第7話 再会する抹茶とマンゴー
まさかと思った、夏だった。
空はどこまでも青く、我が物顔の太陽がど真ん中に居座っていた。容赦ない陽射しのせいで頭がぼんやりするけれど、今は驚かずにはいられなかった。
僕は野崎さんと埠頭にいた。隣接する商業施設のテラスで、島に向かう船を待っていた。
東京から飛行機で二時間。電車に乗り換えたどり着いた。僕はこんな状況になっても、まだ信じられなかった。
視線の先に野崎さんがいた。潮風に吹かれて気持ちよさそうにしていた。欄干に体を預けると、彼女は気さくに声をかけた。
「キミは男前だねえ」
僕のことではない。
「歌舞伎役者みたいだよ」
近くにウミネコがいた。
「首すじのラインが、すごくきれい」
そう言う野崎さんもすごくきれいで、ツバの小さいストローハットが、長い髪によく似合っていた。袖のない真っ白なキャミソールにはフリルがついていて、それが風になびくと、無造作にさらした長い手足が涼しげに映った。
「ひどい奴がいるんだよ」
野崎さんは、ウミネコを相手にぼやきはじめた。
「私が退屈してるっていうのに、何にもしてくれないんだよ。夏休みなのに渋い顔してさ。そいつの名前は、栗原っていうんだ」
ふたりから睨みつけられ、僕は身を縮めた。
「ちょっと、君がぼうっとしてるから、いつの間にかウミネコと喋ってたじゃん。私は寂しいよ」
「ご、ごめん。本当に来てくれると思わなかったから、びっくりして」
「私、そんなに信用ないのかな」
ぷくっと頬を膨らませるのを見て、僕は慌てて首を振った。
「野崎さんのせいじゃないんだ。僕がまだ、この状況に馴れなくて……」
この夏休みの三日間、将彦さんの説得に島へ花嫁候補を連れていく。自分で考えたことだけど、条件がすべて揃って驚いていた。
野崎さんには完全に嫌われたと思っていた。だから、待ち合わせ場所に彼女が来るまで、僕はひとりで島に乗り込むつもりだった。
彼女がここにいることが不思議でならなかった。いまだに夢を見ているのではと疑っていた。決して大げさではなく、それくらい僕には現実感がなかった。
「どうして、引き受けてくれたの?」
僕は一番の疑問を口にした。
「それは……、受験勉強の息抜きだよ。気分転換するには、ちょうどいいなと思ったんだ。家にずっといても、息が詰まるだけだし……」
野崎さんは伏し目がちに答えた。
でも、僕はそれが本心とは思えなかった。野崎さんくらいの人物なら、息抜きなんて他にいくらでも都合がつけられるはず。まして花嫁候補役なんて、おいそれとはできないだろう。
それに、野崎さんの歯切れの悪さも気になった。彼女はこの話に、あまり触れて欲しくなさそうだ。
もしかしたら、他に大きな理由があるのかもしれない。
僕の頭の中で疑問がぐるぐると回っていた。
「でも、君の口下手はひどいぞ!」
突然、野崎さんにスイッチが入った。
「ああいう大事なことは手紙にして伝えるとか、他に方法はあったのに」
まったくの正論で、僕に返す言葉はなかった。
「二度とあんな悲劇を繰り返しちゃいけないんだ」
と、野崎さんは熱く語る。
「この三日間で、その壊滅的な弱点を克服してもらうから。栗原もそのつもりで」
「はい……」
しっかりと釘を刺されてしまった。あんな失態を演じたのだから無理もないけど、野崎さんに呼び捨てにされ、僕はちょっと、しゅんとした。
「はあ……、あれが私のはじめてのプロポーズだなんて……」
「あれは、そういう意味じゃないよ」
「わかってるよ!」
野崎さんの顔がムムムっと険しくなった。あの時の怒りがぶり返してきたようだ。こうなったら、奥の手を使うしかない。
僕はそろりと野崎さんの隣につくと、精一杯の作り笑顔で声をかけた。
「野崎さん、冷たいアイスはいかがですか……」
出港まで少し時間があった。僕たちは商業施設にあるアイスクリーム店に足を運んだ。店内はパステル調のかわいらしい色合いで、心地いい音楽が流れていた。
ショーケースには色とりどりのアイスが並んでいて、注文は好みのものをふたつ組み合わせるそうだ。
野崎さんの目は真剣だった。こういったことは、その日の気分で選ぶという。うーんと唸りながら、特殊なセンサーを働かせていた。
彼女が選んだのは、抹茶とマンゴーだった。
僕は野崎さんの気持ちが知りたくて、同じものを注文した。いったい、どういう意味なのだろうか。アイスじゃなかったら、合わない組み合わせのような気もする。
テーブル席に着くと、野崎さんは子どもみたいにはしゃいだ。
「アイスは少し溶かして食べる派なんだ。その方がおいしいんだよ」
と言って、カップを両手で包んで温めはじめた。
僕は今までアイスの食べ方なんて気にしたことはなかった。この時もすぐ口につけようと、スプーンを手に持っていた。
でも、ひとりで食べるのも気が引けて、僕も野崎さんと同じように温めた。
僕には妙な時間だったけど、野崎さんはにこにこして楽しそう。しばらくして、彼女は宣言通り、スプーンで溶けたところを口に運んだ。
「うん、やっぱりおいしい」
野崎さんはご満悦の表情だった。
何とか機嫌を直してくれて、僕はほっとしていたけど、野崎さんにはずっと翻弄されっぱなしだった。島に行く前からこんな調子では、先が思いやられる。
ふと、僕は学校での、とある出来事を思い出した。
それは、事情を知った女子生徒たちに囲まれた時のことだ。野崎さんと仲良しの女子三人組だ。
『栗原くん大変だよ。優花を選んじゃうなんて』
『男子はみんな誤解してるんだよ。ああ見えて実は、じゃじゃ馬なんだよ』
『そうそう、女神でも天使でもないからね』
にししっ、と嗤う三人。
僕はめまいを覚えて、目の前が真っ暗になった。もしかしたら、僕は思いがけない人を花嫁候補にしたのかもしれない。
「何なの? 私を得たいの知れないものみたいに見ないでよ」
ぎくりとした。
野崎さん、鋭い。
「そ、そんなこと、ないよ……」
僕はアイスをつついて誤魔化した。
「気になることがあるんなら、遠慮なく言ってくれればいいのに。いつまでも、よそよそしいと怪しまれちゃうよ。これから会う将彦って人、島のボスなんでしょ。バレたら大変なんじゃないの?」
「うん、もしバレたら、島にいられなくなるね……」
想像しただけで胃がキリキリする。
将彦さんが属する巻き網漁船団は、島の稼ぎ頭だ。親方でもある彼は、漁協でも大きな影響力をもっている。四〇代の若さで実質、島を牛耳っていると言ってよかった。怒らせでもすれば、僕の漁協行きは消滅するだろう。
「どうしよう、不安になってきた……」
「不安なら、私のことを知ればいいんだよ。人の間の距離なんて、考えるよりも思い切ってぶつかった方が、簡単に縮まるんだから」
と、野崎さんは唱える。
「今なら栗原が知りたいこと、何でも答えてあげちゃうよ」
野崎さんは誘いかけるように言った。僕の目の前でくるくるとスプーンを回す。
「私の何が知りたい?」
僕はこくりと生唾を飲んだ。そんなあけすけに問われたら、逆に戸惑ってしまうではないか……。
僕は彼女に何を聞けばいいのか、すぐには思いつかなかった。だけどその代わり、ずっと胸に引っかかっていることが頭に浮かんだ。
それは、花嫁候補を頼みに行った時のこと。
僕を襲った野崎さんの涙だ。
「どうしたの?」と、小首をかしげる野崎さんは、けろりとしていた。
今の姿からは想像できないけど、あの時の野崎さんの表情は悲痛なものだった。
僕はてっきり、彼女がこの世界のことを愛していると思っていたのに、そんな勘違いは、一瞬で吹き飛んでしまった。
なぜ野崎さんは泣いていたのか。
そんなことを、今聞いてもいいものなのだろうか。そう思うと、何だかこっちが試されている気分になる。
僕はすごく気がかりだったけど、尋ねる勇気はなかった。そのまま、もどかしくアイスをつつく。
すると、いつの間にか野崎さんの顔が目の前に。
「また、それ。近い!」
彼女はテーブルに身を乗りだしていた。僕は椅子の背もたれに仰け反った。
「どうして聞いてくれないの? 聞いて欲しいのに」
野崎さんは、不満げに口を尖らせた。
「急に言われても、思いつかなくて……」
僕は申し訳なく答える。
すると、野崎さんは、「じゃあ、私から質問するよ」と、あらぬことを尋ねてきた。
「栗原って女の子と付き合ったことないの?」
「はあ?」
と、僕は声を裏返した。ムッとして、スプーンをアイスに突き立てた。
「その質問、今回の件と関係あるの?」
「大ありだよ。好きになった人の人生だよ。当然、過去が気になるものでしょ?」
「そうかな」
「そうだよ」
野崎さんは当然といった口ぶりだ。
「どんな人を好きになったのかなあ、とか、どういう理由で別れちゃったのかなあ、とか。栗原は気にならない?」
「ならない」
僕はアイスを口にしながら、そっけなく答える。
「じゃあ、街で元恋人とばったり出くわしたらどうするの? 事前情報を持っていたほうが、驚かずに済むよ。あははっ」
野崎さんは自分で言って吹き出していた。何がそんなにおかしいのか。
「そんなこと、備える必要ないよ」
と、僕は軽くあしらった。
野崎さんがどんな恋愛をしてきたとか、どんな男と付き合ったとか、僕は知りたくもなかった。想像するだけで、なぜかむしゃくしゃしてくる。
「ねえ、どんなタイプの女の子が好きなの? ねえねえ」
野崎さんが、くねくねしはじめた。僕の引きつった顔は、まったく目に入らないみたいだ。
どうやら、あの女子三人組が言った通り、僕はこのじゃじゃ馬に振り回されることになりそうだ。
はあ、と大きくため息をついたところで、チャイム音が鳴った。
館内アナウンスが流れて、僕ははっとする。
「やばい、船が出る時間だ!」
僕たちは急いで乗り場へ向かった。係員に切符を渡し、その先の桟橋を進んだ。
目の前に見えてきた船は、すぐにでも出航できるようにエンジンがかかっていた。白い船体がゆらりと波に揺られていた。
「意外と大きいんだね」
野崎さんはまじまじと見つめる。
定期船は全長三〇メートルほどで二階建て。大きな煙突が空に伸びていて、うっすらと黒煙を吐いていた。船体にウミネコのイラスト描かれている。
野崎さんは船を見上げながら言った。
「これに乗ったら、もう引き返せないんだよね」
「うん、そうだね」
「栗原は覚悟できてる? 後悔しない?」
野崎さんが真剣な面持ちで問いかけてきた。僕は驚きを通り越して苦笑した。
まさか、野崎さんから心づもりを問われるなんて……。でも、そのおかげで僕の肩に入っていた力が抜けた。
僕は自分の気持ちに正直に答えた。
「覚悟はできてる。後悔なんてしない」
「そっか、じゃあ行こう!」
野崎さんは勢いづくと、我先にと船に掛けられたタラップを渡った。彼女に怖いものはないみたいだ。
「ほら、早く。栗原も上がってきなよ」と、威勢がいい。
野崎さんに呼ばれて、僕もタラップを渡った。その踏み出した一歩に、胸の高ぶりを感じた。
きっと、島に帰れば、想像もできないことが待っているはず。この作戦が功を奏するのか否かはわからない。
でも、この夏が僕にとって、特別であることは間違いない。
そして、野崎さんにとっても……。
「これが高校生活最後の夏休みだね」
野崎さんの声は弾んでいた。
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