第2話 満員電車に揺られて

 あれから半年が経っていた。僕は高校三年生になっていた。


 進学から就職へ舵を切り、僕の人生は大きく変わるかに見えたけど、東京での生活は毎日同じことの繰り返し。代わり映えのしない日々が続いていた。

 そんな僕の一日は、朝早くはじまる。片道一時間の電車通学のおかげで、起きるのはいつも朝五時だ。


 まだ目覚まし時計が鳴る前、僕はぱっと目を覚まし、すくっとベッドから出で、そのまま、ふわっと洗面台へ向かう。

 朝が苦手ではなかった。早いと言っても辛いとは感じなかった。

 鏡の前に立って寝癖をチェックする。髪の毛が跳ねるところは、だいたい、いつも決まって右の後頭部。僕のつむじが左向きに巻いているのが理由だ。


 僕はそそくさと顔を洗って寝癖を取ると、自分の部屋に戻り制服に着替える。今は夏服で学校指定の半袖シャツに、ネクタイをするのが決まりだった。胸には小さな刺繍のロゴついていて、なんでも有名なデザイナーに作ってもらったそうだ。

 僕にはその良さがまったくわからなかった。制服としての機能を満たせば、デザインなんて正直なんでもよかった。


 とにかく着替え終えると、そのまま机に向かった。ここから一時間、朝学習に入るのだ。この時間帯は勉強するにはうってつけだった。ぐっすり寝たあとだと、疲れも取れていて、集中力が上がるのだ。

 朝学習は、僕が小学生の時からずっと続けてきた習慣だった。

 それは楽しいとか、好きとかの問題ではなく、そうしないと一日がはじまる気がしなかった。顔を洗うのと同じように、特別意識することもなく、動作は自然に行われる。

 だから、大学進学はやめても、勉強はやめられなかった。これはある意味、習慣化の副作用なのか。今も変わらず僕は勉強のために生きている。


 そんなヘンテコな僕のことを、妹の彩音はロボットみたいとからかっていた。何の感情も持たず勉強する姿を、彩音は理解できないようだ。

 僕は普段から愛想がよくないし、あまり笑わないから、余計に無機質な人間に見えるのかもしれない。

 でも本当はそうじゃないことを、彩音はわかってるはずだけど。



 今日は生憎の空模様だった。パラパラと雨粒が空から落ちてくる。天気予報では丸一日降り続くと言っていた。僕は傘を手に家を出た。

 駅に着いて改札をくぐると、階段を上りホームへ向かった。僕が乗るのはいつも七時二分の電車だ。先頭から五車両目と決めていた。理由は降りる駅の階段出口が近いこと。そして比較的空いているから。

 とは言え、乗客が多いことには変わりない。

 僕と同じことを考えている人たちが、次々と乗り込んでくる。その度に、僕は梅雨の蒸し暑い熱気にさらされ、人波に押しつぶされる。


 満員電車は憂鬱だった。毎日もみくちゃにされるなんて世知辛い。

 僕の背丈は日本人の平均身長と同じ一七一センチだった。あと五センチ高ければ、息苦しさや、圧迫感もマシになるのだろうけど……。背が高い人がうらやましい。


 島にいた時には、まったく想像もできない生活だった。

 上京してすぐは驚くことばかりで、どうしてこんなに人や物が溢れかえっているのか、不思議で仕方なかった。

 僕の生まれ育った小岐島は、人口二百人足らず。島には何もなく、周りには海が広がっているだけ。そんな田舎から、いきなりの都会暮らしだった。


 僕にはその頃、東京の街並みが荒れ狂う波のように見えていた。その大海原に、ひとり投げ出されたような不安感に襲われた。


 駅について電車を降りると、そこから徒歩で学校へ向かう。通学路は商店街だった。まだ朝早くて開いている店は少ないけど、通行人はひっきりなしに行き交っている。

 僕も他の生徒たちの流れに紛れ込む。

 十分ほど歩くと大通りに出る。その先に緑色のアーチ橋があり、川を渡ると学校が見えてくる。

 僕は正門をくぐり、校舎の三階にある教室へ向かった。三年十組が僕のクラスだった。席は前から四列目の窓際だ。

 僕は席に着くと、かばんから雑誌を取り出した。僕がよく読むのは天文雑誌だった。それを机に広げ、ぱらぱらとページをめくる。授業がはじまるまで、そうやって静かに過ごしていた。


 学校ではいつもひとりだった。僕は極度の人見知りで、ありえないほど口下手だった。

 まともに人と会話できるのは、家族や島の人くらい。だから僕はできるだけ、他の生徒の視界に入らないようにしていた。目立たないように物静かに。気配を消して一日を送る。

 幸いこのクラスの生徒はみんなやさしかった。こんな冴えない僕を、そっとしておいてくれるくらい大人だった。まあ、僕にかまっている暇はないというのが、正直なところだろうけど。

 三年生に進級して、まだ二ヶ月ちょっと。僕がこのクラスに慣れるより先に、周りが僕の扱いに慣れてくれたようだ。


「栗原くん聞いてよお」


 ある男子生徒が僕に泣きついてきた。

 彼の名前は君嶋きみしまくん。

 空いていた前の席に座ると、僕の机の上に突っ伏した。僕は広げていた雑誌を、慌てて引っ込める。


「昨日、最悪だったんだよ。もうズタボロだよ」


 と、彼は上目遣いで哀れみを乞う。

 君嶋くんはこの学校で唯一、僕に話しかけてくれる生徒だった。出席番号が彼の次ということもあり、顔を合わせることが多かった。

 そんな君嶋くんが弱りきっていることに、僕にはだいたいの予想がついたけど、ここはあえて尋ねてみる。


「何があったの?」


「進路相談だよ。先生にこっぴどく怒られたんだ。僕はもう完全に落ちこぼれ扱いだったよ。そう言われても仕方がないんだけどさ。それにしても言い方ってものがあるでしょ」


 君嶋くんは小さな唇を尖らせる。彼は丸顔のぽっちゃりで、体は横に大きかった。普段はほのぼのとした性格で、愛くるしさを感じる子だけど、どうやら相当やられたようだ。


 体育の授業でペアを作らなければならない時、彼は僕に声をかけてくれる。昨日もバスケットのパスの練習で、君嶋とペアを組んだばかりだった。僕がひとりでぽつんとあぶれずに済むのは彼のおかげだった。

 僕は日頃お世話になっている彼への、最大級の感謝を込めて労った。


「大変だったね」


「大変だったよ。あの黒メガネ、進路のことになると人格変わるんだから」


 黒メガネとは、クラス担任の松山先生のことだ。

 ぶっとい黒縁メガネをかけているからそう呼ばれている。進路指導主事の役職にもついているからか、普段と違い異様に厳しい。だから松山先生の進路指導は、みんなから恐れられていた。


「僕の上げた志望校は軒並み拒否されたよ。合格ラインにかすりもしないってさ。これ以上下げろってことかよ」


 君嶋くんが学校の授業についていけないことは以前から知っていた。彼のような悩みを持つ生徒は少なくない。

 学校はそんな彼らに見向きもせず、どんどん授業を先に進めていく。気を抜くと、あっという間に差ができてしまう。そうなれば、追いつくことは簡単ではなかった。そんな生徒を誰も待ってはくれないのだ。 


「僕はどこで間違ったんだろう……」


「さあ」


 僕は小首をかしげ同情を示す。


 突然雨足が強くなってきた。バチバチと窓ガラスを叩く音がする。きっと、君嶋くんの嘆きが雨を呼んだのだろう。もう直ぐ期末テストがはじまるのに、彼はいったいどうなるのだろう。


「ところで、何読んでたの?」


 君嶋くんは、僕が胸に抱え込んでいた天文雑誌に興味を示した。彼は表紙を見てつぶやいた。


「土星か……。きれいだね。いっそ土星へ飛んで行ってしまいたい気分だよ」


 土星の大きさは地球の約九倍。そのほとんどが水素やヘリウムのガス惑星で、アンモニアでできた雲が表面を覆っている。とても人が住める環境ではなかった。もし近づこうものなら、時速一八〇〇キロメートルという猛烈な速度で吹き荒れる嵐に、君嶋くんは飲み込まれてしまうだろう。


「ちょっと、止めてよ」


「あ」


 君嶋くんは引き止めて欲しかったようだ。

 僕は機転が利かず、まごまごする。何だか気まずい空気に。


「いいな、栗原君は余裕があって。できる子には僕の辛さがわからないだろうね」


 君嶋くんはふてくされて、また机に突っ伏してしまった。


 そんなあ、と僕は胸の内でぼやいた。超のつくほど口下手な僕にしては、頑張った方なのに……。

 そう言えば、今日は僕の進路相談の日だった。

 僕が就職を希望するということは、松山先生には事前に知らせていた。

 その時の先生の反応は薄く、進路相談の時に詳しく聞こう、とだけ言い残してその場を立ち去ってしまった。松山先生の表情は、怒っていたように見えた。

 もしかすると、この進学校で就職を希望する僕は、君嶋くんより問題児なのかもしれない。


 何だか憂鬱な気分になってきたけど、今日の僕の進路相談は、厳しいものになると覚悟した。


 突然、君嶋くんが勢いよく頭を上げた。


「女神が来た」


 と、目を輝かせてつぶやいた。彼が見つめていたのは、教室に入って来た女子生徒だった。


 野崎優花のざきゆうかという名の女の子。


 顔はめちゃくちゃかわいくて、それでいて背も高くスタイルがいい。タレントやモデルをやっていてもおかしくないくらい美人だった。

 男子ばかりの理系クラスで、彼女の美貌は際立っていた。教室にいるだけで空気が一変する。野崎さんは長い黒髪をふわりとなびかせ歩いてきた。自分の席まで来ると、彼女はスカートを押さえて席に着いた。


「かわいいな」


 君嶋くんがうっとりする。


「声が大きいよ」


 僕は気づかれはしないかと、はらはらする。

 こんなこと野崎さん聞こえていたら失礼だし、それに遠目からこそこそ話をするのは下品な気がした。


「いいじゃん別に気にすることないよ。あの人本当にやさしいし、僕みたいな落ちこぼれにも笑顔で接してくれるんだよ。だから男子はみんな、野崎さんのことを女神って呼ぶんだ」


 僕は君嶋くんの話を聞いて、あることを思い出した。

 それは、僕たちが二年生になった時のこと。進級前の文理選択で、野崎さんが理系クラスを選んだ出来事だ。大勢の男子生徒が、野崎さんのクラスに殺到していた。彼らは野崎さんと同じクラスになることを夢見た文系男子たちだった。

 僕はその時隣のクラスだったけど、理系の男子生徒への怨嗟の念が、こっちにも飛んでくるのがわかった。


 その一年後、幸運にも僕は三年のクラス替えで、野崎さんといっしょになった。

 だけど僕はまだ、彼女と話しをしたことはなかった。

 今後もその機会は訪れることはないだろうと、僕は思っていた。


「栗原くんはどう思う?」


「どうって言われても……」


「かわいいと思うでしょ。まさに正統派美人って感じでさ」


 君嶋くんの鼻息は荒かった。食い気味に僕に同意を求めてくる。

 さっきまで彼は絶望の淵にいるような顔をしていたのに、そのことはもう忘れているようだ。それは恋なのか、ただの現実逃避なのか……。

 とにかく野崎さんの存在が、君嶋くんの救いになっているのは事実のようだ。


 ふいに、野崎さんが頬杖をついたまま、顔をこっちに向けてきた。僕たちの気配に気づいたか。

 僕は不意を突かれ、ぎくりとした。野崎さんの瞳はくりっとして大きかった。彼女は僕の驚く顔を見てにこりと微笑んだ。まるでコンパスで書いた正円のような整った笑顔だった。

 途端に僕の体が熱くなる。


「栗原くんどうしよう、目が合っちゃった」


 君嶋くんが何か言ってる。

 しばらくの間、僕は興奮した彼に体を揺さぶられ続けていた。

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