第14話 特別な朝だから
まだ陽が昇る前、東の空がうっすら赤らんできた頃。静かな島が一変する。
けたたましいエンジン音を響かせて、漁船が一斉に漁に出て行くのだ。船の煙突から吐き出す黒煙は、まるで漁師たちが血をたぎらせているかのようで、それが潮風に運ばれてくると、島は焦げ臭い匂いに包まれる。
これが小岐島が見せる朝の顔だった。本来の姿と言ってもいい。こんな小さな島なのに、どの港にも負けない活気があるのは、この豊かな海のおかげだ。
風は弱く、海は凪いでいた。真っ暗な闇の中に、船が溶け込んでいく。
その様子を、窓の縁に腰を下ろして眺めていると、僕の意識に何かが割り込んできた。
それは、壁を隔てた向こう側。野崎さんの部屋から、目覚ましのアラームが聞こえてきた。一向に止む気配はなく、次第に大きくなってくる。
「マジか……」
僕はぞっとした。
いくら壁が薄いとは言え、隣の部屋で寝ていても、誰もが目を覚ますほどの大音量だった。
本人から朝が弱いとは聞いていたけど、この騒がしさで起きないとは……。僕は急いで野崎さんの部屋の前に駆けつけた。そして、襖越しに呼びかける。
「ねえ、ちゃんと生きてる? 朝だよ、起きてよ!」
何度繰り返しても、まったく応答はなかった。
女の子の部屋に勝手に入るのは気が引けるけど、ここで手をこまねいていても仕方がない。僕は一言断って襖に手をかけた。
「入るよ! あとで怒ったりしないでね!」
僕は襖を開け中に入ると、一目散に目覚まし時計に駆け寄った。アラームを切ってカーテンを開ける。外の光を取り込むと、野崎さんの部屋の惨状があらわになった。
目にした光景に、僕は愕然とした。
「溺れる夢でも見てるのかな……」
自然と皮肉がこぼれるほど、野崎さんの寝相は悪かった。
それに、髪もくしゃくしゃで、どっちを向いているのかもわからない。さながら毛玉のおばけだった。
僕はこんな野崎さんを見なかったことにしたくて、手足を元の位置に戻してから、肩を揺すって起こした。
「ねえ、起きてよ。朝だよ!」
かすかに寝息がした。
「おばあちゃんの手伝いをするんでしょ。もう時間過ぎてるよ!」
しばらくの間、野崎さんは朦朧としていたけど、う、うんと絞り出すようなうめき声のあと、妙に甘ったるい感じで、
「直人、起こして……」
と、僕に両腕を突き出した。
どうやら、自力で起き上がれないようだ。
僕は野崎さんの腕を掴んで引っ張り起こした。そして背後に回り、脇を抱えて持ち上げる。
完全に僕に任せきりだった。朝からとんだ重労働だ。きっと死体を運ぶ時は、こんな感じなのだろうと僕は思った。
「重い……」
「あ?」
時間が掛かったけど、何とか野崎さんを洗面所に押し込んだ。
我が家の台所は、一つの部屋のような独立した空間になっていた。
目につくのは食器棚や冷蔵庫、真ん中に小さな食卓テーブル。他にも日用品やら掃除道具やら、何でもかんでも詰め込んでいるから、結局のところひどく狭い。椅子に座る時は、体をよじって腰を下ろすしかなかった。
僕はそこで、野崎さんのためにコーヒーを淹れていた。テーブルに置いたコーヒーメーカーは、おじいちゃんが好んで使っていたものだ。フィルターをつけ、コーヒー粉をセットし、スイッチを押すだけ。あとは自動で淹れてくれる。サーバーにぽとぽとと、雫が落ちてきた。
五分ほどして、ちょうどふたり分できたところだった。
「おはよう、直人……」
野崎さんが戸口の壁にしがみつくように立っていた。姿こそ、いつものかわいらしさを取り戻していたけど、まだ眠いのか気だるげだ。
「おはよう。眠気覚ましにはブラックがいいよ」
僕はカップにコーヒーを注いだ。野崎さんもテーブルに着き、ふたりでちびちびと味わう。少し濃いめに作ったコーヒーに、ほっと、ため息がこぼれた。
「ねえ、おばあちゃんまだ寝てるの?」
「家にはいないよ」
「こんな早くから、どこに行ったの?」
「さあ」と、僕は首をかしげる。
おばあちゃんから何も聞いていなかった。僕が気づいた時には、すでに出かけたあとだった。
「もしかしたら、畑に行ったのかも……」
「へえ、そんなのあるんだ」
と、野崎さんは眉を上げる。
「まあ、畑って言うより、家庭菜園かな。山手の方で作ってて、毎日様子を見に行ってるよ」
家庭菜園はおばあちゃんの趣味であり、栗原家の大事な食料源だ。ナスやカブ、トマトやジャガイモを育てていた。
島では珍しいことではなく、他の島民もやっていた。土地は余っていて、みんな好き勝手に作っている。毎日階段を上り、畑仕事に精を出すことが、お年寄りたちの健康の秘訣になっていた。
「畑見たかったなあ。もっと早く起こしてくれればよかったのに」
「そんな殺生な……」
こっちの苦労も知らずよく言えたものだと、僕は恨めしく見つめ返したけど、すぐにその視線が、野崎さんの胸元に引き寄せられた。
首にかけていたタオルの隙間から、何やらかすれた墨のようなものが見える。
僕のいぶかしむ顔に、野崎さんはニヤリとした。
「何それ?」
「おおっ、聞いてくれましたか! 聞いて欲しかったの!」
大人しくしていたのが嘘のように、野崎さんにスイッチが入った。
「見よ、この筆致を!」
勢いよく立ち上がると、着ていたTシャツの裾を引っ張って胸を突き出した。白いTシャツには、筆で書かれたような巨大な文字がプリントされていた。
「何て書いてあるでしょう?」
野崎さんがそう言い終わるより先に、僕には見えていた。
「島」
「正解。かっこいいでしょ。この日のために用意したんだ。きっと、有名な書家が書いたのかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
適当だな、と思いつつ、僕はコーヒーをすする。
「今日はこれで、島巡りだ!」
ううっと、僕はむせた。
「ほ、本気で言ってるの?」
「うん」
と、野崎さんは大きくうなずく。
「島の人に見られたら、笑われるよ」
「別にいいもん。ネタTシャツなんだから、笑われるならそれこそ本望だよ。今日一日、この子と過ごすの」
野崎さんは愛おしそうに、島の文字を撫でている。
僕は大きなため息をついた。
次々と突きつけられる野崎さんの本性に、僕はとてもついていける気がしなかった。雨の中、ふたりでいっしょに帰ったあの日の出来事が、懐かしく思えた。
「こんなはずでは……」
「ん? 何か言った?」
「別に」
うっかり本音を漏らしてしまった。僕はぶるぶると首を振り、残りのコーヒーを飲み干した。
しばらくして、おばあちゃんが帰ってきた。
ふたりで玄関まで迎えに行くと、ビニール袋をふたつ手渡された。ひとつにはカブが入っていた。まだ土がついていて、畑で採ってきたものだとわかった。そして、もうひとつには、銀色に光る魚が。
「イサキだ。これはごちそうになるね」
少し小ぶりだったけど、お腹が膨らんで丸みを帯びていた。これは、身にたっぷりと脂がのっている証拠だ。見た目は地味だけど味は格別。イサキは夏が旬の魚だ。
おばあちゃんの手には、釣竿が握られていた。
「このお魚、おばあちゃんが釣ったんだ。すごいね」
と、感動する野崎さん。
「どうなることかと思ったけど、私も釣れて安心したわ」
おばあちゃんは、ほっと胸を撫で下ろす。
どうやら黙って出て行ったのは、釣れなかった時の保険のようだ。
おばあちゃんは案外メンツにこだわるところがある。僕としては、夜釣りは危ないから無理して欲しくないのだけれど……。
「今日は特別」と、おばあちゃんは顔をほころばせていた。
早速、みんなで朝食の仕度に取り掛かった。
イサキは僕がうろこを取ったあと、おばあちゃんが三枚におろしてくれた。一枚は刺身に、もう一枚は塩焼きに。残ったアラは味噌汁の出汁にする。
塩焼きは僕の担当だ。と言っても、軽く塩を振ってオーブントースターで焼くだけ。簡単だけど、これで十分おいしくなる。白い身がじゅうじゅうと音を立てて、皮がぱりっと焼けたら出来上がりだ。
そして何と、野崎さんがたまご焼きを作ってくれた。いつになく真剣な表情で、器用にフライパンを返していた。彼女曰く、たまごをざるで濾すと、ふわふわに焼き上がるそうだ。
「上手だね」
と、僕が感心していると、
「これくらい、朝飯前だよ」
と、野崎さんは得意げだった。
彼女がいるだけで、台所が別世界になっていた。本当に特別な朝になっていた。奇しくも、野崎さんのエプロン姿を拝めたことで、僕は妙に高揚していた。
完成した朝食は、何とも豪華なものだった。
早速、おじいちゃんと一緒に、居間で食べることにした。おばあちゃんが塩焼きをお供えしたあと、三人でちゃぶ台を囲んだ。
みんな、その出来栄えに大満足だった。
「このお魚、すごくおいしい。歴代最高記録だよ」と、野崎さんは目を見張る。
イサキの身は柔らかく、刺身も塩焼きも、口の中でほろほろと溶けていった。癖のない上品な味わいだった。
そして、野崎さんのたまご焼きも負けてはいなかった。
ひと手間かけたおかげで、口当たりがやさしくて、ほどよく甘いたまご焼きになっていた。その出来栄えに、僕は舌を巻いた。
「ふわふわに焼けてるね。お店で売っていてもおかしくないよ」
決してお世辞ではなく、本当にそう思えた。野崎さんを見つめる僕の目に、自然と熱がこもってくる。
もしかしたら、彼女は料理が得意なお嫁さんになるのでは、と、僕はまたよからぬ妄想に耽りそうだったけど、おばあちゃんの一言で我に返った。
「直人、今日は、あれが来るのよ」
あれ、と言われてもピンと来なかった。僕は首をかしげた。
「十時にこの地区に取りに来るみたいなの」
その説明でやっと察しがついた。
「まいったな……。すっかり忘れてたよ。どうしよう……」
僕はあからさまに困った顔をした。
あれが、あれを取りに来る、となれば、家でのんびり過ごすとはいかなくなった。
「自転車があるから、それで島を回ってみたら、いいんじゃないかしら」
「ああ、そうだね。そういえば、うちにも自転車があったね」
おばあちゃんの提案に僕は膝を叩いた。自転車なら島の裏側まで簡単に行ける。
「あれって何のこと?」
野崎さんがカブの浅漬けを頬張りながら尋ねた。
「後で話すよ」
と、僕はそれだけ言って、味噌汁をすすった。
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