第6話 完璧な計画
たしかに、彩音の言う通りだった。僕にお鉢が回ってきた。
作品に熱を上げたおじいちゃんに続き、上京をなりふり構わず反対した彩音。そして、今度は僕。
どこか因縁めいている気がした。これが栗原家が持つ血の為せる業なのか。
人生安全運転が僕のモットーだったのに、今は完全に暴走状態だった。
あの夜から数日経っていた。その間、将彦さんとは音信不通だった。条件だけ突きつけておいて、あとはだんまりを決め込んでいた。
僕は直ぐにでも島に帰りたかったけど、期末テストが目前だった。それに、ポンと飛行機代を出せるほど、お金に余裕があるわけでもなかった。
だから僕はやると決めた。花嫁候補だろうが何だろうが島に連れて行く。将彦さんに僕の本気を見せてやるまで。
と、意気込んだところで、僕に花嫁候補となる存在はいなかった。
今から告白して、彼女を作ろうなんていうのも無理な話だった。なにせ僕はモテないのだ。今まで女の子と付き合った経験もなかった。
そこで、僕は考えた。
花嫁候補の役を演じてくれる人を探そうと。
僕はきちんと条件を満たした上で、将彦さんの説得に挑もうと考えていた。夏休みを利用して、協力者といっしょに島へ乗り込むのだ。
期間は三日間。その間だけの花嫁候補というわけだ。当然タダとは言わない。ちゃんと報酬を用意していた。
僕はバッグのポケットから、慎重に封筒を取り出した。その中には僕の少ない貯金から切り崩した、大切なお金が入っている。僕はその封筒に、あのやさしい笑顔を重ねた。こんな無茶なことを頼めるのは、たったひとり。野崎さんをおいて他になかった。
僕は放課後、ひとりで学校に居残っていた。この時間、野崎さんの進路相談が行なわれていた。
教室の机のフックには、彼女のスクールバックが掛かっていた。終わればきっと、ここに取りに戻るはず。
僕たちの教室は三階にあった。その廊下の窓から、相談室がある特別校舎が望めた。
間に遮るものは何もなく、ここで見張っていれば、野崎さんの姿を捉えることができるのだ。
見上げた空は晴れ渡っていた。陽が傾いている割に、外はまだ明るかった。もうすぐ夕暮れというのに、梅雨の蒸し暑さは健在だった。でも、今日は風がある分いくらかましだ。
僕は窓辺に体を預け、中庭を見下ろした。校舎に囲まれたそこには、背の高い時計台が建てられていた。
卒業生から寄贈されたそれは、この高校のモニュメントになっていた。
白い文字盤は少しくすんでいて長い年月を感じさせるけど、銀色の支柱は鏡のようにきれいで、空の色をくっきりと映している。
その時計台が、勝負が近いと告げていた。時刻は午後四時。時計の長針が四十五分を、ほんの少し跨いだ時だった。
特別校舎から人影が現れた。こっちに向かって近づいて来る。
一体誰なのかと僕は目を細めた。
この距離では表情はわからないけど、長い手足をきれいに振って、颯爽と渡り廊下を歩いているその人は、確実に、野崎さんだ。
「本当に来た!」
一気に緊張感に包まれる。
喉元の血管が激しく脈打っていた。つられて呼吸も浅くなる。
僕の人生でこんなに緊張することなんてなかった。授業中、突然先生に当てられた時の一万倍は焦っていた。
「落ち着け、大丈夫」
僕は自分に言い聞かせる。
この日のために入念な準備をして来ていた。何度もシミュレーションを繰り返し、シナリオまで作っていた。セリフは全部、頭の中に叩き込んでいる。
毎日猛特訓を積んできたのだ。鏡の前で何度頭を下げたかわからない。練習どおりやれば、口下手な僕でもきっと上手くいくはず。
ほどなく、野崎さんの姿が校舎の中に消えた。すると、階段を上る足音に変わった。それが大きくなるにつれ、僕の鼓動も跳ね上がる。
野崎さんが、もうすぐここにやって来る。
僕は意を決し、封筒を手に駆け出した。
しきりに、シナリオを頭の中で反芻する。廊下の突き当たり、階段を上りきろうとする野崎さんが見えた。
僕は決死の覚悟で駆け寄ると、出会い頭に彼女に声をかけた。
「野崎さん、お願いが……」
と、次の瞬間、僕は言葉を失った。目に飛び込んできた光景は、まさに絶望的なものだった。
野崎優花は泣いていた。
声も上げず、ぼろぼろと大粒の涙をこぼしていた。その表情は何かを憎むように、きつく眉根を寄せていた。
彼女は視線をはずすと、決まりが悪そうに涙をぬぐった。
「何か用?」
口調が明らかに苛立っていた。
その冷たい態度に、僕は二重の衝撃を受けた。
「早くしてよ。用がないなら行くけど」
野崎さんは不満げに急かしてくる。
でも、僕の口からは何も出てこなかった。シナリオは、すでに木っ端微塵に砕け散っていた。
僕はこの状況を挽回しようと必死だった。目を回しながら、シナリオの欠片を掻き集める。
そして、何とか頭の中で言葉をつなげると、それがどういう意味を成すのかを考える余裕もなく、僕は封筒を差し出して、とんでもないことを口走った。
「三万円で僕と結婚してください」
はあっ?
僕は何を言ってるんだ。違う、ぜんぜん違う。僕が言いたかったことは、これじゃない。
動揺から口走った言葉に震え上がった。嫌な汗が一気に噴き出して、激しい喉の渇きに襲われた。
一瞬驚いた野崎さんの顔が、みるみる険しくなっていった。そして怯える僕に、彼女の怒りが爆発した。
「この頓珍漢の素寒貧!」
うあああーんっ、と叫んだ野崎さんに、僕は激しく突き飛ばされた。
床に転がった僕の横を、彼女が猛スピードで走り抜けていく。その拍子で、手放した封筒から三万円が舞い散った。
「違う……、違うんだ、野崎さん……」
僕はわなわなと震えながら、お金を拾った。
冷たい視線を感じて振り返ると、野崎さんはすでに、自分のスクールバッグを手に立っていた。
まるで、まずいものを食べたみたいに顔をしかめた。
「栗原最低! うあああーんっ」
野崎さんは踵を返し、ふたたび駆け出した。
このまま、彼女を行かせるわけにはいかない。僕はすぐさまあとを追った。
「待ってよ、野崎さん!」
「嫌だ、ついてこないで!」
「助けて欲しいんだ。野崎さんしかいないんだ!」
「そんなの知らない!」
お互い必死だった。慌ただしい足音が、無人の校舎に響き渡る。
僕が廊下の突き当たりに来た時には、野崎さんはすでに階段の踊り場にいた。その動きが機敏なのは、彼女が陸上部員だからだ。
こわごわと階段を下りる僕とは違い、野崎さんはためらわずに駆け下りていく。
「さっきのは誤解なんだ。話を聞いてよ!」
僕は欄干から身を乗り出して叫んだ。
けど、野崎さんは僕を睨みつけるだけで、そのまま構うことなく下りていく。見る間に差が開いていった。とても僕の足では追いつけそうになかった。
「ああ、もう最悪だ!」
僕は思わず弱音を吐いた。
一階に降りて中庭を横切った。勢いよく校舎を抜け、学校の門をくぐる。僕が川沿いに出ると、野崎さんはアーチ橋に迫っていた。
もう猶予はなかった。僕の体力も限界だった。このまま振り切られてしまえば、僕の人生は本当に終わってしまう。
野崎さんが橋を渡りはじめると、距離が少し縮まった。それが最後のチャンスだった。
僕はこの瞬間にすべてを賭け、ありったけの力で叫んだ。
「野崎さん、聞いてよ! このままじゃ島がなくなっちゃうんだ! 僕の生まれた島なんだ!」
喉が張り裂けそうになった僕の声は、きっと野崎さんの耳にも届いたはず。
だけど、彼女は前を向いたまま走り続けていた。そのまったく乱れのないフォームは、とてもきれいで、僕はそれがすごく悲しかった。
野崎さんの背中が見えなくなった。
それでも僕は追いかけ続けた。もう無駄とわかっていても、なぜか走るのを止められなかった。
僕の体が悲鳴を上げる。足がもつれて何度も転びそうになった。僕は無様な姿を晒しながら、商店街を駆け抜けた。
ようやく足が止まったのは、駅の踏切だった。遮断機が下りていて、僕はふらふらとその場に崩れ落ちた。
「何やってるんだよ、もう……」
僕は苦痛に顔を歪めた。
息も絶え絶えで、心臓が今にも破裂しそうだった。
踏切の警報音が、僕を責め立てるように鳴り響いている。僕は完全に打ちひしがれていた。もう島にも、家にも、学校にも、僕の居場所はどこにも無い。こんなことなら、いっそのこと……。
流れ込んできた電車を見つめながら、そんなバカなことが頭に浮かんだ。
「島って何のこと?」
誰かが僕の前に立ちはだかった。
「話ぐらいは聞いてあげる」
その白いスニーカーは、どこか見憶えがあった。
顔を上げると、ムスッとした表情の野崎さんが見えた。彼女は大きく息を吐いて、呼吸を整えていた。
「ああ……」と、僕は泣きそうな声を上げた。
もしかして、これは悪いことがあったあとの、いいことなのだろうか。
僕の人生がまだ続くということに気づくのは、それから、もうしばらく経ったあとだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます