第15話 水色自転車で行こう!

 自転車は裏庭に置いてあると、おばあちゃんが言っていた。

 早速取りに向かうと、軒下の薄暗い場所にひっそりとそれはあった。埃まみれのカバーを外すと、意外にも、きれいな状態を保っていた。


 現れたのは水色の自転車だった。


 久しぶりの再会で、僕の記憶からすっかり抜け落ちていたことに気づいた。こんな色をしていたのかと、僕はあらためて驚いていた。

 島で自転車に乗ることは滅多にない。

 狭い上に坂が多いから、歩くほうが手っ取り早い。島を一周しようなんて気を起こして、やっと自転車が選択肢に上がるくらい。あまりの出番の無さに、かわいそうな気がしてくる。


 僕は自転車を押して玄関先へ戻った。すると、野崎さんが空気入れを持って待っていた。


「かわいい自転車だね」と、野崎さん。


 その胸には、相変わらず島の文字が異彩を放っていた。

 彼女にはストローハットは似合っていたけど、島Tシャツの違和感は拭えない。ここに来るまで、僕は何度か説得したのだが……。やはり、今日はそれで行くのですね。


「タイヤの空気、抜けちゃってるね」


「うん、ずっと使ってなかったからね」


 タイヤは前も後ろも完全に潰れていた。自転車を動かすとキュルキュルと、ゴムが擦れる音がした。


「はいっ」と、野崎さんから空気入れを渡され作業開始。


 僕はタイヤのバルブにホースをつないで、空気入れのレバーを押し下げた。でも、いくらやってもタイヤは簡単には膨らまない。軽い運動と思っていたのが甘かった。

 陽射しはすでに真夏の様相だった。

 レバーを動かす度に、どっと汗が噴き出してくる。僕は息を切らせ必死に空気を入れた。

 しばらくして、涼しい顔で見ていた野崎さんが、突然、妙なことを言いはじめた。


「ねえ、直人の家のトイレって、どうしてあんなにおぞましいの?」


「おぞましいって……」


「あのトイレだけは、何回使っても慣れないよ。この世界に、あんな邪悪な穴があるなんて……」


 野崎さんは顔を曇らせた。


「他人の家に来てなんてことを……」


 我が家のトイレは形こそ洋式だが、水で流すことはできない。出したものは穴に落ちて溜まるだけ。いわゆる汲み取り式便所だ。離島ではよくあるトイレ事情で、これに関しては慣れてもらうしかない。

 僕はレバーを上下しながら野崎さんに伝える。


「あとで話すって言ってたことなんだけど」


「うん」


「十時になったら衛生車が来るんだ」


「衛生車って何?」


「トイレの下に溜まったものを汲み取る車だよ。バキュームカーってやつ」


 当然、トイレ下のタンクにも限界がある。ある程度溜れば、それを汲み取ってもらわなければならない。衛生車からホースを長く伸ばして、各家庭を回るのだ。


「作業中はどうしても臭うから、外で時間を潰した方がいいってこと」


「そういうことだったんだ……」


 野崎さんは一応納得したようだが、表情はどこか浮かない。


「じゃあ、さっき私がしたのも……」


 まあ、当然そうなるが。

 僕は何を言わんやといった感じだったけど、野崎さんはどこか物憂げだった。彼女は胸に手を当てると、そっと静かに目を閉じた。

 僕にはその姿が慈しむようにも、祈るようにも見えた。しばらくして、ゆっくりと目を開くと、彼女はトイレに向かってこう告げた。


「さようなら、私のウンチ……」


 別れを惜しんでいるのだろうか。かなり謎だが、僕は無視して作業を続けた。




 頑張った甲斐あって、自転車は息を吹き返した。タイヤは硬く膨らんで、ハンドルの動きも軽くなった。これなら、ふたりで乗っても大丈夫そう。

 僕が先に跨ってみた。


「どんな感じ?」


「うん、いい感じ」


 時刻は午前十時近く。時間もちょうどいい感じだった。


「あっちに坂があるから、そこから下りよう」


「うん」


 その坂道は集落の間を縫うように港まで続いていた。自転車ならそこを通るしかない。

 野崎さんも後ろの荷台に跨がった。


「さあ、島巡りへ出発だ!」


 彼女の威勢のいい声に背中を押され、僕はペダルを踏み込んだ。

 滑り出しは快調だった。

 ペダルを数回漕ぐと、すぐに坂道に出た。ハンドルを左に切ったら、あとは坂を下るだけ。自転車はぐんぐん加速した。


「最高、風が気持ちいい!」と、上機嫌の野崎さん。


 自転車は狭い路地を走り抜けた。景色が勢いよく通り過ぎていく。

 その家と家の合間から切れ切れに、光る海が望めた。まるでカメラのフラッシュを焚いたように、目にもまぶしかった。

 しばらく下り続けていると、野崎さんが何かを見つけた。


「ねえ、あの建物、何?」


 彼女が指を差したのは、屋根と柱しかない建物だった。簡素な作りだけど、島で一番大きく目立っていた。


「あれは荷捌き場だよ」


 と、僕は答える。


 そこは、水揚げした魚を仕分けする漁協の施設だった。朝は女将さんもそこで働いている。


「誰かいるかな」


「いると思うけど」


「じゃあ、顔出しに行こう」


「どうして?」


「せっかく直人が働けるようになったんだから、挨拶しに行くんだよ」


「別にいいよ。みんな顔なじみだし」


「私が行きたいの。見学したい!」


「ダメ」


「何でだよ!」


 野崎さんは目を剥くと、自転車を揺すって暴れはじめた。


「危ないからやめてよ!」


 僕は肝を冷やして叫んだ。


 野崎さんがまた、じゃじゃ馬の本領を発揮しはじめたようだ。まるで子どもみたいに、うんうん唸っている。

 僕は必死にハンドルを握りながら、あることを思い出していた。それは島に来る前、野崎さんと交わした約束だった。


『死ぬまで一生、秘密を明かさないこと——』


 秘密とは、花嫁候補が嘘であるということだ。

 そのことを一生口にするなと、野崎さんから言われていた。僕は死ぬまでなんて大げさだなと思っていたけど、もしかしたら、僕がプロポーズまがいなことをした、当てつけかもしれない。

 とにかくそれが、野崎さんが僕に出した絶対条件だった。

 この三日間が終われば、当然関係は解消する。島の人たちには、僕がフラれたと説明することになっていた。

 そうなると、あとで肩身の狭い思いをするのは僕の方だ。

 だから、野崎さんのことを知られたくなかった。彼女を外に連れ出したくもなかった。衛生車が来なければ、ずっと家に押し込んでおくつもりでいたのに。

 僕はそんな胸の内を明かしたいところだったけど……、ちょ、ちょっと野崎さん、自転車を揺らすのは止めなさい。


「だったら、長谷川さんの家は? 8トラ見に行きたい。興味があるなら家に来てもいいって言ってたもん」


「朝、電話したけど、今日はどうも無理みたい」


「どうして?」


「長谷川さん、二日酔いで動けないんだって」


 野崎さんの歓迎会のあと、朝まで飲んでいたようだ。

 彼を知っている人なら、酔いつぶれるなんて、特に珍しいことではなかった。ああ、またかって感じで、慣れたものだった。

 ちょうど坂が終わり、港に面した道に出た。ほどなく、長谷川理容室の前に差し掛かる。

 案の定、店は閉まっていて、サインポールは止まったまま。窓越しに見える店内も薄暗かった。きっと、長谷川さんは今、部屋の奥で寝ているのだろう。

 僕たちは、ゆっくりと店の前を通り過ぎた。そのまま東の海道から、ひと気のない島の裏側へ向かう。

 実は、僕には僕の考えた、島巡りのプランがあった。それは、ただ島を一周するだけ。

 背後から野崎さんのため息が聞こえた。


「私ノ島巡リ、コレジャナイ……」


 まるで感情のないロボットのようだった。

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