第9話 伝わる言葉
玄関の三和土には、小さなつっかけが一足あるだけだった。
少し前まで、家族六人分の靴が散乱していたことを思うと寂しくなる。今この家にいるのは、おばあちゃんだけ。ひとりで住むには広すぎるように思えた。
「どうしたの? おばあちゃん。出てこないよ」
「耳が少し遠いんだ」
歳は七〇を超えていた。それにしては元気な方だと思うけど、寄る年波には勝てない。
僕はもう一段、大きく声を張り上げた。
「ただいま、おばあちゃん!」
しばらくして廊下の奥の部屋から、おばあちゃんが姿を見せた。ゆっくりとした足取りで出迎えてくれた。
「おかえり、直人。ごめんなさいね。裏で洗濯物を取り込んでいたから、気づかなかったのよ」
やさしい笑顔に、おっとりとした口調。そして眉を八の字に寄せる表情に、僕はいつも癒された。
よろこんでいても怒っていても、常に八の字なのが、おばあちゃんのチャームポイントだ。僕は元気な姿を見ることができて安心した。
「はじめまして、野崎優花です」
「あらまあ、こんなきれいな方だなんて、びっくり」
おばあちゃんは細い目を丸くした。
「優花ちゃん、って呼んでいいかしら」
「はい」
「暑かったでしょう。さあ、中に入って涼んでください。冷たい飲み物を用意しますから」
「私、お手伝いします」
「いいのよ、お構いなく。それよりも、よかったらおじいさんに、お顔を見せてあげてほしいの」
おばあちゃんはそう言って顔をほころばせていた。
僕は野崎さんを居間に案内した。
玄関を上がると、台所を挟んですぐ横の部屋だった。そこは十畳の和室で、壁の高いところに神棚、その下の仏間には仏壇が置いてあった。おじいちゃんの遺影は、その仏壇の前に作られた、小さな祭壇に飾られていた。
かつてここは、家族みんなでご飯を食べたにぎやかな場所だったけど、今は静謐な空気が漂っている。
いくつか飾られた遺影を、野崎さんはまじまじと見ていた。
「おじいちゃん、俳優さんみたいでかっこいいね」
さすがにそれは言い過ぎだけど、目鼻立ちははっきりしていて恰幅もよかった。
「その写真は、家族で旅行した時のものなんだ」
コスモス畑で撮った写真だった。カメラのシャッターを切ったのは僕だ。その写真は、海の男にはどこか場違いな気がしておかしかった。本人も落ち着かないのか、はにかんでいた。
「ちょっと照れくさそうにしてるのがいいね」
野崎さんに褒められて、おじいちゃんもうれしそう。
ふたり並んで線香をあげた。野崎さんもいっしょに手を合わせてくれた。つかの間、おりんの音が耳に残った。
ふと、僕が野崎さんを見ると、彼女は困った顔をしていた。何かもの言いたげな表情だった。
僕はそんな野崎さんにそっと尋ねた。
「どうかしたの?」
「うん……。私、おじいちゃんに花嫁候補ですって嘘ついちゃった。罰が当たったり
しないかなあと思って……」
「えっ」と、僕は言葉に詰まった。
もし、野崎さんに罰が当たるなら、僕にはいったい何が起きるのだろう。
死んだらきっと地獄に落ちて、舌を一枚抜かれるどころじゃ済まないだろう……。背中に冷たいものが走った。
「さあ、頂いてください。今日は暑いですから大変だったでしょう」
おばあちゃんが、よく冷えたお茶を出してくれた。
早速、三人でちゃぶ台を囲んだ。グラスを傾けると、体にこもった熱がやわらいでいった。ふたりでほっと息をついた。
「直人がお嫁さん連れて来るっていうから、本当にびっくりしたわ。連絡があったのも直前だったから、私はどうしたものかと……」
おばあちゃんは八の字眉をぎゅっと額に食い込ませて、本当に困った顔をした。
「ごめんね、おばあちゃん。驚かせちゃったみたいで」
僕は申し訳なくて頭を下げた。
何だか騙すようで気が引けたけど、事前に知らせれば噂が広がって、将彦さんに避けられてしまうと思ったからだ。島に帰ることは、限られた人にしか伝えていなかった。
「漁協で働きたいんだ。花嫁候補の件は、そのための条件なんだよ。将彦さんに認めてもらうには、こうするしかなかったんだ」
「大体のことは彩音から聞いているけど。でもねえ……」
おばあちゃんの顔はどこか浮かない。僕は不安になって尋ねた。
「もしかして、反対なの?」
「そうじゃないのよ。直人が島に戻ってきてくれるのは歓迎よ。若い人が頑張ってくれるなんて、こんないいことはないからねえ。私もできることなら手伝いますよ」
「じゃあ、何が問題なの?」
「私が気がかりなのは、優花ちゃんのことよ。直人が優花ちゃんのことを、しっかり見てあげているのかってこと」
おばあちゃんは八の字眉をしかめて、真剣な面持ちで言った。
「そりゃ、もちろん、見てるよ……」
僕はそう答えたけど、あまり胸を張って言えなかった。
「私には直人が自分のことばかりのような気がするの。結婚となれば、優花ちゃんの人生のことも、ちゃんと考えないといけないんですから。その心積もりが直人にできているのかってこと」
「私も同感です。直人くんに覚悟があるのなら、きちんと言葉にして欲しいです」
突然、野崎さんがけしかけてきた。
まったく、こんな時に悪乗りが過ぎる。僕は野崎さんをうらめしく見やったけど、おばあちゃんの指摘は図星だった。
たしかに、僕の頭にあったのは自分のことばかりだった。野崎さんのことや、そのあとの生活まで考えが及んでいなかった。
僕は急いで頭を働かせる。
もし本当に野崎さんと結婚すれば、どんな生活が待っているのだろう。
島でいっしょに暮らしていくことになるのだろうか。こんなかわいい人が、ずっとそばにいてくれるのだろうか。
そんな都合のいいことばかり考えていたら、僕の頭にあらぬ妄想が浮かんだ。
野崎さんのエプロン姿——
って、なんでやねんっ、と僕は頭の中でツッコミを入れ、覚悟を口にした。
「ぼ、僕は真剣だよ。優花とケッコンするんだ。し、幸せにする……」
「ひいっ」
悲鳴が上がった。
野崎さんは両手で口元を押さえて、肩を震わせていた。彼女は精一杯感動を装っていたけど、明らかに笑いを堪えていた。
「優花ちゃん、ごめんなさいね。直人のごたごたに巻き込んでしまったみたいで」
「いえいえ、大丈夫ですよ」と、取り直す野崎さん。
その横で、がっくりとうなだれる僕の顔は、きっと恥ずかしさで真っ赤になって、不甲斐なさで真っ青になった、さぞ具合の悪い顔になっていただろう。
「昔の直人からは、まったく想像ができなくてねえ」
「へえ、どういう子だったんですか?」
「お人好しで、やさしい子だったの。よく泣いて家に帰ってくることもあったわねえ」
僕は我に返り、止めに入った。
「ちょっと、おばあちゃん何言ってるの!」
「その話、すっごく気になる。おばあちゃん聞かせて!」
案の定、野崎さんが食いついてきた。ちゃぶ台に身を乗り出して、おばあちゃんに顔を近づけている。この流れは非常にまずい。野崎さんに昔の恥ずかしい話なんて聞かれたら、僕の尊厳が破壊されてしまう。
「もういいよ、部屋を案内するから行こう!」
僕はすぐに動いた。
「いいじゃん。もう少しだけ」
「ダメだってば、ほら!」
「いやん」
僕はちゃぶ台にしがみつく野崎さんを引き剥がし、半ば引きずるようにして居間をあとにした。
僕は野崎さんが使う部屋へ案内した。
二階には和室が五つあった。そのうち広くて景色のいい南東の角部屋を、おばあちゃんが用意してくれていた。そこは僕の部屋の隣にあって、長年誰も使っていなかった。
その部屋へ向かう途中、階段の踊り場で、僕は野崎さんにポロシャツの裾を引っ張られた。
「さっき笑い堪えるの、大変だったよ。もうダメかと思った」
野崎さんは妙にうれしそうにしていた。
「笑わないでよ。真剣なのに……」
僕の声は消え入りそうだった。
「ねえ、あれ、もう一回やってよ」
「あれって?」
「ぼ、僕は、優花とケッコンするんだ……」
野崎さんは僕の言い方をまねして、はしゃいでいた。小学生か。
ねえねえ、とせがむ野崎さんを無視して先を急いだ。部屋の前まで来たところで、僕が襖を開けた。
「うわあ、きれい!」
野崎さんが感嘆の声を上げた。部屋に入るなり窓を開け、出窓に腰を下ろした。
「いいじゃん。爽快な気分だよ」と、外の景色を見渡した。
眼下には、斜面にしがみつく集落の瓦屋根が港まで続いていた。その先に広がる水平線は、壁のように目の高さまで届いていた。ここから島の姿が一望できた。
「私もこの島のこと、好きになれるかなあ」
野崎さんはそれとなく期待を寄せていたけど、僕は何も答えられなかった。彼女のバッグを部屋の隅に置くと、ただぼんやりと立ち尽くしていた。
「やだなあもう、暗い顔してさ。もしかして、さっきおばあちゃんに言われたこと気にしてるの?」
僕は力なくうなずいた。自分が情けなくて仕方がなかった。
「君は真面目なのに、どこか抜けてるんだよ。私は端からそんなこと望んでないし、気にもしないのに。むしろこの状況を楽しんでいるくらいだよ」
確かに、この状況を楽しめるのは野崎さんくらいだ、と僕は胸の内でつぶやいた。
「明日、ボスの所に行くんでしょ。こんなことじゃあ、戦えないよ」
「そのことについては、みっちり練習を積んできたよ。頭の中は整理できているはずなんだ……。でも、いつも予想外なことが起こって、上手くいかなくなるんだ。また失敗するんじゃないかって不安で……」
「だよね、今までの君を見てると、わかる気がする」
すでに、野崎さんにも見抜かれていた。
僕は何かするたびに、予想外なことに見舞われる。野崎さんに花嫁候補を頼みに行った時や、そもそも、漁協で働きたいと決めた時もそうだった。
振り返ると、人生ずっとそうだったのかもしれない。これは僕にかけられた呪いのようなものだった。
「どうすれば、いいですか……」
僕は藁にもすがる思いで尋ねた。
「相手に気持ちを伝えたいなら、自分の言葉を使うんだよ」
「自分の言葉?」
「そう。シナリオとか計画も大事だと思うけど、それが穿ち過ぎるっていうか」
ピンとこない僕に、野崎さんは続ける。
「策をこねくり回しても、結局、君は取っ散らかっちゃうんだから、そんなもの捨てちゃえばいいってこと」
「それじゃあ、僕は何も言えなくなっちゃう」
「そんなことない。君は私が持ってないものを持ってるんだよ。それが君の言葉になる」
「そんなものが、僕にあるのかな……」
「あるよ。ちゃんとそこに」
野崎さんが僕に向けて指を差した。その方向を目で追うと、ちょうど僕の胸の辺りに突き当たった。
「おーい、直人はいるかい!」
突然、家の外から僕を呼ぶ声が聞こえた。
ふたりで窓から下を覗くと、笑顔で手を振る男が見えた。
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