第6話

 結局、瑠璃は約束通りにアンナからホテルの一室を借りることに成功した。


 それだけでなく、衣食住までしっかりと担保してくれた。彼女のお古の着替えを貰い、挙句には贅沢な食事まで付いてくる。ここまでしてもらう訳にはいかないと、流石の瑠璃も遠慮の構えを見せそうになったが、彼女曰く、『本当にありがとう』とのこと。


 だったら拒む方が悪い。


 さて、異世界の一日目は拠点確保で終了だ。話が片付く頃には日も暮れていた。


 瑠璃は『聖女失踪事件の解決』という当初の目標を忘れないまでも、今日はこの辺でセーブしておこうと決め、事件解決後から大人しく客室で身体を休ませていた。


 ――そして、時刻は二十一時。


 夕食と入浴を済ませた瑠璃は客室のベッド上で本を読んでいた。


 そう、言葉が不思議な力で通じるのであれば当然、文字も読めるようになっている。それに気付いた瑠璃はアンナに多少の無理を言って、ある程度の地理や歴史、宗教が分かるような資料を借り受けたのだ。


 曰く、この国の名前はリヴェンヴール。都市の名はグレンというらしい。


 横文字は苦手だ。まるで頭に入ってこないので読み飛ばす。


 そして今度は、この国には国教があるという情報を目にする。


「日輪教」


 それが宗教の名前だった。太陽信仰の宗教で、太陽を神としているらしい。


 この世界にも太陽と呼ばれる恒星があるのか、そもそも宇宙はどのような構造になっているのか。疑問は尽きないが、一日過ごしたところ、彼我の世界には完全に同一の元素――例えば酸素やら窒素やらが存在していることが分かった。そうなると、或いは本当に太陽が太陽として存在するのかもしれないが――考え過ぎても仕方がない。深くは考えないでおこう。


 そうして本のページを捲った時だった。客室の扉がノックされた。


「はい」


 本から顔を上げて来客を招くと、ひょっこり顔を覗かせたのはフェイだった。


 今日の宿泊客は瑠璃だけであり、もはや母娘にとっては身内も同然ということだろう。フェイはラフな部屋着姿でトレイを持ち、そこにマグカップを乗せている。


「お茶の給仕です。カフェインが入っていないのでご就寝を妨げませんよ」

「なるほど、それなら頂こうかな。ありがとう」


 カフェインという物質があり、更にはそれを科学的に解明できる程度には文明も発展している。瑠璃はマグカップを受け取りながら頭の裏側でそんなことを考えた。


 ふと、トレイを胸元に抱えたフェイがマジマジと瑠璃を見詰めてくる。


 視線に気付いた瑠璃はマグカップをサイドテーブルに置き、何か変だろうかと自分の身体を確かめる。女将から譲り受けた古着の上に、冷えるから軽い上着を羽織っている程度の、普遍的な部屋着だ。考えても分からずに「どうかした?」と尋ねると、フェイは慌てて手を振った。


「いえ、コートに煙草に胡散臭いイメージが強かったので。ちゃんと大人の女性だな、って」

「なんだそりゃ。失礼な従業員め」


 瑠璃は思わず呆れて苦笑を浮かべ、ベッドの上で足を組む。フェイはお茶目に笑った。


「他の仕事は大丈夫? こんな胡散臭い女の客室でゆっくりする時間は?」

「根に持つタイプなんですね。今日は他にお客さんも居ませんし、明日の開業に向けた準備も終わりました。さっきレストランの仕込みも済んだので、後は寝るだけです」

「そう。私のことはお構いなく、勝手にやるからさ」


 彼女達の仕事を邪魔するつもりは無い。と、言葉にしたつもりだったが、逆に興味を煽ってしまったらしい。フェイは瞳の中に好奇心を滲ませて瑠璃を見る鵜。


「……その、異世界? から、来たんでしたっけ」

「さては疑ってるな?」

「疑いますよ。探偵さんの人柄を知らなければ近付こうとも思いません」

「正直だね」

「私は正直者ですよ。探偵さんは? 正直者ですか?」


 どうやらまだ疑っているらしい。


「魔術がある世界だってのに、異世界への移動は現実的じゃないのか」

「魔術だって何でもできる訳じゃないですからね。黎明期ならいざ知らず、今じゃもうゼロから魔術を開発できる人も極々僅か。今は作られた魔術を継承する段階です」

「なるほどね、じゃあこいつで証明するとしようか」


 そう言うと、瑠璃はベッドから立ち上がって壁際のコートのポケットに手を伸ばす。


 そして、スマートフォンを取り出した。「札?」とフェイが首を捻るから、瑠璃は充電切れにならないように落としていた電源を点けてベッドに戻り、彼女も隣に座らせた。


「私の世界はここより少し科学技術が進んでいてね、国の成人は九割九分がこれを持ってる。『スマートフォン』って名称で、言わば持ち運び型の電話だね」

「電話⁉ こんな小さいのが? ……流石に馬鹿にし過ぎじゃないですか?」


 フェイは眉根を寄せて瑠璃を上目に睨み、瑠璃は「まあこの世界じゃ電話できないけども」と食い下がらずに認める。代わりに、他の機能を見せることにした。


 画面が点灯する。暗転した画面を見詰めていたフェイは「わ!」と肩を跳ねた。


「なんか光りましたね」

「触ってみな」

「じゃ、じゃあ……この、赤い四角を」


 フェイはトレイを片腕で抱えたまま、恐る恐る画面の赤いアイコンをタップする。


 すると、瑠璃のスマートフォンに記録された数々の写真がずらりとサムネイルで表示された。フェイは絶句して、目を白黒させながら瑠璃と画面を交互に見る。「へ?」と間抜けな声を上げながらサムネイルの一つをタップし、事務所の前で寝転んでいた猫の写真が拡大される。


 しばらく呆然とそれを眺めていたフェイは、やがて一つの結論を下す。


「本当に異世界の人なんですね」


 どうやら賢い少女らしい。瑠璃はスマートフォンの電源を落としながら笑った。


「だから言っただろ。魔術なんてものがない極々普通の世界だよ」


 フェイは笑う瑠璃の顔をマジマジと至近距離で見詰め「おんなじような顔なのに」と不思議そうに首を捻る。犬歯を覗かせて「君ほど綺麗な顔はしてないよ」と鼻を押し返してやると、フェイは途端に顔を真っ赤にさせ、ベッド上で距離を置いた。身の危険を感じたらしい。


「……でも、どうやって異世界からこの世界に?」

「それを話すには更に荒唐無稽な話をする必要があるんだけど、ちょっと宗教的なアレで説明が難しい。私が異世界に居るよりも更に超常的な出来事があったとだけ」


 フェイは心当たりを探るように考え込むが、日輪教という国教がある以上、神様を名乗る初老の男性から鍵を渡された、など必要に駆られなければ説明しづらい。


「まあ、そういうことなら、それで納得します」


 そう言った舌の根も乾かない内に、フェイは好奇心からの質問を重ねた。


「では、探偵さんはこの世界で何をするつもりなんですか?」


 聡い少女だ。瑠璃は目を逸らして少し考えた後、丁度いいと判断し微笑を返す。


「そうだ、実はそれについて、お嬢さんに相談したいことがあったんだ」




 瑠璃が自称神様から出された課題に関する話を掻い摘んで説明すると、フェイは難しい顔で唸り始める。険しい顔で床を見詰めながらうんうん唸ること数秒、口を開いた。


「……聖女様というと、やっぱり日輪教の聖女様が真っ先に出てきます」

「他の宗教は無いんだ?」

「日輪教は排他的ではないので、一応、国内にも他の宗教は幾つか存在します。でも、そういった人を自力で探すのが現実的じゃないくらいに総数は少ないので、やっぱり日輪教かと」


 これは良い収穫を得た。神の指定した聖女の素性が見えてきた。


「でも、日輪教の聖女様が居なくなったなんて話は聞いたことがないです」


 フェイは難しそうな顔でそう言い、瑠璃は「ふむ」と動きを止めて考え込む。


 妙な話だ。それだけ有名な存在なら、行方不明になれば騒ぎが起きるだろう。


 そうならないということは、考えられるケースは主に二つ。一つ目は、そもそも別の宗教の聖女を神は指定していた。二つ目は、事件の存在を教会が隠匿しているか。


「他に何か、聖女に関して知っていることはある?」

「いえ、私は日輪教徒ではないので――でも、そもそもあんまり情報が表に出ない人ではありますね。どこに居るか、どんな人でどんな年齢なのかも不明。昔はどこかの教会で活動をしていたとは聞きましたけど、今はさっぱり」


 瑠璃は顎に手を添えて考え込む。


 恐らく二つ目の推論が正解だ。聖女に関する情報を教会は秘匿している傾向にあるらしい。その目的に関しては情報が少なすぎて考えるだけ無駄だが、そうであるという確証を得られただけでも、瑠璃一人では分からない値千金の情報だ。


「あんまりお力になれずすみません」

「いや、そんなことはない。君のお陰で大きく捜査が進展した」


 リップサービスではなく本心を、その目を見詰めてハッキリ告げる。


 フェイは微かに驚いたように瑠璃を見詰めた後、相好を崩した。


「やっぱり探偵さんは凄いですね。私、今の話で何がどう分かったとか分かりませんし」


 解説を欲しているのか、或いはおだてて木に登らせようとしているのか、それとも単に褒めているのか。二つ目を臆面もなくできる少女ではないだろう。一つ目ならハッキリと言いそうだ。ここは素直に賛辞を受け取っておこう。「そうかな」と澄まし顔で言った。


「父の件も、ありがとうございました。本当はこれを伝えに来たんです」

「お礼ならもう貰ってるよ。それに、私じゃなくて警察でも同じことができた」

「同じことはできなかったと思いますよ。きっと今頃、父は留置場に居た筈です」


 「確かに」と瑠璃は肩を竦め、次いで目を細めた。


「君は、お父さんに対して特別に嫌悪感を持っている訳じゃないんだね?」


 少々意外に思って尋ねると、フェイは微かに声を潜めて曖昧に笑う。


「良くないこととは思いますけれども。ただ、父はギャンブル癖も浮気性も、私の前では決して見せませんでしたから。母ほど悪い印象が無いというだけで」

「『夫』と『父』は別だ。女将さんは複雑だろうけど、君がいいなら、それでいいと思う」


 目を見張るフェイ。その肩から力が抜け、ストン、と何かが落ちる音がした。


「色々と大変だろうけれど、応援してる」


 瑠璃がそう続ければ、彼女は緩みそうになる頬を、唇を締めて抑え、機嫌よく目を瞑る。


 「ありがとうございます」。明瞭な謝辞が客室に沁みた。


 フェイは嬉しそうにパタパタとベッドの上で足を動かした後、瑠璃を上目に見た。


「探偵さん、この世界にはどれくらい居る予定ですか?」


 質問の意図は分からなかったが、雑談だ。瑠璃は深く考えずに予定を話す。


「今のところは三日の予定かな。煙草が尽きるまでだ」


 フェイはひっそりと不貞腐れたように唇を尖らせた後、少し寂しそうに笑う。


「ちょっと、残念です」


 素直に言ってくれる可愛らしい少女だと思うが、生憎、大人は皮肉が初期装備だ。


「なんだよ、私に惚れちゃった? 駄目だぜ、私はこの世界に戸籍が無いからね」


 なんて冗談を言えば、フェイは微かに頬を染めつつ白い目を瑠璃へ飛ばした。


 ベッドを離れ、出口へ足取り軽く向かいつつ振り返る。


「ばーか、そんなんじゃないですから」


 フェイは捨て台詞を残しながら扉を押し開けて出て行き、去り際、「おやすみなさい」と言い残していった。瑠璃は「おやすみ」と手を振り返し、扉が閉まった後に大きく身体を伸ばす。


 欠伸を一つ。慣れない異世界旅行で知らず知らずに疲労が溜まっているらしい。


「寝るか」








 瑠璃の目をこじ開けたのは習慣でも目覚ましでもなく、不愉快なノックの音であった。


 カーテンの隙間から朝陽が滲み入る朝、寝ぼけ眼を擦りながら身体を起こした瑠璃は、「はいはい」と欠伸混じりに間延びした返事をしながら扉へと向かう。


 フェイか、アンナか。勝手に開けてくれればいいのに、と思いつつドアノブを捻る。




 扉を開けると、そこにはスーツにコート姿の上背の男性が居た。




 知らない人物だった。瑠璃は寝癖の立った頭を掻きながら、寝起きで靄のかかった思考力を総動員させてこの来客の正体を看破しようと考える。


 彼はギロリと隙の無い眼光で瑠璃を見下ろしている。武術に精通はしていないが、佇まいは常人のそれではなさそうだ。わざわざノックをする辺りから法律に背くような組織の一員ということもなく、風貌から直感的に警察のそれだと感じさせられた。


「貴女が噂の不法入国者ですか?」


 そう尋ねる男性の背後に、知った顔があった。


 アメリアだ。彼女は心底申し訳なさそうな顔で視線を逸らしており、額には冷や汗。


 その傍らではフェイが呆れたような顔でアメリアの服の裾を引っ張り咎めており、アンナも、どうフォローすればいいか分かりかねた曖昧な表情で瑠璃を見ている。


 何となく、事情は察した。確かにアメリアは口が軽そうな少女であった。


「あー…………」


 さて、下手な言い訳は通じまい。身分証明書など持っていないのだから。


 かといってこの場を上手く切り抜ける手段も持っていない瑠璃は、軽々しく異世界出身だと明かした自分の軽率さを恨みながらヘラヘラと笑った。


「逃げも隠れもしません。身支度をするんで二分ほどお待ちいただけますかね?」

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