染まらない青さだった。

 僕はこのきれいな景色を見れば、野崎さんの機嫌も直ると思っていた。でも、どうやら当てが外れたようだ。


「海、きれいでしょ……」


「……」


 野崎さんに返事はなかった。彼女は無言を貫いていた。頬を膨らませて、ただ海を見つめている。さっきからずっとこの調子で、顔も合わせてくれなかった。

 僕はどうしたらいいかわからなくて、それを誤魔化すように、必死に自転車を漕ぎ続けた。

 無情にもタイヤは空気が漏れていて、次第にペダルが重くなる。おまけにこの強烈な陽射し。熱気のせいで、コンクリートの地面が揺らめいて見えた。

 すでに、僕の体力は限界だった。意識も朦朧としていた。こんな時、野崎さんが笑顔を見せてくれたなら、僕はもっと頑張れるのに……。

 このまま、沈黙が続くかに思えたけど、突然、野崎さんが口を開いた。


「私はいらない子……」


「な、何だって?」


 僕が慌てて振り返ると、野崎さんは辛そうに目を細めていた。うっすら生えたもみあげが、汗で濡れているのが見えた。


「直人は私のことが、嫌いになったんだ……」


 野崎さんの異変に、僕は返す言葉がなかった。

 頭の中ははてなだらけ。

 いったい、何が起きたのだろう。


「芽依から聞いたんでしょ。私が手に負えないじゃじゃ馬だって……。ちゃんと知ってるんだから……」


 芽依とは、野崎さんと仲のいい女子三人組のひとり。真ん中にいた、ショートカットの女の子だ。


「直人も内心、私のことを、じゃじゃ馬な奴だと思ってるんでしょ。私が島のボスに掴みかかったりしたから、本当は迷惑してるんだ。だから、私を捨てに行くんだ……」


 野崎さんは柄にもなくしょぼくれていた。その声は、今にも消え入りそうなほど小さかった。

 僕は首を横に振った。

 迷惑だなんてとんでもない。僕は野崎さんのおかげで、こうして島にいられるのだ。感謝してもしきれないくらいだ。捨てるとか、ちょっとよくわからないけど、これ以上刺激しないように、僕はやんわりとなだめる。


「そんなことないよ」


「じゃあ、私の寝相の悪さに幻滅したんだ……。あんなはしたない姿を見たら、誰だってそう思うよね。直人にはまだ、知られたくなかったけど……」


 野崎さんは唇を噛んで、悔しそうにしていた。

 僕はまた首を振った。

 幻滅なんてしていない。確かに衝撃的ではあったけど、僕は無意識でそうなってしまう人のことを卑下したくなかった。やはり、野崎さんも普通の女の子。気にしないわけがなかった。あんな場に居合わせた僕の方が、申し訳ない気持ちだった。

 僕はまた、やんわりとなだめる。


「そんなことないよ」


「じゃあ、私が変なTシャツ着てるから……」


 それは思う。


 あっ、いや、だめだ。あやうく、うなうずいてしまうところだった。今は我を捨てるべき時。絶対に間違えてはならない場面だ。

 ここは、ごく自然に、野崎さんに悟られないよう、僕はやんわりとなだめる。


「そ、そんなこと、ないよ……」


 野崎さんの眉がピクッと跳ねた。

 まるでウソ発見機が反応するかのようだった。しまったと思った時には遅かった。背中に刺すような視線を感じた。


「もういい、ここで降ろして!」


 野崎さんは声を荒らげた。


「そんなこと言わないで。お互い何か誤解してるんだ!」


 僕は必死に訴える。


 道の先に小さな建物が見えていた。そこは密漁を取り締まる監視所だった。僕はこれ幸いと、最後の力を振り絞ってペダルを踏み込んだ。


「向こうに小屋があるでしょ。そこへ行こう。そこで落ち着いて話しをしよう」


「もう話すことなんてないよ」


「す、すぐそこだから。日除けにもなるし、涼めるし」


「もういいって言ってるでしょ。ここで脱ぐから!」


「脱ぐ?」


 確かにそう聞こえて、僕はブレーキをかけた。

 振り返ると、荷台にはストローハットがひとつだけ。

 すでに自転車を降りた野崎さんは、防波堤に手をついて、その上に飛び乗ろうとしていた。

 僕は自転車のスタンドを立てると、急いで彼女のもとに駆け寄った。


「何してるの、危ないよ!」


 僕の制止も聞かず、野崎さんは防波堤の上に立ち上がった。その視線をまっすぐ海に向けていた。

 僕の脳裏に彼女の言葉が甦る。


 まさか、本当に?

 ここで?


 動転する僕を尻目に、野崎さんは島Tシャツの裾に手をかけた。それから、ゆっくりとたくし上げると、何のためらいもなく、大空へ脱ぎ捨ててしまった。

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