第11話 野崎さんの歓迎会

 陽は沈もうとしていた。空は茜色に、海は黒く染まっていった。波は穏やかで、洗いたてのシーツを広げたように凪いでいる。海は一足先に眠りについていた。


 僕たちはとある場所へ向かっていた。そこは、僕の家よりもずっと高いところにあった。長谷川さんを先頭に、細くうねる石階段を上っていく。

 すると、見えてきたのは一軒の料理店だった。海鮮料理を出すこの店に看板は無く、割烹着を着た女将さんがいなかったら、普通の民家と見分けがつかない。


「まあ、島にはこんな店しかないんだけどさ」


「あら、来て早々、店をけなすなんて、タチの悪いお客さんがまじってますね」


 長谷川さんの皮肉を笑顔で軽くあしらうと、女将さんはハキハキとした口調で出迎えてくれた。


「いらっしゃいませ、直人くん、優花ちゃん。お待ちしてました」


 懐の深い、落ち着いた大人の女性だった。女将さんの飾らない性格は、自然と相手の心を和ませてくれる。僕にはその人柄が、店構えにも現れているような気がした。

 軽く会釈を返したあと、突然、野崎さんが声を上げた。


「あっ、光る目だ!」


 女将さんの背後で何かが動いた。


 僕はそれを見て思い出した。島に着いてすぐ、野崎さんが見た謎の生物のことだ。僕が覗き込むと、幼い子どもが隠れていた。謎の生物の正体はこの少女だった。


「あれ、ひなちゃんだったんだね」


「脅かすつもりはなかったの……」


 女将さんの割烹着の裾を掴んで、恥ずかしそうにしていた。


「何だ、もう優花ちゃんと顔なじみかい。この子は女将の娘だよ。いくつになった?」


「七歳」と、よそよそしく答える。


 目が光って見えた理由は、大きすぎる丸いメガネのせいだ。ずれ落ちないように、ピンク色のストラップで留めていた。長い髪をお団子にした髪型は、女将さんとおそろい。


「ごめんね。私が大げさに驚いたから、出ずらくなったんだね」


「怒ってる?」


「怒ってないよ。こっちにおいで」


 その言葉に、ひなちゃんは安心したようだ。野崎さんのもとに向かうと、その手をぎゅっと握りしめて微笑んだ。彼女はもともと人懐っこい。


「こっちだよ」


 と、本調子になったひなちゃんに、僕たちは店の中へ案内された。



 通されたのは広いお座敷だった。窓から海が望める店で一番いい席だった。真ん中に大きな座卓があって、その上に舟盛りが二人分並んでいた。


「すごーい!」


 予想外の豪華さに、僕と野崎さんは感嘆の声を上げた。


「これ高かったんじゃないの。大丈夫?」


「いいんだよ。直人が気にすることじゃねえよ。こんなめでたい日はないんだぜ」


 長谷川さんの思いがけない厚意に、僕は胸が痛くなった。

 だって、野崎さんが花嫁候補だなんて嘘なのだ。彼女はその役を演じているだけだった。

 僕は申し訳なくて仕方がなかったけど、野崎さんは出された料理に夢中だった。彼女は食べ物を目にすると、理性が飛んでしまうようだ。

 僕は仕事に就いてお給料をもらったら、その時は僕が長谷川さんにご馳走しようと、心に決めた。


 三人は早速席に着いた。僕と野崎さんは隣合い、長谷川さんと向き合って座った。女将さんとひなちゃんも加わって、グラスを手にみんなで乾杯した。顔なじみだから気を使わない、にぎやかな歓迎会のはじまりだった。長谷川さんは機嫌良くビールをあおっていた。


「いただきます!」


 僕と野崎さんはしばし、海の幸を味わった。舟盛りにはタイやカンパチ、アジにアオリイカ、それにサザエもあった。どれも島で獲れた食材ばかりだ。

 僕はカンパチに箸を伸ばした。最近は養殖にもいいものがあるけれど、これは、それにも負けず、たっぷりと脂がのっていた。身に醤油につけると、それがまざり合って、てらてらと光を放っていた。

 僕は期待を膨らませ頬張った。その身は締まっていて歯ごたえがあった。噛むほどにさっぱりとした旨味が口の中で広がった。天然物の美味しさに、僕は思わず唸った。


「サザエはお父さんが獲ってきたんだよ」


「へえ、ひなちゃんのお父さん、漁師だったんだ」


「うん」


「すごく、おいしいよ」


 野崎さんも大満足の表情だ。


「漁師から直接買いつけていますから、どれも新鮮なんですよ」


 と、女将さんは胸を張る。


 たしかに、この鮮度は都会では味わえないだろう。いや、島で暮らしてきた僕でさえ、そう食べられる代物ではなかった。

 僕はこれまでの苦労を忘れ、つかの間、贅沢な時間に浸っていた。


「ところで、優花ちゃんは、直人のどこに惚れたんだい?」


 突然、長谷川さんが妙な絡み方をしてきた。


「俺もこう見えて若い時はモテたけどよ、優花ちゃんみたいな、かわいい子から告白されたことはなかったなあ。直人は男を上げたってわけだ」


 酔いが回ったのか、長谷川さんはごきげんに話していたけど、僕はその間、ずっと横から冷たい視線を浴びていた。


「どうして、私が告白したみたいになってるのよ」


 野崎さんが不満げに僕に耳打ちした。


「そう言われても……」と、僕は小首をかしげる。


 どうやら知らないうちに、話に尾ひれがついたようだ。女将さんや、ひなちゃんにも、間違って話が伝わっているみたいだった。ふたりとも笑顔で野崎さんの答えを待っていた。

 野崎さんは、ふんっと鼻を鳴らすと、腕組みして考えはじめた。難しい顔でうーんと唸っている。

 いや、ここはもっと、自然な感じでお願いしたいところだけど……。僕がやきもきして待っていると、ようやく野崎さんが、


「あった!」


 と、今思いついたような声を上げた。


「学校の休憩時間にね、彼はひとりで難しそうな雑誌を読んでいるの。いつもそうしているから、端から見ていて寂しくないのかなあ、って気になってた」


 お座敷が静まりかえった。

 あまりの素っ気なさに、僕もみんなも、ぽかんとしていた。その話のどこに、惚れる要素があるんだ。


「ま、まあ、寡黙な男はモテるって言うからなあ……」


 長谷川さんのフォローが、かえって虚しく響いた。


「でも、中学の直人くんは、モテたって聞いたよ」


 ひなちゃんが言った。


「本当に?」


 野崎さんは疑わしげに僕を見やる。


「別にモテたわけじゃないよ。中三になって、学校で最年長になったってだけ。僕が島にいた時、全校生徒七人だったんだから」


「そんなに少なかったの?」


 と、野崎さんは大きく目を見開いた。しかも、その内のひとりは妹の彩音だ。


「離島の学校なんてそんなもんさ。おまけにここの学校は小中併設校なんだ。運動会や文化祭は学年関係なく、みんなでやるんだ」


 小岐島おぎしま小中学校は、小学部と中学部というおおざっぱな学級があるだけだった。

 部にそれぞれ教室が与えられ、学年はバラバラだけど、みんなでいっしょに勉強する。僕が島にいた頃は、中学部の生徒は二人だったけど、今は……。


「今は中学部の生徒はいないんですよ。小学部の子どもたちだけ。うちのひなを含めて五人なんですよ」


 と、女将さんは訴える。


 かつては十人以上の生徒がいたけど、最近は一桁に留まっていた。

 来年中学部に上がる生徒はいても、小学部に入学して来る子はいない。数年後、島の学校がどうなっているのかは、誰にもわからない。

 野崎さんはひなちゃんに尋ねた。


「学校楽しい?」


「うん、楽しいよ。みんな仲良しだもん」


 ひなちゃんは笑顔で答えた。


「まあ、直人と優花ちゃんが島に来てくれるなら、島は安泰だけどさ。でもまさか、直人があっち側に行っちまうとは……。俺は悲しいよ」


 さらに酔いが回った長谷川さんの口から、いつものやつが飛び出した。僕と女将さんは、またはじまったかと、うんざりした。


「あっち側って?」


 当然、野崎さんは反応した。


「この人、漁師と喧嘩ばかりしてるんですよ」


 女将さんは呆れて言う。


「漁師の島だとか、偉そうなことを言いやがるからさ。この島に住んでいるのは漁師だけじゃねえってのによ。あいつらいつも我が物顔で何様なんだよ」


 と、長谷川さんはくだを巻く。 


 彼曰く、漁師たちが漁協を利用して、島で甘い蜜を吸っているのだそうだ。まったく根拠のない陰謀論だけど、彼はそう言ってはばからない。


「この人が言うようなことないですから。みんな生きることに精一杯なんですよ」


「仲良くしないとだめだよ」


「ひなまでそんなこと言うのかよ」


「もう、どっちが子どもかわからないね」


 野崎さんは苦笑する。


「俺だって複雑な気持ちなんだよ。直人が島に戻ってくれるのはうれしいけど、漁協に行くのはやるせない。こっち側の人間だと思っていたのに……。直人が変わっちまうなんてなあ」


「僕は何も変わらないよ」


 と、長谷川さんを憐れみつつ僕は答えた。


「この人には言わなかったんですけど、私、荷捌にさばき場でアルバイトはじめたんです」


「何だよ、女将もあっち側かよ!」


「仕方がないじゃないですか。この店の売り上げなんて微々たるものなんですから。稼がなきゃならないんです」


「荷捌きって何ですか?」


 野崎さんは尋ねた。


「漁師が獲ってきた魚を選別するんですよ。市場に持って行って競りにかけるために。人手は足りないのに、魚の量が多いんです」


 その大半は巻き網漁の水揚げだ。巻き網漁は数隻で船団を組んで漁をする。船同士連携を図りながら、魚の群れを網で囲い込んで獲る大掛かりな漁法だ。

 獲れる魚はイワシやアジ、サバが主で、いつも運搬船をいっぱいにして帰って来る。魚市場の競りに間に合うように、漁師総出で作業に当たっていた。


「だから、朝の荷捌きは時間との勝負なんです」


「大変なんですねえ」


 と、野崎さんはねぎらっていたけど、長谷川さんは不満なようだ。


「どいつもこいつも稼ぎ稼ぎって、そればっかりじゃねえか。俺はなあ、十九で結婚して、子どもをふたりもうけたんだぞ!」


 長谷川さんは完全にやけになっていた。グラスに残ったビールを飲み干すと、ふてくされて座卓に突っ伏してしまった。

 こうなった長谷川さんは、放っておいていい。


「漁協に勤めることになったら、直人くんといっしょに仕事することになりますね」


「そうなるといいですね。でも、将彦さんが許してくれないことには……」


 女将さんは首をひねった。


「私はてっきり話が通っていると思ってたんですけどねえ。どうしちゃったのかしら、あの人」


「あいつはもとからそういう奴なんだよ。何が花嫁候補連れて来いだ偉そうに。わざわざ相手にしてやる必要なんてねえんだよ」


 長谷川さんは突き放せても、下っ端の僕にそんなことはできない。僕はどうにかして、この状況を打開したかった。

 なぜ白紙になったのか、何か理由があるのか、まったくわからないけど、とにかく、僕にできることは、本人に直接真意を確かめるしかなかった。


「明日の午前中、ふたりで将彦さんに会いに行こうと思ってるんです」


「その必要はねえよ」


 突然、座敷の戸口から声がした。その瞬間、僕の背筋が凍りついた。

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