再会

 

 そういえば小腹が空いていた事を不意に思い出し、ほぼ改札口に到着しかかっていた身体を急回転させて、大河は人の流れとは逆に歩き出した。

 突然方向を変えた大河に、背後を歩いていた初老の老人は顔をしかめ、聞こえるか聞こえないか程度の音で舌打ちをして、半歩右にずれる事で衝突を回避する。


 その顔を横目で見て、大河は少しだけ自分の行いを反省する。

 確かに、急な方向転換は周囲の迷惑になる。新宿駅の様な雑多な場所ではなおさらだろう。特に日本では、狭い道やエスカレーターなんかは誰に言われるでもなく、進行方向によって歩く側が決まっていたりするから。暗黙のルールと言う奴だろう。

 だが自分の背後をほとんどスペースを開けず、自分と同程度の速度で歩いていた老人側にも非はないだろうか。いやきっとあるはず。そうに違いない。

 車ではないが、人と人にも車間距離を保つ必要はあるはずだ。


 そんな自己弁護を胸中で思い浮かべながら、大河は腹を満たす方法も同時に模索する。


 たしか、代々木に大変美味しいと評判のラーメン店があったはずだ。

 カツオベースのオーソドックスな魚介系のつけ麺だが、麺になんらかの工夫を凝らしていて他所では味わえない──なんて評価をどこかで耳にしたことがある。

 動画共有サイトで観たか、テレビで観たか、それとも誰かが語っていたのを盗み聞いたかは定かではないが、時期的には大河が東京を離れる少し前に耳にした情報なのは間違いない。

 代々木であれば新宿の隣の駅であるし、そもそも隣にわざわざ駅を設ける必要があったか疑うくらい近い。

 

 代々木であればここから歩くにも苦ではなく、また時間の浪費も最小で済む。

 これから混雑する電車に十数分乗らねばならぬ身としては、少しでも人の群れの小さい方へと離れて、心を落ち着かせたい。

 現在歩いている駅の地下コンコース部分から地上に出れば西新宿の繁華街がすぐそこにあり、著名な飲食店が何件も立ち並んでいて、そんなに悩む事なく腹を満たせるだろう。

 だがいい加減に人波に辟易とし始めていた大河にとって、心安らかに食事をするには難しい騒がしさだ。 

 大都市の繁華街という少なからず汚れている空気とはいえ、少しでも綺麗な外の空気を吸ってリフレッシュがしたいと言う理由もある。

 代々木の空気が新宿よりも綺麗かと言われればそんな事は無いが、明治神宮に程近い分きっと緑の効果があるに違いない。

 マイナスイオンと言うふわふわなアレが働いてくれているだろう、と大河は誰に対する訳でもない言い訳を思い浮かべながら、新宿駅の地下街をかなり遅めの歩みで進んで行く。




 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆




 結局、つけ麺が美味しいと評判のラーメン店はとっくに閉店していて、多国籍料理と言う十代の若者が小腹を満たすには難しいお店に成り代わっていた。

 二年前の情報があっという間に古臭い物となる。やはり東京の速さは恐ろしい。

 評判であった筈の店がたった二年で廃れるなんて、情報が間違っていたのかそれとも店側が対価を支払い流布した作為的なモノなのか。

 そんな考えても仕方ない事を暇つぶしに考察しながら、どうでも良くなってしまって結局は適当に目についたラーメン店に入り、適当なメニューを選び、それなりに満足して大河はそそくさと店を出た。

 満たされた腹に程々に納得し、良い加減に目的地に向かおうときびすを返そうとした、その時。


常盤ときわ、くん?」


 不意に背後から声をかけられた。


 名前を呼ばれながらも、反応が遅れた理由は二つ。

 一つは高校に進学せず、現在学校に通っていない大河にとって誰かに苗字で呼ばれるという経験が久しかったから。

 ほぼ唯一と言っていい話し相手の叔父は、当然ながら大河を苗字では無く名前で呼ぶ。

 もう一つは、この東京で自分をその名で呼ぶのは、かつて住んでいた土地の、通っていた中学の同級生か先生しか居ないから。


 瞬時に脳裏に浮かんだのは後者の方であり、大河にとっての中学は思い出はあれど思い入れはない場所だ。

 別段嫌な思いをした訳ではないが、かといって特別好んでいた場所でも無い。

 必然、同級生たちにも同様の印象を持っている。

 つまりは、めんどくさいタイプの知人に出会ってしまったな──と、逡巡してしまったのだ。


「は、はい」


 わざとらしく他人行儀に、努めて平静を装って振り向く。

 そういえば声を発したのは昨日の夜以来か。叔父さんは朝早く、自分より先に職場に向かったもんな。ちゃんと声、出せたかな。

 なんて事を考えながら、声をかけて来た──おそらく女性──の顔を見る。


「あ、えっと急にごめんね。ひさしぶり」


 おそらく女性──なんて無礼な事を思ったのは、相対している人物が八月末のこの熱波で蒸し暑い時期に、見てるだけで暑そうなデザインの帽子を目深に被り、薄い暗さのサングラスとマスクで顔を隠していたからだ。

 声色と調子からして女性であろうと認識したが、最近は女性っぽい男性なんて結構な頻度で見かけるので油断ならない。


「お、おう。別に大丈夫だけど。ひさし……ぶり?」


 そう言葉を紡ぎながら、大河はさほど良くないと自分で思っている頭脳をフル回転させて、目の前の人物が誰であったかを必死で考える。

 まず、苗字を知られていると言う事は同学年だろう。

 交友関係の薄さ故に、先輩や後輩と親しく接した記憶が無い。

 必然的に、ほどほどに会話などをしていてあまり悪印象を持たれていない同級生──と言う事になるが、これがまた悲しい事に、街で出会って声をかけそうな程親しい女性にさっぱり心当たりが無かった。

 はて、長々と思考しても本当に誰であるかわからない。


「……もしかして、私が誰か覚えてないの?」


 目の前の──推定、少女はサングラス越しの目を細めて大河を睨む。


「あ、あー。あの、グラサンとマスクで顔が分かんないからー」


 責められそうな空気を感じ取り、両目を盛大に泳がせて大河は言い訳を述べる。

 その言葉は事実なのだが、眼前の相手としてはそれでも気づける程度に大河と関係していると自負しているのだろう。

 大河の言葉に大袈裟に肩を落として、目深に被った帽子のつばを摘んだ。


「……はー、ショック。クラスメイトだったのに。まさか覚えられてないなんて」


 ため息を一つ大きく吐いて顔を俯かせ、ゆっくりと帽子を丁寧に取る。

 中から多めの、黒々とした長い髪が踊り出た。


 背中の中ほどまで伸びた艶やかな光沢のある髪。

 美容に関心の無い大河にすらかなり手間をかけてケアをしているのだと思わせるほど、枝毛一つ見受けられない。


 乱れた髪をを頭を振る事で器用に整えて、彼女は帽子を持つ手とは反対の手でサングラスとマスクを取る。


「これで分かる?」


 見覚えはあった。

 たしか学年で最も派手目な、目立つ女子グループの一員だった筈だ。

 近年の時流に逆らえず加速度的に緩くなる校則を上手く利用して、制服のスカートをやたら短くしたり、中学では着用していなかったブレザーやカーディガンをおしゃれに着てきたり、赤や茶などは序の口で青や緑やピンクに髪を染めていたりした、いわゆる学内ヒエラルキーのトップ層に君臨する女子集団。

 見る人によっては不良集団とも思われがちな、ていうか実際に夜遊びと補導を繰り返す問題児たちの集まりの中で、彼女の姿を見た事がある。

 彼女が問題児であったか、不良であったかまでは流石に知らない。

 あの集団に属しているにも関わらず、周囲からさほど悪い印象も噂も持たれていない、そういった人物だったのはなんとか思い出せた。


 しかしそこまでの情報を脳からサルベージできても、肝心の名前が一向に思い出せない。

 そもそも名前を知らない可能性まである。


「あー、あの。えっとー、たしかー」


 内心冷や汗が止まらず、口を真横に引き攣らせながら大河は彼女の姿を上から下、下から上と眺める。


「ほんと変わんないね。人に興味ないとこ」


 腰の両側に手を当て、彼女はまた大袈裟に肩を竦める。


「……ご、ごめん」


 大河はそう言いながらも、目の前の女性の姿を未だ観察し続けている。


 ベースは深い黄緑で、袖に黒いラインの入ったオーバーサイズTシャツに、膝の上程度の丈の太くて白いハーフジーンズ。

 足元はハイカットの白と青のカジュアルなスニーカーで、靴下はくるぶしの下までしかない白のスニーカーソックス。

 着用する人間によっては男性と見間違われるようなボーイッシュな出立いでたちだが、彼女の柔らかいボディラインとしっかりと膨らんだ胸で女性を主張していた。

 

「……必死に思い出そうとしてくれているのは分かるんだけど、あんまりジロジロ見られると流石に嫌な気持ちになるんだけど」


「ごっ、ごごごっごご、ごめん!」


 言われて、自分が女性に対して酷く失礼な事をしていると気付く。

 不躾に身体を見られて不快に思わない人間など、滅多に居ない。


「成美」


「へ?」


成美なるみ 悠理ゆうり。2年の時同じクラスで、しかも二回も席が隣だった成美悠理。これで思い出してくれないと、さすがに泣きそうになるんですけど」


「あっ、あー!」


 名前を告げられて、大河はようやく思い出す。確かに彼女は成美悠理。

 思春期の男子がやりがちな、『彼女にしたいランキング2年生編』とか言う、女子にとって極めて不愉快なアンケートで栄光の一位を獲得したと話題になっていた女子である。

 珍しく大河にも誘いの言葉があり、断ったのに無理矢理巻き込まれて主犯含め学年男子ほぼ全員が学年主任の先生から説教を喰らったという、あの忌まわしきアンケートを、大河は脳内で瞬時に回想する。

 しばらくは学年の女子が男子に対して冷たくなり、関係が修復されるまで2年生のフロアがとても静かになったのも、今となっては笑いの種となりつつある。


「そうだそうだ。久しぶりだな成美」


「……」


 悪びれなく態度を変えて、軽い感じで挨拶をする大河を、悠理はジト目で睨む。


「いや、だって殆ど喋った事ねーじゃん俺ら」


 その視線から来る居心地の悪さを逸らすよう、大河はヘラヘラと笑いながら取り繕う。


 悠理と大河の接点と言えば授業に関する質問や返事程度で、軽い世間話の類ですら交わした覚えがない。


「あるよ。さすがに何回かはお話しした事あるじゃん」


「記憶にある限りだと一回とか二回レベルで、そんな大した話はしなかったような」


「本当にヒドい男だなきみは」


「悪い悪い」


 あざとさすら感じるほどに頬を膨らませて、悠理は眉を下げる。

 なるほどこれが学年一位の人気を誇る女子の仕草か、などと関心しながら大河は愛想笑いを浮かべた。


「んで?」


 会話を膨らませようにも話のネタが無く、大河は背負っていたリュックを軽く揺らして調整しながら聞き返す。


「んでって言われても」


「いや、用事があるから声をかけたんだろ?」


 とことん、人付き合いの苦手な男である。いくらなんでも会話が下手すぎる大河だった。


「ある日突然転校していった元クラスメートを偶然見つけたから声をかけたんだけど。一番仲の良さそうだった新條しんじょうくんに聞いてもどこに行ったか分からないっていうし。結構心配してる子、多かったんだよ?」


「心配、ねぇ」


 心配されていると言われても、かつての級友たちとさほど親しくなかった大河にとっては嘘くさい話に聞こえる。

 悠理は派手で素行の宜しくないグループと良く一緒に居たが、彼女単体での評判は決して悪くない。

 むしろなぜあのグループと仲良くつるんでいるのか、周囲から疑問に思われる程度には人格の良さに定評と信頼と実績のある人物だ。

 故になんとも皮肉な事に、彼女の口から出る言葉を全て真に受けるのは良くないと大河は読んでいた。

 性格と人の良いこの女子は、たとえそこに本人が居なくても周囲に配慮し、悪様あしざまに語ったりなどしないからだ。

 そこに大河への配慮も混ざれば、たとえ誰かが大河に文句を言っていたとしても、オブラートに包んだり言葉をこねくり回して、きっと良い様に変換し伝えてしまうのだろう。


「なによ。私だって心配したんだから。今どこの高校に通ってるの?」


 ぐいっと距離を縮められて、大河は思わず一歩後退する。

 男子平均に対して少し身長の高い大河と、女子の中でも平均より小柄な悠理では頭一つ分ほどの差がある。

 つまり大河の胸の位置に悠理の頭があるわけで、モテない大河には女子の頭がそんな位置まで接近する経験など今まで無く、どうしたらいいのか分からない。


「あー、高校は……行かなかった。進学してないんだ。今はあの、田舎の方に引っ越してて、叔父さんの仕事の手伝いとか、してる」


 自分の現状を語るには不甲斐なさが目立ちすぎて、大河は言葉を必死に選びながら言い淀む。


「……あー、そっか。なんか、ごめん」


 見るからに頭の良さそうな悠理の事だ。

 そんな大河を見て、言葉を聞いて、きっと充分以上に察したのだろう。

 お互いがお互い気まずさを感じる時間が少し流れる。


 居た堪れなくなって来た大河は、いっそこのまま『じゃあ、俺行くわ』とでも告げて別れようかと思ったが、そこでふとこの二日間悩んでいた事を聞いてみることにした。


「──あ、あのよ成美。お前、りょうの事……なにか知らないか?」


「新條くん?」


「ああ、俺色々あってさ。アイツとも殆ど会わず、なんも言わずに引っ越ししなきゃ行けなかったんだよ。俺が居なくなってから、アイツ……どうしてた?」


 正確には、親友の新條しんじょう りょうどころか担任にも引っ越しと転校の理由を伝えていない。

 大河の精神をおもんばかった叔父が、上手い具合に事実を隠して対応してくれたからだ。

 あの頃の大河は叔父に促されなければ動けなかったし、一人ではまっすぐ歩く事すら困難で、自分以外の事に意識を割く事もままならず、家の外に出歩ける様になるのに半年もの時間がかかった。

 だから、大河が去っていた後に残された親友の動向は一切わからない。


「えっと、三年生になる前くらいまでは結構落ち込んでいた……かも。進級してからはなんか吹っ切れてて、他の男子と一緒に図書館で楽しそうに受験勉強とかしてたよ。あ、私新條くんとは違うクラスだったけど、同クラの男子が仲が良くてさ」


「おなくら?」


「同じクラスの子って事。中学を卒業してからは私は櫻峰女子さくらみねじょしに入ったから、綺原きはらに行った新條くんについてはあんまり知らないけれど」


「……ん、そっか」


 大河の記憶が確かならば、櫻峰女子も綺原もかなり偏差値の高い高校だった筈。

 受験勉強に苦労して病んだと言う訳ではなさそうだ。では、進学先で何かがあって、綾は──自ら命を絶ったのだろうか。

 自分の事に精一杯で、結果的に親友を見限った形になってしまったあの頃の自分に、大河は堪えきれない怒りを覚える。


 自分が側に居れば、何かが違ったのだろうか。

 そんなどうしようもない事に、今更悩んでいる事にすら腹が立つ。


「気になるなら、綺原に行った女の子の友達に聞いてみようか? 新條くんの今の連絡先知らないの? 代わりにLINEしてみる?」


「あ、いや」


 この様子だと、悠理は綾が既に亡くなっている事を知らないのだろう。


 綾だって知ったのは二日前の事で、前の住居に残していた荷物を取りに赴いた叔父が、たまたま通りがかった綾の姉から聞いたのだ。

 亡くなった正確な日は、今から一週間と四日も前。

 すでに一連の葬儀や火葬も親族のみで行われてしまっている。


 このまま悠理に綾の死を伝えて良いものか、大河は思い悩む。

 二年前に精神を病み、心も涙も枯らしてしまった自分では判断がつかない。

 この性格も人も良い女の子が、せっかくの楽しい休日に心を痛めてしまうのは可哀想かも知れない。

 今は夏休みだが、学校が始まればきっとかつての同級生たちが伝言ゲームの様に話を伝えてくれるのだろう。

 それまでは、何も知らないままの方が──。


「常盤くん、大丈夫?」


 ぼんやりとした意識で悩む大河の顔を、下から覗き込む悠理。

 その目にははっきりと心配の色が浮かんでいて、他人事なのになぜこんなにも同調してくれているのか、大河にはさっぱりわからない。

 ただ、この顔に嘘や下手な取り繕いはしたくはないなと。

 直感でそう感じてしまった。


「……綾な。先々週、死んじまったんだって」


「え?」


 代々木駅に程近い、ラーメン店の前。

 大河と悠理は互いを向き合いながら、しばし時の止まったような錯覚を覚える。


 そんな二人の遥か頭上。

 正午を少し過ぎた直上の太陽を覆い隠すように、得体の知れないドス黒い球体はうごめいている。

 はっきりと陽光を遮り、都市全体を影で暗く染め上げるその球体の存在に、都内の誰一人として気づけなかったのは、もうすでにその頃から『異変』が始まっていたからだろう。




 もう間も無くしてこの世界有数のメガシティ、日本の中心地にして最多の人口を誇る東京の──半分以上の人間が死ぬ事となる。

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