第8話 おじいちゃんは船長さん
汽笛が鳴った。出港の合図だ。
僕たちはエンジンの轟音と振動に包まれた。船は海面に泡を立てながら、ゆっくりと桟橋を離れていく。
乗客は僕と野崎さんだけだった。荷物を客室の座席に置くと、外が見える二階に足を運んだ。僕たちは船の欄干に身を寄せ、出港の様子を眺めていた。
「音すごく大きいね」
「そうだね。港を出たらもっと大きくなるよ」
船の轟音に負けないように、自然と声が大きくなる。こんな状況だからか、僕たちは肩が触れるくらい近づいていた。
「船で旅するのはじめてなの。だから、すごくわくわくする」
野崎さんはすっかり旅行気分だった。彼女は興奮を抑えきれないようだ。
「私、夏の海が好きなんだ。きらきらしていて、陽射しをいっぱい浴びてあたたかいの。鼻の奥につんとする匂いとか、しょっぱい味とか。海に行ったらかならず味見するんだ」
「味見って、舐めるの?」
「うん、舐めるの。海は場所によって味が違うんだよ。きっと、この海は日本海の味がするはず」
「おおざっぱだなあ」
「えへへっ」
船が港の防波堤を越えると、もう一段加速した。進路を北に取り、外海へ繰り出した。ざぶんざぶんと泡波をつくりながら、大海原を切り裂いていく。僕は否応無く、島への想いを掻き立てられた。
「そう言えば、栗原のおじいちゃん、船長だったんでしょ?」
「うん、実はこの船の船長だったんだよ」
「へえ、そうなんだ」
おじいちゃんは公営渡船の船長だった。この船で街と島を結ぶ生活航路を支えていた。
上下真っ白な制服に金色のエンブレムがついた船長帽は、おじいちゃんによく似合っていて、船を動かす姿は本当にかっこよかった。
「まだ幼かったとき、よくあの窓から覗いていたんだ」
僕は操舵室を指差した。
関係者以外立ち入り禁止と書かれたドアには、丸い窓がひとつついていた。そこから乗務員の姿が見えた。
「背が足りなくて、何度も飛び跳ねてたよ」
「ふーん」と、野崎さんも覗き込む。
でも、そこから見えたのはいつも、おじいちゃんの後ろ姿だった。僕がいることに気がついているはずなのに、おじいちゃんが僕に構うことはなかった。
窓から手を振って気を引こうとしても、背を向けたまま、まっすぐ海を見つめていた。
僕は幼心に少し不満を憶えたけど、それが仕事に対する責任だと、おじいちゃんが背中で教えてくれていたと気づくのは、僕がもう少し大きくなってからだ。
「この船に乗れるのも、あとわずかなんだ」
「どうして?」
「十月に新しい船に変わるんだよ。相当使い込んで古くなったからね」
「そう言われてみると、結構年季入ってるね」
船体は補修のたびに、ペンキが塗り重ねられていた。そのせいで壁や手すりは、ぼこぼこと波打っている。
深緑色の甲板とも、もうすぐお別れだ。煙を上げる煙突も、風になびく幌の屋根も、すべてが記憶に置き換わる。
船が新しくなるのはいいことだけど、手放しにはよろこべなかった。
「この船よりひと回り小さい船になるんだ。乗る人が減っているから、仕方がないんだけど。それでも、便数が減らされるよりは、ましかな」
「それも、島の事情なの?」
「そうだね」と、僕は肩をすくめる。
島に起こる変化に、島民は一喜一憂させられる。継続性と採算性の間で出される決定は、いつも決まって先細りだ。島の未来が少しずつ狭められていく。
「ちょっと寂しくなるね」
野崎さんの言葉に、僕は黙ってうなずいた。
「最後まで、頑張るんだよ」
野崎さんは船をねぎらうように、欄干をさすっていた。
一時間ほど経った頃。二階のベンチ席で静かに波に揺られていると、野崎さんが突然、うーん、と唸りはじめた。
「どうしたの?」と、僕が尋ねると、「見えた」と、ひと言声を上げた。
野崎さんは目を凝らして海を見つめていた。僕にはわからないけど、目がいい野崎さんは見つけたようだ。
「あれじゃない?」
と、彼女が伸ばした腕の先に、島の影がうっすらと青く浮かび上がっていた。
「そうだね。あれが小岐島だよ」
「島っていうより、山みたいだね」
その形は、らくだのこぶのようだった。近づくにつれ、海からせり上がってくるように見えた。
小岐島の標高は約二百メートル。周囲は約四.五キロメートル。自転車なら、二〇分もあれば一周できる小さな島だ。
上から見ると南北に細長い涙滴の形をしていた。勾配が急な南から頂上を超えると、そこから北へは、なだらかな斜面が長く伸びている。
「海の真ん中に人が住んでるなんて、不思議な感じ」
野崎さんは好奇の眼差しを向けていた。
次第に船が近づくと、日当たりのいい南側に、家屋が密集しているのが見えて来る。積み木を無造作に組み上げたように、傾斜のきつい斜面に沿って家が建ち並んでいた。
野崎さんはこの島独特の威圧感を感じたようだ。
「すごい、迫力あるね。あんな高いところまで家があるよ。落ちてきたりしないのかなあ」
などと、縁起でもないことまで言っていた。
船内アナウンスが流れ、船はゆっくりとした速度で港に入った。桟橋に横づけされると、すぐにタラップが掛けられた。
僕たちはついに小岐島に降り立った。
「着いた!」
まるでゴールテープを切るように、野崎さんは両手を上げて歓喜した。だけど、轟音と振動から解放されると、待っていたのは静寂だった。
「時が止まったみたいだね」と、野崎さん。
辺りに人影はなく、動くものは見当たらない。島はひっそりと、ただ静まり返っていた。
「この時間は、みんな家で休んでいるんだよ。漁師は朝が早いからね」
「何だか寂しい」
「そうかな」
僕は島に戻ってこれて、ほっとしていたけど、野崎さんは不安そうに辺りを見回す。
「本当に何にもないんだね」
野崎さんの言う通り、島には特にこれといって何もない。
目立つものといえば、漁協の施設と公民館。あとは漁船と家屋だけ。診療所はあるけれど、お医者さんが島に来るのは、週一回の往診のみ。購買所が島で唯一のお店だけど、必要なものは、船で街へ出て賄っている。
「ここには、生活のための必要最低限のものしかないんだよ」
あって当たり前と思える信号機さえ一本もなかった。理由は交差点がないからだ。車が通れそうな道は限られていて、島の移動は徒歩か原付バイク。そんなことだから、取り締まる警察官もいなかった。
僕は先に立って野崎さんを案内した。港を抜けると、すぐに集落へ続く石階段が見えてきた。その道が島のメインストリートだ。
「あそこから上るんだよ」
「おお、あれが異世界の入り口か」
階段は幅も高さも不揃いで、決して登りやすくはなかった。間口こそ広いけど、中に入ると途端に道が狭くなる。
「すごく入り組んでるね。先が全然見えないよ」
家は斜面に盛り土をして建てていた。土台は石垣やコンクリートで、それが壁になって路地を囲んでいた。
みんな思い思いに家を作るから、向きも高さもバラバラだった。当然、そこに通じる路地も、上下左右にうねっている。
「迷子になりそう」と、野崎さんはきょろきょろしっぱなし。
階段は上るごとに急になる。お向かいの瓦屋根が目の高さまで迫っていた。
野崎さんは興味深々で、枝分かれする路地に目をやっていた。ちょっとした探検気分を味わっているようだ。
するとしばらくして、野崎さんは想像の翼をあらぬ方向へ広げはじめた。
「この雰囲気、何か不穏なものを感じざるを得ないよ」
「不穏なものって?」
「いつ事件が起こっても、おかしくないってことだよ」
野崎さんはあごに手をやり、訳知り顔で語り出した。
「この狭い入り組んだ空間なら、狙った獲物を確実に仕留められる。誰も助けになんて来ないんだ。周囲に気づかれず、犯行に及べるんだから」
「何言ってるの?」
僕は呆れ顔で振り返る。
「島に足を踏み入れた者たちが、次々と姿を消していく—— これが、真夏の孤島連続失踪事件」
怖がっているのか、よろこんでいるのか。野崎さんは、ふうっと身震いして、ひとりで盛り上がっている。
「変なこと言わないでよ。事件なんて起きるところじゃないから。もし何かあっても、連絡すれば、警察が船でやって来てくれるよ。お願いだから、あまり大きな声出さないで」
僕は口元に人差し指を立てて注意した。辺りにはまったくひと気はないけれど、家の中にはちゃんといるのだ。
島民は意外と神経質だ。野崎さんのような外の人間がやって来たとなれば、なおさら耳をそば立てる。その噂はあっという間に広がって、あとであることないこと言われてしまう。
だから僕はできるだけ早く、家に着きたかったのだが……。
「栗原、ちょっと!」
「な、何? 痛い痛い痛い、痛いよ!」
突然、背負っていたリュックを掴まれ揺さぶられた。あまりの勢いに、僕が持っていた野崎さんのバッグまで落としそうになった。
今度はいったい何事だ。
「あの路地の物陰に何かいたんだ。目がぴかって光ったんだ」
「猫じゃないの?」
「違う、そんなんじゃない。それよりも大きくて小さいの。頭に角みたいなものが生えてた!」
僕は軽くあしらうつもりだったけど、野崎さんがあまりに怯えていてそうもいかない。
そんな顔されたら、何だかこっちまで怖くなってくる。
「ど、どこにいたの?」
「あっちの方に……」
野崎さんが指差したのは、横道の奥まったところ。大きな物置が置いてある辺りだった。その場所はまったく陽が当たらず、暗くて薄気味悪かった。
僕はおそるおそる近づいた。何かが飛び出してくるんじゃないかと身構える。
でも、結局そこには何もいなかった。
「もう、脅かさないでよ」
「そんなあ、本当にいたんだよ。大きな丸い目だった」
「変なことばかり言ってるから、見間違えたんだよ」
「そんなことないもん! 本当にいたもん!」
野崎さんはフグみたいに、頬を膨らませて拗ねていた。
なんだかんだあったが、やっと自宅にたどり着いた。
僕の家は、山の真ん中辺りの開けた場所にあった。二階建てのごく普通の家。僕が生まれる前、お父さんがまだ高校生の時に建て替えたそうだ。すでに三十年近く経っている。
たまに我が家の軒下に、茶トラの野良猫が涼みに来る。
「ここからが本番だよ」
僕が告げると、野崎さんはこくりとうなずいた。帽子を脱いで、家のガラス戸を鏡代わりにして髪を整えた。
「ここから先は野崎さんのこと、優花って呼ぶから」
「うげっ」と、野崎さんは露骨に嫌な顔をした。
事前に話していたことじゃないか、と僕は目で訴えつつ、気を取り直して大きく深呼吸する。
「じゃあ、行くよ」
「うん」
僕は玄関の引き戸を開けた。カラカラと乾いた音が鳴った。
そして、僕は声を大きくして呼んだ。
「ただいま! 帰って来たよ、おばあちゃん!」
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