第5話 戦士のポーズはお静かに
家族で上京することになったのは、今から三年前のこと。
父の転勤が決まった。真面目な仕事ぶりが評価されたのだ。栄転という言葉に、父も母も表情を緩めていた。
島から働きに出ることが大変なのは、僕も理解していた。街への交通手段は定期船だけ。しかも、一日たったの五便という少なさだった。
夜遅くまで働く父は、最終便に間に合わないこともしばしばで、家に帰って来る方が珍しかった。
そんな苦労を知ってか、懇意にしていた島民は祝杯を上げてくれた。島では滅多にない出世劇に、島は小さく沸いていた。
僕が高校進学を控えていたことも重なって、もはや家族四人で上京するのは、当然の成り行きのように思えた。
だけど、そんな流れを断ち切ろうとする者が現れたのだ。
それは僕の妹、彩音だった。
「家にいない人が勝手に決めるな!」
そう激怒する妹は、上京の話が出た日から小さな体を目一杯使って反対した。それはもう手がつけられないほどで、泣くわ喚くわの大暴れだった。
どこで知ったのか、一度ハンガーストライキを決行したことがあった。人の目に留まりやすい玄関口を陣取って、内外に抵抗の姿勢を示した。
突飛な行動は周囲を大いに驚かせたけど、空腹には抗えず、結局、翌日のお昼に無念のリタイアとなった。
子どものやることと、大人たちは笑っていたけど、本人はいたって真剣。むしろ、それからさらに熱を上げる始末で、島を離れる当日まで、彩音には手を焼かされた。
そんな妹に、僕は何度も問い詰められたのを憶えている。
「どうして、いっしょに邪魔してくれないの? 直人くんだって島から出たくないんでしょ」
まったく、彩音と僕は七つ違いというのに、妹の方が何枚も上手だから本当に困る。
たしかに彩音の言う通りだ。
僕も島を離れたくなかった。大好きなおじいちゃんと、ずっといっしょに暮らしていたかった。
なのに、僕は彩音をなだめるだけ。そんな頼りない兄に、妹はさぞ歯がゆい思いをしたに違いない。
あれから三年。彩音はあの時のことを、どう思っているのだろう。もしかしたら、今でも恨んでいるかもしれない……。
とまあ、そんなことを真面目ぶって思い出してみたけど、いまひとつ締まらなかった。風呂場の鏡には、鼻の下が伸びた僕の顔が映っている。
体がぽかぽかしていた。何だか布団に包まっているみたいだった。
僕は熱を冷まそうと、シャワーヘッドを手に取った。蛇口をひねって、冷たい水を頭から被ると同時に、僕の理性は吹き飛んだ。
「奇跡だ! 奇跡が起こっぱあばばばっ……」
思わず水を飲んでしまった。
夕方のことが頭から離れなかった。野崎さんの笑顔が、瞼の裏に焼きついていた。
「あんなの反則だ。人生変わっちゃうくらい、かわいい!」
叫び声が風呂場の壁に反響した。僕は完全に舞い上がっていた。家に帰ってから、ずっとこんな調子だった。五分くらいの映像を何度も思い返しては、物思いに耽っていた。
野崎家はかなり上流の家柄だと、どこかで聞いたことがあった。
野崎さんのお父さんが、業界では有名な人物らしく、テレビや雑誌のインタビューを受けるほどの実力者だという。
僕は気になってネットで調べたけど、残念ながら該当する人物にはたどり着けなかった。
でも、きっと裕福な家庭なのだと思う。それは、野崎さんの雰囲気からも想像がついた。
対して栗原家の家柄に、これといって語るものはなかった。家族で上京して生活できることを考えれば、恵まれている方かもしれない。
3LDKの賃貸マンションは築三十年を超えているけど、家賃を聞いた時はびっくりした。父の頑張りに頭が下がる思いだった。
そんな父は上京して一年も経たず海外赴任が決まった。今は三人でこの家に暮らしていた。
「高嶺の花か……」
僕はため息をついて、風呂椅子に腰を下ろした。何だか格の違いを見せつけられた気がして、しょんぼりする。
やはり、野崎さんとは住む世界が違うのだ。仲良くなろうなんておこがましい。僕には遠くから眺めているくらいが、関の山だろう。
ふいに、あらぬ光景が頭をよぎった。
「んあっ」と喘いで、僕は悶絶した。
正直に告白すると、僕はあの時、スクールバックなんて見ていませんでした。
野崎さんが、それをぎゅっと抱きかかえていたせいで、くっきりと浮き出た胸の膨らみに、僕の目は奪われていました。
途端に、ムクムクと、怪しい感情が湧き上がってきた。僕は両手で顔を覆った。
「これ以上は、あきまへん……」
今宵の僕の脳内は、まったくもって騒々しい。そそくさとシャワーを終わらせ、僕は風呂場をあとにした。
夜も十時近くになっていた。
僕は薄暗い廊下でこっそりと、リビングの様子を窺っていた。陽はとっくに落ちたというのに、地の底から湧き上がってくるような蒸し暑さだった。
僕は無性に喉が渇いていた。何でもいいから冷たいものが欲しかった。キッチンはリビングの向こう。冷蔵庫はすぐそこだった。
なのに、なぜ僕がこんなところで二の足を踏んでいるのか、という話。それは、リビングいる母と顔を合わせたくなかったからだ。
「早く寝てくれたらいいのに……」
僕は勝手なことをぼやいた。
母は僕の就職に反対していた。大学進学を望んでいた。母はそれが正しい選択と言わんばかりで、最近は何かにつけて僕の意思を変えようと迫ってくる。しつこくすれば折れると思っているようで、僕はそれが煩わしくて仕方がなかった。
もう議論の余地はなかった。漁協とはすでに話がついている。
最悪このまま平行線でも、家を飛び出して島に帰ればいいだけだった。僕はすでに自分の魂を島に置いてきている。
ガラス戸越しに、ソファーに座る彩音の頭が見えた。何か夢中で手元をいじっていた。
「彩音、テレビ見てないなら消しなさい」
母の小言が聞こえてきた。
「ちゃんと見てるもん」
「見てないじゃない、さっきからスマホいじってる」
「ちょっと待って、あと少しだから」
「言うこと聞かないんだから、もう」
いつもの他愛ない会話だった。意外にも母の機嫌は悪くはなさそう。
そっと中を覗き込むと、部屋の隅で蓮華座になった母の姿が見えた。どうやら趣味ではじめたヨガの最中のようだ。母は目を閉じて自分の世界に入っていた。
これは願ってもないチャンスだった。喉を潤すのは、この時以外にはなかった。
僕はドアノブに手をかけると、息を殺してリビングに入った。そのまま、気づかれないようにキッチンへ向かう。
何だか拍子抜けするくらい上手くいった。してやったりと笑みがこぼれた。冷蔵庫はもう目の前。とその時だった。
すうっと伸びてきた母の腕に、僕は行く手を阻まれた。
「直人に話があるんだけど」
妙に落ち着いた低い声だった。
僕がそろりと視線を移すと、母の奇妙な姿が目に飛び込んできた。
「何してるの……」と、僕は気色ばむ。
母は広げた両腕を水平に保ち、大きく開いた足は強く床を踏みしめていた。まるで剣を手に戦いを挑むかのようなその姿勢は、ヨガで言うところの戦士のポーズだった。
「今日、進路相談があったんでしょ」
僕はぎくりとした。干渉されたくなくて、母には黙っていたのに。
「隠しても無駄よ。ちゃんとわかってるんだから。だって私、普段から先生と連絡取り合ってるもの」
母はしてやったりといった表情だった。やはりこいつは曲者だ。僕は一気に不機嫌になった。
「先生と話したんなら、もうわかってるでしょ」
僕は母の腕を押しのけ、キッチンに入った。
「ちょっと、待ちなさい。まだ話終わってない」
母がばたばたとカウンター越しに詰め寄ってきた。
「ねえ、考え直してよ。直人の学力ならいい大学狙えるんだから。焦って就職なんてもったいないわよ。大卒なら就職も有利になるんだし、悪い話じゃないでしょ。島に帰るのはそのあとでもいいじゃない」
母はとにかくよく喋る。頭のてっぺんから声を出しているみたいでよく響く。
いったいどういう構造をしていたら、そんなに舌が回るのか。その特性の半分でもいいから、こっちに分けて欲しかった。
「直人にはまだ知らないことがたくさんあるの。もっと広い世界を見るべきよ。島の人たちも期待してくれたでしょ。それを忘れちゃ駄目なんだから」
僕はそっぽを向いて冷蔵庫のドアを開けた。麦茶の容器を取り出すと、わざと大きな音を立ててグラスに注いだ。
「またそうやって、だんまりを決め込むんだから、もう!」と、母はむくれる。
僕は機嫌が悪くなると押し黙る悪い癖があった。ただでさえ口数が少ないのに、へそを曲げて黙りこくるからタチが悪い。
自分でも自覚はあるけど、なかなか治せないでいた。今の僕はまさに、不機嫌の塊と化していた。
「大学受験、まだ間に合うでしょ。私もサポートするから、ね。いっしょに頑張ろうよ」
母が何か言ってるけど、僕は相手にしなかった。
グラスに口をつけ、麦茶を一気に飲み干した。つかの間、ほっと一息ついたけど、味はやけに苦く感じた。
「ちょっと話、聞いてる?」
「聞いてるよ、僕は漁協で働くんだ。もう決まってるんだよ」
「直人くん島に帰るの?」
突然、彩音が話に入ってきた。
「そうだよ、卒業したら島で働くんだ」
「どうして島なの?」
「どうしてって……」
僕と母の争いを、いつも白けた目で見ていた妹が、珍しく興味を示していた。しかも、その表情はどこか重々しい。
僕は意外に思いながらも、真剣に彩音の質問に答えた。
「今、島は大変な状態なんだよ。人が出て行くばかりで手が足りないんだ。このままじゃ漁にも支障が出るし、島が成り立たなくなるんだよ」
「島のためなの?」
「うん、そうだよ。島の役に立ちたいんだ。それに、僕には島暮らしの方が性に合ってると思うんだ。僕は島のことが大好きだし……」
「だったら、あの時いっしょに邪魔してくれたらよかったのに!」
突然、彩音は声を荒らげた。
「またその話? もう許してよ!」
どうやら、僕は彩音の誘導尋問に引っかかったようだ。すぐさまキッチンを飛び出して、彩音の前にひざまずいた。
「もしかして、あの時の事、まだ怒ってるの?」
僕は涙目で尋ねた。
「別に怒ってないよ。あの時は嫌だったけど、こっちに来てからは楽しいし」
僕はそれを聞いてほっとした。
皮肉な話だけど、あれだけ上京に反対していた彩音が、家族で一番都会暮らしに馴染んでいた。島とこっちの友だちで、毎日忙しく連絡を取り合っていた。
「彩音はね、不思議なの。いつも遠回りしてる直人くんのことが。直人くんの人生って、どうしてこんなにツイてないんだろうって」
僕は話が読めず、首をひねった。
「落ち着いて聞いて欲しいんだけど」
彩音はリモコンを手に取ると、テレビのスイッチを切った。リビングが一瞬で静まり返る。
僕はただならぬ空気に、正座に座り直した。
「直人くんが帰って来る前に、島から電話があったんだ」
「誰からかかってきたの?」
「将彦さんだよ」
その名を聞いて緊張が走った。彼は漁協の組合長であり、僕の雇用主でもある。言わば、島のボスだ。
僕は息をひそめて尋ねた。
「何て、言ってたの?」
「雇用の件は白紙だって」
「はうっ」と、僕は息を詰まらせ仰け反った。
あまりの衝撃に、そのまま身動きできず固まった。
白紙って何だ。それって取り消しって意味じゃないか。これまでのこと、全部無かったことにされるのか……。
何も考えられなくて、頭の中が真っ白になった。
でも、島に置いてきた僕の魂が、ゆらゆらと、どこかへ飛んでいくのは見えた気がする……。
即死した僕に、彩音は告げた。
「あっ、そうだ。どうしても雇ってほしいなら、お嫁さん連れて来いって。花嫁候補って言ってたよ」
「ハナヨメコウホ……」
その言葉で、僕の記憶が甦った。
それは、去年、あの夏の日の出来事だった。僕にとって忘れられない大切な想い出だ。
花嫁候補の話は、その時おじいちゃんが僕に言った、何気ない冗談だったはず。なのに、それを雇用の条件にするなんて、将彦さんが何を考えているのか、僕はわけがわからなかった。
「そうだ、直接本人に聞こう……」
僕はよろよろとした足取りで、リビングの電話口に飛びついた。番号を思い浮かべ受話器を手にする。
けど、目に入った時計の時刻は夜の十時を回っていた。将彦さんが属する巻き網漁船団は深夜操業する。忙しいこの時間の電話ははばかられた。
僕はやむなく受話器を元に戻した。
「これは考え直す、いい機会じゃないかな」
このタイミングで、母がまた何か言いはじめた。
「辛い話かもしれないけど、将彦さん、直人のために言ってくれたんだと思うよ」
この人らしい、都合いい解釈だ。
「でも、直人くんに大学生は似合わないよ」
「そんなことないわよ。直人は慣れるのに少し時間がかかるだけ。今はまだイメージが掴めてないのよ。そうだ、直人。ヨガを教えてあげる。ヨガはイマジネーションを高めてくれるの。モチベーションも上げてくれるんだから」
こんな時に、母の話を聞く余裕なんてなかった。僕は耳障りな声に顔を歪める。
いくら僕の人生がツイていないからって、こんな理不尽な条件、絶対に許せなかった。かと言って、島を諦めるなんて死んでも嫌だった。
まさに、どん底の気分を味わっていると、ふつふつと胸の奥から何かが湧き上がってくるのを感じた。
それは、僕が今まで抱いたことがない真っ黒な感情の渦だった。それが次第に形を成すと、僕の肋骨を内側からなぞった。
「わかったよ、連れて行けばいいんでしょ」
自然に言葉が口をついて出てきた。手のひらにかいた汗が一瞬で消えた。自分でも不思議なくらい落ち着いていた。
「直人くん、本気なの?」
彩音が心配そうに、僕の顔を見上げた。
「本気だよ。島に花嫁候補を連れて行くんだ。それなら文句ないはず。将彦さんと話をつけてくる」
迷いなく語る僕に、ふたりは目を丸くした。
「どうしてこうなっちゃうの……」
母は力なくヨガマットに倒れ込んだ。それを見て、彩音はにんまりして言った。
「今度は直人くんの番だね」
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