第4話 御一人様、女神様

 なななっ、なんで野崎さんがここに?


 心臓がばあんと跳ね上がった。彼女をこんな間近に見るなんてはじめてだった。僕の視界が野崎さんでいっぱいになる。

 小さな顔に黒目がちな瞳が余計に大きく見えた。彼女は無邪気な笑顔を作っていたけど、目鼻立ちが整っていて美しい。

 雨の青臭い匂いをかき消すように、野崎さんの爽やかな匂いが僕の鼻をくすぐった。彼女が放つオーラに僕はたじたじだった。


「どうしたのっ?」


 思わず声が上ずった。


「あのね、ちょっと用事で学校に残ってたんだけど、その間に、事件が起こったんだよ」


「事件?」


「そう。誰かが私の傘を勝手に持って行っちゃったんだ。ひどいでしょ」


「それは、ひどいね……」


「雨ぜんぜん止まないし、誰もいないし。もう濡れてもいいかなって諦めかけてたの。そうしたら」


「……そうしたら?」


 野崎さんが僕に顔をぐーんと寄せてきた。


「私の目の前に現れたんだよ。傘をさしてる、栗原くんが」


 近いっ!


 その距離はすでに僕の限界を超えていた。まるで胸を撃ち抜かれたような衝撃が走った。

 頭が良くて、透明感があって、ふんわりとした優しい雰囲気。まさにこれが正統派美人。君嶋くんの言っていたことに今更ながら納得した。

 これならみんなが魅了されるのも頷けた。同時に、僕の劣等感も否応なしに持ち上がる。


 僕は野崎さんの窮状を聞き、「なるほど……」と、返事をした。


 けど、本当は全然まったくなるほどじゃなかった。完全にパニック状態の僕は、頭の整理が追いつかなかった。とにかく、野崎さんを雨に打たせるわけにはいかない。その気持ちが一番強かった。

 僕は視線を泳がせながらも、何とか傘を差し出した。


「どうぞ……」


「ありがとう」


 駅までいっしょに帰ることになった。




 いつもの通学路は川沿いだった。

 その先には緑色のアーチ橋が架かっていて、それを渡り大通りに出ると、駅まで続く商店街がある。

 何度も通った道なのに、今の僕には世界が違って見えた。隣に学校一の美女がいるのだ。降って湧いたような幸運に、僕の足取りはおぼつかない。

 目が合うと、野崎さんは微笑み返してくれた。どこかしら、子どもっぽさを残した笑顔が、いちいちかわいい。

 アーチ橋まで来ると、そよ風が野崎さんの長い黒髪を揺らした。


「ねえ、これ見て」


 彼女は胸に抱えていたスクールバッグを僕に見せた。


「ぱんぱんでしょ」


「うん、ぱんぱん……」


 それは、今にもはち切れそうなくらい膨らんでいた。


「私、陸上部なんだけど、三年生はもう引退なんだ。だから学校に残って、部室を整理してたの。結構いろんなものが溜まってたから、こんなに大きくなっちゃった」


 僕は陸上部と聞いて、頭の中にある彼女の記憶を辿った。野崎さんが美しく宙を舞う姿が甦る。


「確か……、高跳び、だっけ?」


「そう!」


 野崎さんは走り高跳びの選手だった。彼女が校庭で練習をする姿を、僕は何度か目撃したことがあった。人の背丈ほどあるバーの上を、器用に体をひねって飛び越えていた。今思い返しても感動が甦ってくるくらい、その姿が鮮明に僕の記憶に残っていた。

 野崎さんは並の運動神経の持ち主ではなかった。


「最後の試合は散々だったんだよ」


 と、野崎さんは悔しそうに話す。


「中学からはじめた陸上人生の総決算だったんだ。だから、たくさんの人が応援に来てくれたの。なのに全然跳べなくて。記録が出ないのもそうだけど、みんなの声援に応えられないことが辛かった」


「そんなことがあったんだ……」


「そうなの。失敗のたびに、応援席から『ああ……』ってため息が聞こえてくるんだよ。それがまだ耳に残ってる。トラウマになったらどうしよう」


 野崎さんはスクールバッグを、ぎゅっと抱きしめ身悶えた。


 彼女はいつも注目される存在だ。だからこそ期待が大きければ大きいほど、期待に背いた時の反動も強くなる。そのことで罪悪感に苛まれることもあるのだろう。

 僕にはその重圧は想像もできないけど、彼女の話を聞いて、何だか身につまされてしまった。僕は気落ちしたくなくて、これ以上考えないことにした。


「ところで栗原くんは、どうして学校に残ってたの?」


 野崎さんはころっと表情を変えた。

 突然の質問に、僕はぎくりとした。


「し、進路相談があったんだ……」


 何とか息を整え答えた。


「ああ、そうだ。もうはじまってるもんね。私の番ももう直ぐだ。松山先生厳しいよね。熱血なところがあるから」


 うん、うん、と、僕は何度もうなずいた。


「進路決まってるの?」


「まあ、だいたい……」


「さすが、優等生だね」


 と、野崎さんは屈託ない。


 でも、僕は買いかぶられた気がして、すぐに首を横に振った。成績では野崎さんだって上位だ。勉強もスポーツも、何でもできる野崎さんとは世界が違う。

 どうするか少し迷ったけど、いずれ知られることだ。僕は思い切って野崎さんに打ち明けた。


「僕は、就職希望なんだ。漁協で働くんだ……」


「ギョキョー?」


 野崎さんは口を尖らせた。

 彼女が驚くのも無理はない。同じ理系クラスで、就職を希望する生徒は僕くらいだ。しかも、まったく畑違いの仕事だった。


「栗原くん漁師になるの? お魚獲るの?」


「い、いや、そうじゃないんだ……」


「じゃあ、なに? なになに?」


 野崎さんが、また顔を近づけてきた。意外にも彼女は興味津々のご様子だった。その拍子で、傘を持つ僕の手に野崎さんの体が触れた。一気に体温が上がって、僕はしどろもどろになった。


「ぎょ、漁協は、漁師の奉仕者で……、つまり、その……」


 何でも屋だけど、そんなに見つめられたら、答えようにも答えられない。


「進路相談より緊張するんだけど……」


 僕は思わず本音を漏らした。


「栗原くんて、おもしろいね」


 野崎さんはくすくすと笑っていた。




 気がつくと、すでに商店街だった。雨というのに人通りは多く賑わっていた。道なりに三〇〇件ほどの店が並んでいた。

 その中で特に目立つのは精肉店だった。店の前に通りがかると、店主らしき男が大きな声で客を呼び込んでいた。

 売れ筋は手作りコロッケだった。この商店街で名物になっていた。

 野崎さんはちらりとコロッケに目をやった。美味しいもの興味があるのだろうか。人混みの向こうに踏切が見えた。もう直ぐ駅だった。


「いっしょに帰ってくれてありがとう。おかげで濡れずに済んだよ」


「いえ、別に……」


 僕はぶるぶると首を振った。


「ひとりで帰るの寂しかったし、話もできてよかった」


「うん」と、僕はうなずいたけど、ほとんど話していたのは野崎さんの方だ。


「何だろうな、この感じ……。何かに似てるんだ」


野崎さんは唐突に、何か思いを巡らせはじめた。指をタクトのように、くるくると回している。

 しばらくして、その答えが空から下りてきたようだ。


「わかった!」 


「ど、どんな感じ?」


「この感じは、美味しいものを食べたみたいな感じ」


「美味しいもの?」


「そう」


 野崎さんはにっこりと顔をほころばせる。


「傘盗られちゃって落ち込んでたけど、今はそんな感じで満ち足りてる。たぶん人生って、悪いことがあったあとには、いいことがあるもんなんだよ。どんな些細なことでも、そういうことにひとつひとつ、気づくことって、とっても大切なんだと思う」


 急に僕には野崎さんが大人びて見えた。


「ねえ、栗原くん」


「はい」


「さっきのお肉屋さんのコロッケ、食べたことある? めちゃくちゃ美味しいんだよ」


「食べたことないです」


「今度食べてみて。一個七十円」


 野崎さんは、ぴんと人差し指を立てて、かわいらしくポーズを決めた。

 僕はしばらく呆気に取られていたけど、彼女の茶目っ気につられて、僕も自然と笑顔になった。


 駅に着いて、僕たちはそこで別れた。

 野崎さんの帰りのホームは、僕と反対側だった。電車が近づいてくるのが見えて、彼女は足早に踏切を渡って行く。


「バイバイ」


 と、野崎さんが大きく手を振ってくれた。


「さようなら……」


 と、僕はぎこちなく手を振り返した。


 いつの間にか雨は上がっていて、雲の切れ間から陽が差し込んでいた。濡れて光る地面がすごくまぶしかった。


 僕は高揚していた。とても幸せな気分だった。僕は世界が一変したのを感じながら、彼女が改札口に消えるまで、その後ろ姿を見送っていた。

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