そして二人、夜に酔う


「どうじゃ小僧」


 翌日、昼過ぎに迎えに来たドワーフに連れられて工房を訪れた二人は、打ち直されて帰ってきたそれぞれの『剣』を持たされ感想を求められていた。


「いや……凄ぇ……こんな変わるんだな……」


 大河の手にある『蛮勇剣ハードブレイカー』は、いわゆる普通の剣より一回りほど大きい両手剣である。


 無骨でシンプルな作りをしており、鍔にも柄にも一切の飾り気がない。


 そんな蛮勇剣を両手でしっかりと握りしめ、大河は目を見張る。


「阿呆。『咎人の剣』は精神の具現化と言ったろうが。変わったように感じるのは打ち直すことでお前の精神が研ぎ磨かれて晴れたからじゃ。そう大きな変化をするような作業はやってないわい」


 隣に立つ職長が呆れた様にため息を吐く。


「そ、そうなのか? いやでも前よりも軽く感じるし、なんだか力強さ……みたいな? そういうのがさ」


「ふむ、お前見た目に似合わず意外にも繊細な性根をしとるんじゃな。微細な変化を感じ取りすぎとる。いいか? 確かに『剣』は強化されとるが、お前が今感じておるほど大きな力ではない。過信しすぎるな。慢心するな。お前なぞまだ産毛も生えそろってないひよっこじゃ。武器が強くなったところで、お前が強くなった訳ではないことを心にしかと銘じよ」


 蓄えた髭を撫でながら、職長は大河をまっすぐに見て力強く説き伏せる。


「お、おう……いや、はい」


 その不思議な圧力に、大河は思わず姿勢を正してしっかりと頷いた。


「お前よりもあっちの嬢ちゃんの祈祷剣杖の方が、より大きい強化を施しておるんじゃがな」


 職長は顎でクイっと工房の入り口を示した。


 そこには二、三人ほどのドワーフが悠理を取り囲み、出来上がった『祈祷剣杖きとうけんじょうヒーラーズライト』の使用感を聞いている。


「そうなのか?」


「ああ、お前の『剣』に使った素材よりもランクが三つほど違うからのう。今までと大分持った感覚が変わっとるじゃろうな」


 大河と職長は並んで工房の入り口へと歩を進める。


「悠理、どんな感じだ?」


「あ、大河」


 身長とほぼ変わらない長さの杖を両手でしっかりと握り、悠理は大河を見る。


「うん、なんか……凄いね。持ってすぐにこう……なんか……なんて言えばいいんだろう。存在感みたいなのがグッて手に伝わってくる感じ。うまく言葉にできないな」


 祈祷剣杖は持ち手の部分を金属の金環で飾られた、どこか厳かな装いの木製の杖だ。

 先端におまけの様に付けられている小さな『剣』は、どちらかと言えばナイフに近い短さで、その根本と木の部分が繋がっている部分に赤・橙・青の三色の染め布が三枚、ひらひらと揺れている。


「あ、でも前より手に馴染むっていうか、使いやすそうになっているのは確かだよ。うん」


「昨日までと感覚が変わっておるだろうから、軽い実戦で徐々に慣らしていくようにするんじゃぞ。今回は主に回復魔法を使用した時の伝達力と浸透力を強化しておる。お前さんの使う魔法の効果が上がっとるだろうが、どの程度強くなっておるのかまではワシらにもわからんのでな」


 昨日宿まで送ってくれたドワーフが、ドワーフ用の小さな椅子の上で短い脚を組んで悠理にそう語った。


「わ、わかりました」


 大事そうに祈祷剣杖を抱えて、悠理は神妙な面持ちで答える。

 持っている『剣』の特性的にも、そして悠理本人の役割としても、悠理は回復役ヒーラーである。

 大河が傷ついた時、果たしてどの程度までの傷なら癒すことができるのか。

 それを把握することは戦略的にも悠理の心持ちとしてもとても重要なことだ。

 だから悠理は、ドワーフの言葉に強く頷いた。


「よし」


「終わったな」


「ああ、ひと段落じゃ」


「川で冷やしておいた果実もいい頃合いじゃ」


「久しぶりに良い仕事をしたのぉ」


「ああ、これはきっと最高の酒が飲める」


 突然、ドワーフたちが一斉に動き出した。

 


 工房の入り口には大きな長方形のテーブルが三つ横に並んでいるが、分厚く重いそのテーブルを力一杯押し、一つに繋げ出した。


「おおーい! 飯と酒じゃー!」

 

 テーブルを退け、金床を退け、椅子を退け、そして大河と悠理を工房の奥へと押し退け、ドワーフは声を張り上げる。


「え?」


「な、なに?」

 

 工房の一番奥に置かれている人間用の丸椅子に無理やり座らされて、大河と悠理は目を丸くする。

 狭い場所に押し込まれたので、二人は慌てて『剣』を納剣イナクティブした。


「はいよー、じゃんじゃん来るよー!」


「あら、可愛らしい巡礼者だこと。今回の仕事はあんたらが持ってきたのかい?」


「最近の人間の子はほっそいねー。そんなんじゃ良い子が産めないよ? もっと食って、尻をでかくしな!」


 工房の奥にある大きな扉を勢い良く開いて、そこからわらわらと女性のドワーフが大皿や樽を抱えて出て来た。


 太い手足や低い背、そして口元にたっぷり蓄えた髭。

 胸元が盛り上がっていなければ、そして艶やかな髪さえなければ男性のドワーフと間違えてしまう容姿をしている。


「ほら、これあんたらの酒。人間にドワーフの酒は強すぎるからね」


「え?」


 大河はそんな女ドワーフの一人から、木製のジョッキを無理やり手渡された。

 中には、白い泡だった黄金色の液体がなみなみと注がれていた。


「こっちはアンタの」


「私の?」


 悠理は別の女ドワーフに手渡されたジョッキを両手で持ち、困惑する。


「ま、待って。俺らまだ未成年だし、あんまり酒は──」


 周囲の仕事道具を片していたドワーフの一人に、大河がジョッキを返そうと話しかける。


「この廃都に未成年も成年もあるかい。酒が苦手なら仕方がないが、一杯は必ず飲んでもうぞい。これはワシらが鍛治仕事を終えた時に必ず行う儀式みたいなもんじゃからな」


「儀式?」


「そう、女神様と鍛治の神々に酒を奉じ、感謝と仕事の成果を報告する大事な儀式なの」


 扉の奥から料理が盛られた大皿を抱えて出て来た女ドワーフが、大河の疑問に答えた。


「鍛治の神々は酒が滅法好きでな。ワシらはその流れを汲む精霊種として同じ様に酒を好む。仕事を持って来た巡礼者にも必ず少しは飲ませるようにしとるんじゃ」


 なにやら木製の踏み台のような四角い物体を運んできた職長がそう続け、そしてその上に立った。


「よし、酒は行き渡ったな? 女衆、飯は?」


「これで最後」


 大きな鳥の丸焼きが乗った皿をテーブルの上に置いた女ドワーフがそう返事をすると、職長がテーブルに置かれていた大ジョッキを右手で持ち、掲げた。


「お前ら、良い仕事をしたな! ワシはこの工房の職長として、お前らを誇りに思う! 今回は久々に祈祷剣杖を打ち直せた! じゃから用意した酒もいつもよりも特上の酒じゃ! さぁ、杯を持て!」


『おお!』


 いつの間にか繋げたテーブルの周りを取り囲んでいたドワーフたちが、職長と同じ様にジョッキを掲げる。


「女神アウロア様と、鍛治の神々に感謝を! 乾杯!」


『乾杯!』


「良い酒を飲もう!」


『良い酒を飲もう!』


 男ドワーフも女ドワーフも一斉に乾杯の声を合わせてジョッキを打ち鳴らす。


 そしてグイっと一気に煽ると、嬉しそうに息を吐き出した。


「え、ど、どうするの大河。私お酒なんか飲んだことないよ?」


 ジョッキを両手で持ったまま、悠理はオロオロと狼狽えている。


「まぁ、一杯くらいなら……」


 既にこの手で人を何人も殺しておいて、今更未成年だから酒は飲めないなどとお利口ぶるのも馬鹿らしい話だ。

 そう考えた大河は、持っていたジョッキを一気に煽る。


「んっ……んっ、んぅううううっ……ぷはぁ」


「お、おいしい?」


「いや、苦い。けど飲めないわけじゃない。まぁ、あんまり好きな味ではないけど」


 大河としては、酒に良いイメージも思い出も無い。

 むしろ嫌悪感まである。


 だがそれはあくまでも大河個人の所感であり、ドワーフたちにとやかく言うつもりも、この儀式に異議を唱えるつもりもなかった。


「とりあえず一口舐めてみたら?」


「う、うん。じゃあちょっとだけ」


 そう言って悠理はジョッキを少しだけ傾けて、少量の酒を飲む。

 そして無言で目を強く閉じ、口を尖らせた。


「わ、私これ無理だぁ」


 涙目で大河を見て、頭を左右に振る。


「おっちゃん、これ俺が代わりに飲むってのはダメなのか?」


「絶対に飲めないって言うなら無理には飲ませんわい。少しは口にしたんじゃろ? なら後はお前が飲み干せば、鍛治の神々も許してくれるじゃろ」


 恐ろしい速度でジョッキを空けている職長からそんな言質を取って、大河は悠理からジョッキを受け取る。


「だ、大丈夫なの?」


「今んところは酔った感じはしないかな。新宿駅で源二から受けたブラッドミストはもっと酷かったし」


「ああ……あの……」


 大河の言葉に嫌な思い出を急に思い出して、悠理が顔を顰める。


「んっ……んっ、んっ、んっ」


「ああ、そんな一気に……」


 ジョッキを一気に飲み干す大河を、悠理は心配そうに見る。


「──ぷはっ」


 飲み終えた大河が、ジョッキをテーブルの上に置く。


「……あれ? なんか、さっきより美味く感じるかも。違う酒か?」


 飲酒経験の無い大河には、酒を飲み比べられるほどの知識など当然無い。

 同じ酒なのに違う味に感じるのは、舌が酒に適応し始めた証拠だった。


「これなら、もう何杯か飲んでも良いな……」


「の、飲みすぎちゃダメだよ……?」


「ん、わかってるって」


 そう言って大河はテーブルの中央に山積みされている酒の入ったジョッキを取りに立ち上がる。


 そんな大河の後姿を、悠理は複雑な心境で見送った。


 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


「大河、大河! 宿に着いたよ!」


 夜も更けて、時刻はそろそろ23時を回る。


 浴びるほど飲んでいた癖にケロっとしていたドワーフに送られて、二人は既に見慣れ始めていたウィークリーマンションの一室に戻っていた。


 一個しか無いベッドの上に、フラつく大河を座らせる。


「んー、あれ。俺……いつの間に」


「もう、しっかりしてよ。ふらふらしてるから私が支えて歩いて来たんだよ?」


「あー、そっかそっか……思い出した。ありがとな悠理」


 その目はとろんと落ち、上気した頬が熱を帯びている。


「お酒を飲んだ後でお風呂に入るのはダメって聞いたことあるから、今日はこのまま眠ろ? ほら、着替え出すから脱いで」


 そう言って悠理はスマホを操作して、服を収納しているアイテムバックを選択し大河の寝巻きをベッドの上に出した。


「んよっ……っと。あははっ、酒ってあんな美味いんだな。知らなかった」


 シャツを脱いだ大河が、上半身を露出させたまま上機嫌に笑う。


「いやー……久々に声を出して笑った気がする。良い人だったなードワーフのおっちゃんたち」


 虚脱したまま天井を見上げ、目を閉じる。


「私もあんなに笑う大河、初めて見たよ。ちょっと悔しいな」


 いつのまにかTシャツにショーツだけといういつもの薄着すぎる寝巻きに着替えた悠理が、大河の隣に腰掛けた。


「私、お風呂入ってくるけど大丈夫? お水出しておくから、辛かったら飲んでね?」


「んー……」


 ふらふらと頭を揺らしながら、大河を悠理をじっと見る。


「大河?」


 そんな大河の姿が心配で、悠理はその右頬に手を添えた。


「ちょっとだけ……ほら」


「え?」


 大河が大きく手を広げ、悠理に近いた。


「いつもはさ、お前からぎゅってしてくるじゃん。たまには俺からも、してみたいなぁって」


「た、大河……」


 酔っている。

 今の大河は明らかに普通の状態ではない。


 だがそんな状態でも、大河は悠理の意中の相手だ。

 素面シラフでこんなことを言われてしまったら、おそらく悠理は嬉しさに舞い上がって大河を襲ってしまっていたかも知れない。


 だが悠理も年頃の乙女。

 大事な大事な初体験は、お互いが正気を保ったままの状態で、ちゃんとしっかりはっきりくっきりと致したいという夢見がちなシチュエーションを希望している。


「す、すこしだけね?」


 しかし、普段は奥手な大河が大胆にも自分を抱きたいと言って来た。

 あまりの嬉しさに口元のにやけが止まらず、必死にそれを押し隠そうと努めるも、どうしても隠しきれない。


 両手を広げた大河の膝の上ににじりより、正面から抱きつく。

 背中に腕を回し、右肩に顎を置いて、そして目一杯胸と胸を密着させた。


 まだシャツを着ていない大河の、酔いで汗ばんだ肌が湿っていて、悠理の露出した腕や頬、そしてふとももにピタリと吸い付く。


「……ふわぁ」


 夢見心地──とはこういうことを言うのだろう。


 華奢な悠理の背中に回された大河の腕は、右手が悠理の右肩まで、左手が左肩まで届くくらい大きい。


 男性として匂いやすい汗が、今の悠理にとってはかぐわしく脳髄を溶かす甘い匂いに思えた。


「……んー、やっぱお前、柔らかいな。気持ちいい」


 大河は悠理の耳元近く、どちらかというとうなじ付近で、そんな小さな感想を漏らす。

 耳の側で聞こえる想い人の声の破壊力は、悠理が普段から妄想していたそれよりも甘美な音だった。

 耳から入ったその音は、背筋を通り、尾てい骨、そして下腹部にまでになんとも言えない痺れを走らせる。


「た、たいがは……がっしりしてて……おおきい」


「ん、まぁ、普段から動いてるからだろうな。昔はそうでもなかったんだけど」


 大河は酒の酔いで、悠理は興奮からくる発汗で、お互いの体温がそれぞれ高く、そのせいかはわからないが普段とは違う匂いがこの部屋をゆっくり満たしていく。

 

「……ちょっと、触っても良いか?」


「え、あ、うん。どこでもすきにさわっても……いいよ?」


 大河とは違う陶酔感で少し呂律が回らなくなってきた悠理が応えると、大河は背中に回していた腕をゆっくり動かす。


 最初は、悠理の細い腰。

 両腕でそれぞれ挟むように、優しく触れる。


「……あっ」


 びくん、と悠理の身体が跳ねる。

 くすぐったく感じるくらいソフトな触り方なのに、その無骨な指の力強さが伝わってくる。


「んっ」


 大河の左手が悠理のシャツを捲り、背中の素肌に直に触れる。


「……手触り、気持ちいいな」


「気持ちいいのは、こっちのセリフだよ……」


 そんな短いやりとりの後、時間にして五分ほど。

 大河は押し黙ったまま悠理の背中や肩、首筋に髪、そしてふとももを無遠慮に撫で続けた。


「はっ、はぁっ、はぁあっ……あっ」


 やがて大河の右手が、今まで触れてこなかった臀部のテリトリーに侵入してくる。


(ど、どうしよう。ここで止めた方がいいのかな……この続きは、やっぱり酔ってない時にして貰いたい……でも、気持ちよくて、止めたくない……)


 すっかり茹だった思考を必死に冷まし、悠理の脳内の冷静な部分が働き出した。


 惚れた相手──全てを委ね捧げるとまで心中で誓っていた相手が自分を求め、そして夢中になっているという事実。

 その手が触れるたびに、嬉しさと恥ずかしさと、今まで感じたことのない気持ちよさが全身を震わせるという現象。


 それらがこの先の展開への期待感と共に、悠理の脳内を掻き回す。


「……やっ、あっ」


 逡巡する悠理を無視して、大河の手は白いショーツの内側へと入り込み、今まで親以外の異性に曝け出したことのない部位を優しく撫でた。


「──たっ、大河! 今日はここまで! ストップ!」


 悠理が慌てて大河から身体を離したのは、なにも理性が働いたからでは無い。


 大河の手が『そこ』に近づいた瞬間、怖気おじけ付くほどの強烈な快感が走ったからだ。


 経験の無い悠理にとってそれは未知の感覚で、このままでは行くところまで行ってしまうと瞬時に理解し、半ば反射的に大河を押し離した。


「あ──ああそっか。気持ちよくて、つい」


 距離を取って初めて見えたその顔は、お気に入りのおもちゃを取り上げられた子供の様な幼さで、そんな大河の表情に悠理の心臓は締め付けられる。


「あ、あのね? ダメってわけじゃないんだよ? 今日はほら、大河酔ってるから。ね?」


「……うん」


 触れた子犬の様な目で見る大河の視線に、揺らぎそうになる。

 それをぐっと覚醒した理性で抑え、悠理は乱れた呼吸を整えようと深い深呼吸をした。


「そうだよな。酔ってなかったら、こんなこと……普段の俺なら絶対にできないもんな」


 焦点の定まらない瞳をふらふらと揺らしながら、大河はまた悠理を引き寄せ、その首元に顔を埋める。


「ぜ、絶対って」


「いや、お前が悪いわけじゃないんだ。俺だってそこまで鈍くない……お前が俺のことを好きってこと、ちゃんと理解してる。俺だって、お前のこと──女の子としてちゃんと好きだ」


 右耳の下、うなじのあたりで発された愛の告白に、またも悠理の背筋に甘い痺れが走る。


「──だけど、やっぱり。怖い」


「……怖い?」


 その言葉だけが、酔いで乱れている思考と発言の中で、しっかりとした意志を持って発された。


「なんで、怖いの?」


 悠理は普段から大河を理解しようとしている。

 それは中学二年生の頃、まだこの感情を恋と認識できてなかったころから、無意識下で大河を目で追う様になった頃から始まっていたのかも知れない。


 だから大河が自分のことを好いてくれていることも、自分の身体に性的に興奮してくれていることも、大事に想ってくれていることも理解している。


 だから、そんな大河が何かを恐れて、最後の一歩を踏み出せないということも、なんとなく察していた。


「……俺が好きになる人は、結局最後は俺から離れていくから──父さんも、母さんも……綾も……今は……叔父さんもか」


 うつらうつらと、大河の目がゆっくりと閉じていく。

 声の調子から大河が眠りかけていると判断した悠理は、そぉっと身体を離して、その表情を見る。


「母さんは……あんなに俺のことを大好きって言ってた癖に……あっさり俺と父さんを捨てて……アイツと一緒に……居なくなった」


 すでに自分ではまともに保持できなくなった頭を、悠理の胸元に沈める。


「父さんは……母さんが出て行ったから……おかしくなって……俺を……」


 徐々にか細くなっていく大河の声を、悠理は聞き逃すまいと必死に耳を立てる。


「たくさん……殴られて……首を絞められて……だから俺は、怖くなって……包丁で……父さんの腹を──」


「──大河、もう寝ようね? ほら、初めてお酒を飲んだんだもん。疲れたよね?」


 その言葉の先は、きっと酔っている口から言わせてはいけない。

 そう判断した悠理は大河の頭を優しく抱いて、その大きな背中をポンポンと叩いた。


「うん……ああ、お前はやっぱり……柔らかくて……いい匂い……だな」


 その言葉を最後に、大河は緩やかな眠りに入った。


 しばらく寝息で上下するその頭を抱えて、悠理は考える。


(きっと、好きで居続けることに、好きになってもらうことに怯えてるんだ……)


 大河の髪に鼻を埋めて、深く吸い込む。


(なにがあったかは……大河が教えてくれるまで聞かないつもりだったんだけどな。そっか……それで中学の時、急に引っ越したんだ)


 背中を頭を、優しく撫でる。

 

 悠理が想像していた以上に、この想い人は傷ついていた。

 きっとそれは身体よりも、心の方が酷いのだろう。


 たった二年で治るはずのない──もしかしたら一生残ってしまうかもしれない、そんな大河のトラウマ。


(私は、貴方を絶対に──これ以上傷つけたりなんかしない)


 そんな言葉をたとえ直接ぶつけたとしても、そう簡単に信じさせられるほどの説得力は無いだろう。

 それを信じられなくなるほど、大河の心は打ちのめされたのだから。


 しばらくそのままの形で大河を抱き、少し寝苦しそうな声が聞こえて来たので、優しくベッドに横に寝かせる。


(うん、これからの私が態度と言葉で、大河を信用させないとダメだよね)


 ベッド脇に腰掛け、寝ている大河の頭を撫でながら悠理は強い決意を刻む。

 無防備に口を開けて涎を垂らし始めた大河の口元を、右手の親指で拭う。


 濡れた親指を躊躇なく舐め取り、悠理はベッドから立ち上がった。


「うわ……こんなになってる……大河のズボンまで……着替えさせてあげないと……」


 自分のショーツの感触と、大河の下腹部を見比べて赤面する。


「たいがー、ズボン脱がすねー。ちょっと腰を……あ、ありがとう。うん、落ち着け私。今日はあそこまでって、私が大河に言ったんだから」


 手早く大河の着替えを終わらせて、掛け布団を首までかける。

 そしてシャツとショーツを脱いで洗濯籠に入れ、ゆっくりと風呂場へと向かった。


「……これなら、たまにはお酒を飲ませるのもいいかもしれない」


 そうぽつりと呟いて、悠理はシャワーの蛇口を捻った。

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