第13話 その先に見たものは
ぜえぜえと、将彦さんが喉を鳴らしていた。必死に部屋の空気を掻き集めている。野崎さんに解放されても、まだ苦しそうに悶えていた。
僕は完全に抜け殻になっていた。ただ、その様子を呆然と眺めていた。
終わったのだ……。何もかも終わったのだ……。
将彦さんを怒らせ、野崎さんが暴れ、母の名前が出て僕の人生は終了。漁協で働くことはおろか、島に帰ることさえ叶わなくなった。
僕は座卓に肘をつき頭を抱えた。
「へんぴって何?」
ひなちゃんの他愛ない質問が飛んだ。
でも、女将さんは口を閉ざしたまま、ぐったりとうなだれていた。長谷川さんは落ち着かないのか、何度も髪に櫛を通している。
野崎さんだけが、未だ気を張り詰めていた。
「どういうことか、説明してもらえますか」
正座に居住まいを正した野崎さんは、落ち着いた口調だったけど、どこか有無を言わせない凄みがあった。
将彦さんは弱々しく口を開いた。
「佳織ちゃんに頼まれたんだ。直人を諦めさせてくれって……。恥をかかせれば、折れるだろうって言われて……」
「これまでのこと、全部、彼のお母さんの入れ知恵ということですか」
「いや、全部ってわけではないんだ。最初は完全に断ってくれって言われてたんだけど、俺の方がどうも心苦しくて……。花嫁候補の条件は俺がつけた。おじいちゃんの話は直人から聞いていたから、それを……。でも、まさか本当に連れて来るとは思わなくてさ。そうしたら、また佳織ちゃんがせっついてきて……」
将彦さんの声は今にも消え入りそうだった。
「それだけじゃ、お母さんに手を貸す理由にならないでしょ」
野崎さんは追及の手を緩めない。
「それは、その……、佳織ちゃんが、直人の進路のことで悩んでいたから……」
そこまで言って、将彦さんは押し黙ってしまった。煮え切らない態度の彼に、野崎さんの表情が険しくなる。
また彼女が爆発するのではと、僕がビクビクしていると、長谷川さんがふたりの間に割って入ってきた。
「どうやら、やっと俺の出番が来たようだな」
「お前は関係ないだろ……」
「いいんだよ。ここは俺が丸く収めてやるからよ」
長谷川さんは訳知り顔で、将彦さんを諌めた。
僕は不思議に思った。彼が漁師の肩を持つなんて、こんな珍しいことはなかった。何か特別な理由でもあるのだろうか……。
みんなの注目が集まる中、長谷川さんはゆっくりと、神妙な面持ちで切り出した。
「優花ちゃん、見ての通り俺たちは年はバラバラだけど、実はみんなこの島の学校で育った同級生なんだよ。俺も将彦も女将も、それから、佳織ちゃんも直人の父親の信行も、この島で過ごした幼馴染みなんだよ。何の因果かこいつは中学の時、佳織ちゃんに惚れちまったんだなあ」
「ええっ!」と、僕は飛び上がるほど驚いた。
そんな話、今まで聞いたことがなかった。
「佳織ちゃん、かわいらしかったんですよ」
女将さんが相槌を打つ。
「島一番の美人だったんだぜ。小さい頃から鼻っ柱が強くて、妙な色気があったよ。こいつに未練があるわけじゃないが、今でも佳織ちゃんに頭が上がらないのは、そういうことなんだ。まったく、しょうがねえ奴だぜ……」
将彦さんは、黙って聞いていた。その首がもげそうなほど、ぐったりとうなだれていた。
「だがな、俺は思うんだよ。こんな小さな島だからこそ、過去のしがらみってやつに、振り回されるんだって。これが厄介な代物でさ、追い払おうとしたって、ずっと胸の中に居座ってるんだ。何年経とうが、どこに居ようが、まとわりついて離れないんだよ」
長谷川さんはしみじみと語った。
その表情はどこか懐かしく、どこかやるせない気持ちを噛みしめているようだった。
「身勝手な話だとは重々承知してる。ふたりには多大な迷惑をかけちまった。けど、ここは俺に免じて、どうか怒りを収めてくれねえか。佳織ちゃんには俺からも、きつく言っておくからさ。この通り!」
長谷川さんは手を合わせて頭を下げた。と思ったら、すぐにむくっと顔を上げた。
にんまりと笑顔を作って調子を変えてきた。
「そうだ、聞けば最近、佳織ちゃんがヨガなんてものをはじめたらしいじゃねえか。島にいた頃は、そんな素振りもなかったのによ。今回の件は、都会かぶれにちょうどいい薬になるんじゃないか。どんな顔するか、久しぶりに見てえもんだな。きっと佳織ちゃん青ざめるだろうぜ。わはははっ」
最後は豪快に笑い飛ばしていたけど、野崎さんは厳しい表情を崩さなかった。彼女は顔にムの字を描くように、ムッとしていた。
「話聞いてると、だんだん許せなくなってきた」
「ああ、だめだ。優花ちゃん怒ってる。将彦、お前海に飛び込んでこい!」
長谷川さんの変わり身は早かった。
どうやら、野崎さんの怒りの矛先は、すでに母に向けられているようだ。あの人の根回しには、僕も何度となく翻弄されてきた。でも、今回は明らかに度を超えている。
もし、母が将彦さんの気持ちにつけ込んだとしたら……。そう考えると、僕にもふつふつと怒りが込み上げてきた。
「あ、あのう……、誤解のないように言っておきますけど、決して佳織ちゃんが将彦くんの気持ちを利用したってわけじゃないんですよ」
女将さんがおそるおそる入ってきた。
「将彦くんが佳織ちゃんに気があったってことを、本人は知らないんです。結局、佳織ちゃんと縁があったのはノブくんでしょ。だから、ふたりが気を遣わないようにって、ずっと私たちの秘密にしていたんです……」
「そ、そうだぜ。こんな話をするのも、いつぶりかもわからねえくらいだ。噂好きな島でも、絶対に漏らしちゃならねえ秘密はある。佳織ちゃんがそこまでするような人間じゃないってことは信じてやってくれ」
大人ふたりが、あうあうしながら必死に訴えていた。すると、静かに聞いていた野崎さんが、こくりと小さくうなずいた。
「だいたいの話はわかりました。行き過ぎた行為だと思いますけど、ここは一旦飲み込みます。で、この始末、どうつけるおつもりですか」
「ひいっ」
みんな震え上がっていた。
いったい、どういう人生を送ったら、そんなことが言えるのか。口ごもる僕たちに、野崎さんは人差し指を立てた。
「私が聞きたいことは、ひとつ。彼をこの島で働かせるのか、否かということです」
僕ははっとして我に返った。
そうだった。僕は漁協で働きたくて島に来たのだ。このドタバタのせいで、そんな大事な事がすっかり頭から抜け落ちていた。
野崎さんの問いかけに、将彦さんが顔を上げた。
「こんなことをした俺が言えた立場じゃないが、直人が島で働いてくれるなら大歓迎だよ。俺は本当はうれしかったんだ。一度は入組を認めたんだから。でも、直人がまだその気でいてくれるならの話だが……」
さっきとは真逆の答えに、僕は唖然とした。この事態の急転に、とても頭の整理が追いつかない。
僕は野崎さんと目を合わせた。
彼女のその眼差しは真っ直ぐで、でも、やさしく僕の返事を待ってくれていた。僕は野崎さんに見守られながら、ふたたび想いを強くする。
答えは最初から決まっていた。
僕はゆっくりと頭を下げた。
「僕の気持ちに変わりはありません。僕は島で働きたいです。どうぞよろしくお願いします」
この瞬間、僕の漁協入りが決定した。
「何だよ、結局あっち側に行っちまうのかよ。これでいいのか女将……」
「いいんですよ!」
女将さんが長谷川さんの背中を叩いた。パーンと乾いた音が響いて、お座敷が明るくなった。
野崎さんもほっと息をついていた。
「ああ、もう、飲むしかねえな。将彦、女将、お前たちも付き合え!」
長谷川さんにふたたびスイッチが入った。
「俺はこれから漁があるんだ」
「じゃあ、俺が飲むところ見ておけ」
長谷川さんはやけになっていた。ビールをグラスに注ぐと、ぐいっと一気に飲み干していた。
「よかったね。直人くん」
ひなちゃんが、まんまるな笑顔でねぎらってくれた。
「ありがとう」
と、僕は返事をしたけど、どこかぼんやりしていて、まだ実感を持てずにいた。
騒動のあと、野崎さんの歓迎会は大人たちの宴会になっていた。思い出話に花が咲いて、ちょっとした同窓会の雰囲気だった。
僕と野崎さんは、店から抜け出し家に帰った。早速、おばあちゃんに騒動の経緯を伝えた。
その最中、ずっと八の字眉が引きつっていたけど、まあ、たぶん大丈夫だろう。しばらく固まったままのおばあちゃんを居間に残し、僕たちは部屋に戻ることにした。
その途中、階段の踊り場で、僕は野崎さんにポロシャツの裾を引っ張られた。
「ねえねえ、将彦って人、ずぶ濡れのポメラニアンみたいだったね」
「辛辣だなあ」
僕は呆れて言った。
「最初から、暴れるつもりだったの?」
「そういうわけじゃないよ。でも、事と次第によっては、って感じかなあ。えへへ」
それ笑って言うセリフなのだろうか……。
僕は開いた口が塞がらなかった。
「そうだ。さっきね、ひなちゃんから教えてもらったんだ」
「何を?」
「君の部屋に面白いものがあるって」
「僕の部屋に?」と、小首をかしげ、僕は自分の部屋を思い浮かべた。
そこは八畳の小さな部屋だった。
小学生の頃から使っていた大きな学習机は未だ現役で、寝床は昔、彩音と使っていた二段ベッドを切り離して使っていた。あとは、木製のタンスと本棚くらい。
そんな特徴もない部屋で、珍しがられるものと言えば……。ひとつだけ心当たりがあった。
「見たい! 何隠してるの?」
「別に隠してるわけじゃないよ」
突然言われても、正直戸惑う。
同じ年頃の女の子を、部屋に入れたことなんてなかった。何かあるってわけじゃないけど、僕にも心の準備をさせて欲しい。
なのに、野崎さんの顔が、ぬうん、と近づいてくる。
「わ、わかったよ。でも、あまり期待しないでね……」
僕はしぶしぶ案内した。
部屋の前まで来て襖を開けると、野崎さんは感嘆の声を上げた。
「わあ、おっきい。望遠鏡だ」
彼女が一目散に飛びついたのは、窓の近くに置いてあった屈折望遠鏡だった。物珍しそうに、眺めたり覗きこんだりしていた。
「天体観測ってやつだね」
「うん」と、僕はうなずいた。
「あっ、これ、いつも学校で見てた雑誌だよね」
今度は本棚を指差した。そこには僕が休憩時間の暇つぶしに読んでいた、天文雑誌があった。バックナンバーの順に並べていた。
「几帳面だねえ」
と、野崎さんはその中の一冊を手に取った。傍にあったベッドに腰を下ろすと、パラパラとページをめくった。
「天文学者になろうとは思わなかったの?」
彼女の質問に、僕は首を横に振った。
「学者になろうっていうほどの熱量はないよ。ちょっとした趣味の範囲」
「それにしては、本格的だね」
と、野崎さんは望遠鏡に目を移す。
「あれは、お父さんのおさがりなんだ。小学校に入ったばかりの頃、星を見に行こうって誘われたのがきっかけなんだ」
その頃は、春だった。
まだ肌寒い夜の山道を、父とふたりで上った。目指すのは島の高台だ。
まったく乗り気ではなかった僕は、島民に不審者と間違われるのではないかと、落ち着かなかった。
夜に星が光るのはあたりまえ。島の人間が夜空を眺めるなんてことはしない。
でも、僕は断ることもできず高台まで来ると、そこで父に言われるがまま、望遠鏡を覗き込んだ。
「はじめて見た星が土星だったんだ。ちゃんと環が見えたよ」
僕はその姿に魅了された。小さくて、ぼんやりと映っていたけど、その奇妙な形がかわいらしくて、子ども心に愛おしくなった。
これが、数少ない父との想い出だった。
おじいちゃん子だった僕と、家にいない父。会話もなくお互い、いつもよそよそしくしていたけど、この時を境にふたりの距離が少し縮まった。
「ふーん。見えるんだ」
「うん」
「ふーん」と、野崎さんは口を尖らせる。
何か不満なのか、物言いたげな視線を僕に投げかけてくる。
終いには、
「ふーんんんっ!」
と、足をばたつかせはじめた。
勘の悪い僕でも気がついた。すぐに窓の外を確認する。
夜空は雲ひとつなく快晴で、月も見当たらなかった。天体観測にはもってこいの天気だった。
僕は野崎さんを誘った。
「じゃあ、星を見に行こうか」
「うん!」
外はすでに真っ暗だった。
集落の灯りは心もとなく、僕たちは街灯のない暗い石階段を上っていた。
陽は落ちても暑かったけど、僕だけが息を切らしていたのは、重い望遠鏡を担いでいたからだ。一段上がる度に、それが肩に食い込んで痛かった。
野崎さんが照らすスマホのライトを頼りに、島の高台へ向かっていた。
「まだ見てないからね」
野崎さんの声は弾んでいた。
どうやら高台まで、夜空は見ないと決めたようだ。視界に入らないように、うつむいて歩いていた。
「星の観測なんて、小学校の課外授業以来だよ。たしか、あの時も夏休みだった。みんなで夏の大三角を見つけようって、しおりまで作ったんだから」
「それで、見つけれたの?」
「さあ、どうだったかなあ。思い出せないなあ」
野崎さんは首をひねる。
「もしかしたら、見つけられなかったのかもしれない。でも、楽しかったことは憶えてるよ。夜の校舎も、屋上に上がったのも、その時がはじめてだったからワクワクした。別に悪いことしてるわけじゃないのに、静かで真っ暗な学校にいると、忍び込んでるような気がしてくるんだ」
「うん、何となくわかる」
「課外授業のあとは、みんなでかくれんぼしたの。それも、ちょっとした肝試し気分だったよ。見つかりたくないけど、放っておかれるのも怖いもんね。私は気合いを入れて掃除用具入れに隠れたんだ。そうしたら思わず、えずいちゃった。どうして小学校のモップって、あんなに臭いんだろうね」
「何の話してるの?」
「あははっ」
僕の返事も適当になったところで、高台が見えてきた。
ゴールは目前だった。僕は最後の力を振り絞り、石階段を上りきった。
「着いたよ……」
「おおっ、ここが島のてっぺんなんだね」
「そうだよ……」
僕はうつむく野崎さんに告げた。
ここは小岐島の山頂だった。視界に遮るものは何もない、開けた場所になっていた。
僕は三脚を開いて望遠鏡を地面に立てた。
その途端、一気に疲れが噴き出してきた。昼間上るより倍の時間がかかっていた。僕はすでにくたくただ。
「ねえ、もういいの? ここで見ちゃっていいの?」
野崎さんは興奮を抑えられないようだ。僕の苦労なんてお構い無しに、鼻息荒く急かしてくる。
「それはもう、野崎さん次第だよ……」
「わかった。じゃあ、消すよ」
「うん、どうぞ」
僕が合図を送ると、野崎さんは笑顔を見せたのを最後に、ライトのスイッチを切った。
一瞬で暗闇に包まれる。
ふたりで夜空を見上げると、そこには無数の星が輝いていた。流れ星が闇を引っ掻くように走っていく。
その輝きは小さくても、夜空を美しく彩っていた。
「こんなにたくさんの星を見たのはじめてだよ。すごくきれい……」
「そうだね、すごくきれいだね」
僕も見惚れずにはいられなかった。
目が闇に慣れると、星と星の間の何もない空間にも、小さな光が灯りはじめる。それが際限なく繰り返されると、夜空は星に埋め尽くされる。
「ちょっと、怖いくらいだよ……」
この絶景を前にして、野崎さんは言葉が見つからないようだ。それでも、彼女はその大きな瞳で、夢中になって星を掻き集めていた。
そんな野崎さんの隣で、僕はいつもと様子が違うことに気がついた。なぜか今日はいつになく、星が輝いて見えていた。
何度も目にした光景なのに、と、不思議に思いながら眺めていると、今になってようやく、足元から実感が湧き上がってきた。
「そうだ、僕は手に入れたんだ……」
島とともに生きていきたい。
そう願って止まなかった想いが、やっと叶ったのだ。
島も海も、そしてこの星空も、僕にはかけがえのない宝物だ。降り注ぐ星の光が、きらきらと見るものすべてを輝かせていた。
不思議な体験だった。僕は幸福感に包まれていた。
この安らぎは、きっとたぶん、僕が、僕自身を許すことができたのだ。
星明かりに、野崎さんの姿が浮かび上がっていた。
彼女はぽかんと口を開けたまま、夜空を見上げて動かなかった。そんな野崎さんが、僕には少しおかしかった。
もし、野崎さんに土星の環を見せたなら、次はどんな顔をするのだろう。
僕ははやる気持ちを抑えながら、望遠鏡を夜空へ向けた。
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