西新宿の悪夢③


 悠理ゆうりを背負いながら、大河たいがは西新宿の駅前を山手通りへと向かう。

 悠理が同年代の女子の平均より比較して小さく、そして軽くなければ、ものの五分でバテていただろう。

 叔父の仕事を手伝って身体が鍛えられていたのも功を奏したかもしれない。

 自分が思っていた以上に軽い足取りで歩けてはいるが、瓦礫が散乱していたり、地面が隆起していたりと道中が悪いせいで、山手通りまではもう少しかかりそうだ。


 未だ恐怖から醒めない悠理を気遣って、本当はあの鎧巨人や地震について話をしたいのを堪える。

 大河の背中に当たる悠理の柔らかい身体からは、震えこそ収まってはいるがいまだに大きな心臓の拍動がはっきりと脈を打っているからだ。


 しばらく無言で二人は道を進む。

 周囲の喧騒はどれだけ歩いても止む事はなく、進行方向の惨状もまた酷いモノなのだろうと予想された。


 ふと、首から胸に回された悠理の手──右手の甲が視界に映る。


(……タトゥーなんか挿れてんのか、こいつ。こう見えて結構遊んでるんだな。いや、そういや中学の頃のこいつ、派手な女子グループと連んでたし、なくもないか)


 大河よりも小さな悠理の右手に、西洋風の剣をデフォルメしたような刺青が目立っていた。

 それは青い染料で縁取られていて、剣先が指方向に、柄頭が腕の方向に伸びている。


桜峰女子さくらみねじょしって、校則かなり厳しいんじゃなかったか?」


「え? う、うん。厳しいよ? 髪色とかスカート丈は当たり前に決まってて、申告している帰り道から少しでも外れてるのを見られたら、親が呼び出されるくらい」


 ではなぜ、大河の背中に背負われているこの女子は、右手の甲なんていう際立って目立つ場所にタトゥーを入れているのか。


(男──彼氏の影響……とか?)


 それは大河の持つ中学生の頃の悠理のイメージから大きく外れていて、なぜかとても気分がモヤモヤしていく。


「急にどうしたの?」


「いや、こんな目立つ場所にタトゥーなんか入れて、よく学校に見つかんねーなって思って」


「タトゥー? なんの話?」


「え、お前の右手のタトゥーの話だけど?」


「タトゥーなんて挿れる訳ないじゃん」


「んん?」


 噛み合わない。

 少しでも恐怖を紛らわせようと雑談のネタに話を振ってみたのだが、背中で悠理が首を傾げているのが感覚で分かる。


「え、じゃあお前の右手のこれはなに? なんかで描いてんの?」


 そういえばと大河は思い出す。

 簡易的に人体に絵を描くファッションが、一時期流行っていた時期があった。

 植物由来の塗料で消え辛く、しかし正しい処置を行えば手軽に消えるといった代物だ。

 それは遠目で見れば刺青に見えない事も無く、塗料さえ手に入れば素人でも扱える手頃感が人気だったし、繁華街などの美容室で施してくれる店もあった筈。


「──なに、これ」


 そこで初めて、悠理が自分の右手の甲を目で確認した。


「え、待って本当に何? 私こんなの、知らない!」


 悠理は完全に体重を大河の背中に預け、大河の首の前で左手を使い右手の甲をゴシゴシと拭き取るが、そのタトゥーは一向に消えない。


「き、消えない! ねぇ常盤ときわくんちょっとこれ見て!」


「わっと、お前急に顔の前に手を出すなよ。あぶな──」


 急接近した悠理の右手をどけようと、右手で払おうとした時。


「──あ?」


 大河の右手の甲にも、同じ絵柄のタトゥーが入っている事に気がついた。


「常盤くん、にも?」


「あ、ああ」


 悠理の右手が大河の手を下から掬う様に触れる。


「いつから?」


「わ、わかんねぇ」


 二人して頭にクエスチョンマークを浮かべながら、お互いの手の絵柄を見比べる。


「一緒の絵柄か」


「常盤くんの方が少し大きい……かも?」


「手の大きさのせいじゃないか?」


「す、少なくても公園に入る前まではこんなの無かったよ? 自動販売機で飲み物を買った時に見たもん」


「俺もラーメン屋でトイレを借りた時に手を洗ったけど、こんなんあったらさすがに気づくよな……」


 しばらく二人して互いの手を見比べながら歩く。

 悠理が遠慮無しに触ってくる事に少しばかり気恥ずかしさを覚えながら、そうしてもうじき山手通りに辿り着く──十数メートル手前で、眼前の騒がしさに気がついた。


「なんか、人集ひとだかりができてる?」


「……嫌な予感がするな」


 大河達の知識には無かったが、今歩いているの都道432号線──方南通りと、都道317号環状6号線──山手通りの合流する大きな十字路だ。

 都内に1から8まである環状線の、特に池袋や渋谷への交通の利便を誇る環状6号山手通りは、首都高速中央環状線も並行している為、平時は多くの乗用車や商用車が車種様々に走っている。


 そんな都の流通動脈の一つである道を前にして、大勢の人がなぜか横に広がって並んでいた。

 進行を待っている車を遮っているのにもお構いなく、環状6号線を挟んだ向こう側の様子を見る事も難しいほどの人の壁だ。


 大河でなくても、その光景に嫌な予感を覚えるだろう。


『おいなんで信号が青なのに先に進まねぇんだよ! 早く逃げねぇとやばいのがわかんねぇのか!』


『この先の道が無くなってんだ! 動けるわけねぇだろうが!』


『ああ!? 道が無くなるわけがあるかよ! 山手通りの広さで塞がるわけないだろ!』


『無くなってんだからしょうがねぇだろ! テメェの目で確認してこいよ!』


 配送トラックの運転手と、白の乗用車の運転手が怒鳴り合っているのが聞こえる。


 大河の肩越しに悠理と目を合わせ、一瞬の沈黙。


「……道、無くなってるって」


 やがて悠理がぽつりと零した。


「んな馬鹿な」


 山道での土砂崩れや川の氾濫での途絶なんかでもない限り──特に都心では滅多に聞かない言葉に二人は面食らう。


「どうする?」


「んー、引き返す訳にもいかないし、とりあえずどうなってるか見てみない事にはなんとも」


「……そう、だよね。さっきの大きい化け物からはできるだけ離れていたいし」


 そうして悠理は来た道を一度振り返る。


 今の角度的には雑居ビルが邪魔をして見えないが、その向こうには都庁を粉砕した鎧巨人が居る筈だ。

 ここまでにも何度かチラチラと確認していたが、その姿は大剣を振り抜いた姿勢のままピクリとも動いていなかった。

 だが今動かないからといって、このままずっと動かない訳がない。


 鎧巨人の姿を思い出して先ほどの恐怖体験がフラッシュバックした悠理が、大河の背中でブルリと身震いをした。


「成美、少し背伸びしたら見えるか?」


 人集りの真後ろまで来て、大河が悠理にそう聞いた。

 同年代の男子平均より少し背の高い大河だが、そんな大河でも人集りに邪魔をされてその向こうが全く見えなかった。


「ちょっ、ちょっと待ってね」


 悠理はそう言って大河の肩に両手を置いて背伸びをし、人集りの向こう側を見ようとする。


「……嘘」


「成美?」


 その小さな口を開けて唖然とする悠理を、大河がいぶかしむ。


「成美、おい成美!」


 あんぐりとしたまま固まってしまった悠理を呼びかけるも、よほど驚愕したのか中々反応が返ってこない。


「成美! どうなってんだよ!」


「……あ。ご、ごめん」


 かなりの大声で呼びかけて、ようやく悠理がびくりと身体を震わせた。


「何が見えてんだ? 教えてくれよ」


「……え、えっと。なんも、ないの」


「は?」


「この先の、山手通りがあった場所が全部何も無くなってて、なんていうんだろう。崖? 渓谷って言ったらいいのかな? か、かなり向こうに、反対側が見えるけど」


 悠理の見ている景色は、酷く殺風景なものだった。


 本来都道317号環状6号線──山手通りがあった筈の場所がぽっかりと無くなっていて、悠理から見える限りかなり深い崖となっている。

 その先、幅にして100メートルはあるだろう距離に、反対側の陸地と建物が微かに見てとれた。

 もうもうとした煙がまるで雲のように渓谷中に広がっている。

 それは悠理が渓谷と呼称したのも頷ける光景だった。


『ダメだ! 初台方面、その先までずっとこの崖が続いてる!』


 ロードバイクに跨った青年が、息を切らしてそう大声を上げた。


『目白方面も同じらしい』


『なんだこれ。山手トンネルが地震で陥没したとか?』


『いくらなんでもこの深さまで沈まないだろ。かなり深いぞこれ』


『んじゃあ、地面が裂けた?』


『あの短時間の地震でこんなに裂けたってんなら、もっと周囲に被害が出てるだろ多分』


『ていうか、崖の断面がやたら綺麗すぎないか? まるでなんかで切られたみたいにスパッとしているような……』


『あの巨人が……やったとか』


『んなアホな……と言いたいけど。もう何が起きてもおかしくないよな。あんな化け物見た後じゃ』


 かなりガタイの良い男性の集団がざわざわとお互い意見を言い合っているのが聞こえる。

 もしかしたら消防関係、警察関係の人たちなのかも知れない。


「てことは、このまま歩いても都心からはしばらく出れなさそうだな」


「うん……」


 大河の呟きに悠理が頷く。

 背伸びをやめて大河の背に体重をかけて、その首元に腕を回し、少しだけ力を込めた。


「なにが、起こってるんだろう。あの地震、ぜったい普通じゃないよね?」


「……わからん。わからんけど、とりあえず止まってる場合じゃないのは確かだ。あの化け物を避けながら新宿駅に向かってみるか」


「そうだね。あ、パパとママに連絡しておかなきゃ」


「俺も叔父さんにメールしておきたいな」


「スマホ、リュックの中?」


「ああ、サイドポケットに──」


 二人はそんなやりとりをしながら身体を反転させ、新宿駅方向へと向き直った。

 しばらく来た道を引き返し、お互い自分のスマートフォンを手に取った、その時だった。


『う、うわあああああああああああっ!』


 先ほどまでいた人集りの前方から、野太い男性の悲鳴が聞こえてきた。


『きゃっ、きゃあああああっ!』


『逃げろっ! 逃げろぉおおおおおお!!』


『たすけっ、これ取って! 離して! 離してえええええええ!』


『後ろ開けて! 早く退いて!』


『ひぃっ! 痛い痛い痛い痛い痛い痛いぃいいいいいいいいっ!』


 その声にビクっと身体を揺らし、大河と悠理は肩越しにお互いを見て、その視線を人集りの前方へと向けた。


 人波の向こう、最前列の方から、黒い影が上空へと飛び立っていく。

 それは人の影。

 大河が目撃したのは、中年の女性だった。

 正面から何かに抱きつかれたその女性は、悲鳴を上げながらあっという間に天高く飛び去っていく。


 悠理が目撃したのは、体格の良い成人男性だった。

 背中に大きな黒い物体を貼り付けたその男性は、一度上空にまるで釣り上げられたかのように浮かび上がり、横から飛び出してきた無数の小さな物体に群がられて──苦痛の声を上げながらあっという間にされた。


「ひっ」


 大河の背中で悠理の身体が強張こわばる。

 大河もまた、目の前で今起こっている事に理解が追いつかず、動けないでいた。


「なん……だ。これ」


 それは、虫だった。


 大河の知っている虫のサイズとは違う、大きいモノで大人の背丈ほど。小さいモノで子供の頭ほどの夥しい数の虫が、中空を漂っては人めがけて急降下と急上昇を繰り返している。


 カブトムシのような大きい、鋭利なツノを持った虫がそのツノに人を刺しては掬い上げ上空へと持ち去り、それに小さな虫たちが群がっていく。

 クワガタのような大きなハサミを持った虫が、地上で挟んだ人間の身体を空中で真っ二つに割ると、待ち構えていた周囲の虫がさらに細かく切り裂いては口に咥えて咀嚼している。

 蜂に似た虫が逃げる人を背後から地面に押さえ、針を刺す。刺された人間があっという間にピンク色のゲル状に溶け、蟻のような虫がそれを啜る。

 様々な虫が、様々な方法で、周囲の人間を殺害・捕食している。


「うっ、うわあああっ!」

 

 あまりにも唐突で、あまりにも悲惨な光景に大河の口から悲鳴が飛び出す。


 そのまま脇目も振らず、背負っている悠理を支える腕に目一杯の力を込めて走り出す。


「いやっ、いやぁあああ!!」


 悠理もまた悲鳴を上げて惨劇から顔を背け、大河の背中で丸まって顔を隠した。


『崖から虫が! でかい虫が出てきた!』


『退けっ! 邪魔だ! お願いだ退いてくれ!』


『にげっ、いやっ、隠れろ!』


『ぎゃあああああああっ!』


『やめてやめてやめていいいいい痛いぃいいいいいいっ!』


 悲鳴が、痛みの声が次々と聞こえてくる。

 何かが顔を濡らしたと気付けば、それは血であった。

 赤黒い色の液体が飛沫となって至る所を染め上げ、上空で散布されて霞の様に周囲に広がっていく。


『ママぁああああああああっ!』


『いやぁあああああああっ!!!』


 必死に走る大河の眼前で、小さい女の子が虫に攫われて空に消えていくのが見えた。

 追い縋り手を伸ばす母親に、別の小さな虫が群がりその身体を黒く塗り潰し、虫の隙間から血が噴き出したところまで目で追えた。


『う、うおおおおおっ!』


 さらに先の十字路で。なにか棒状の物を持った小太りの中年男性が、虫に向かって雄叫びをあげていた。

 振り回す棒状の物はすぐに大きな虫に捉えられ、途轍もない速度で突進してきた別の虫がその大きな腹を突き破る。

 信じられない表情を浮かべた男性はそのまま前のめりに倒れ、また別の虫がその身体を空へと連れ去っていく。


『パパっ! くるまっ! くるまはやくだして!』


『後ろも前もつっかえていて動けないんだよ!』


『こわいぃいいいいいっ! パパぼくこわいぃいいいいいいいい!!』


 路上に停まっている真っ白な乗用車の中で、家族連れが震えながら騒いでいるのが見えた。

 後部座席のチャイルドシートには小学校低学年くらいの男児が乗っていて、あまりの恐怖に半狂乱で泣き叫んでいる。

 そのフロントガラスには長い触角を持つカミキリムシに似た虫が、やはり普通では考えられない体躯で居座っていて、その大顎を器用に使いガラスを食い破ろうとしている。


 大河が車とすれ違った直後、微かなガラスの割れる音とほぼ同時に、三種類の悲鳴と水音が耳に届いた。


「はっ、はっ、はっ!」


 震える奥歯を気にする暇も無く、大きく拍動する心臓を気に掛ける暇もなく、大河は全力で道を走る。

 乱れる呼吸を無理やり維持しようと大きく口を開けて、瓦礫を避け、横たわる人──人だったモノを避け、時に何かを、誰かを追い越して走る。


「いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだもう嫌だぁあああああ!!」


 背中の悠理の呟きが耳に障るが、それを注意している暇も惜しい。

 なによりこの常軌を逸した街中で、背中に感じる悠理の体温だけが現実感を帯びていて、それを拠り所になんとか心折れるのを堪えている。


 やがて新宿中央公園──だった場所を通りすぎ、大河は瓦礫と死の転がる西新宿を走り抜ける。


 意図しない逃走の向かう方向に、新宿駅が待ち構えている。

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