第5話

 彼女は一階のレストランに居た。


 涙目のまま食器を拭いたり食器棚に入れたりと、開業の準備を進めている様子だった。ワイングラスを拭き終えて棚に戻し終えると同時、彼女はこちらの存在に気付く。


 こっそりと目尻の涙を拭い、気付かないふりをして作業に戻っていく。


 だが、アンナは彼女へと歩み寄ると、動きを止めた彼女へ努めて穏やかにこう言った。


「さっきは強く言い過ぎた、ごめんよ。ちょっと話せるかい」


 そっと動きを止めたフェイは、そのまま数秒ほど考える素振りを見せる。


 やがて、こくりと小さく頷いた。


 そうして二人はレストランのテーブルの一画に横並びで座る。


 残る部外者四人は必然的に、少し離れた席で固まって座った。母娘の話がどう転ぶのか気が気ではないものの、近くで耳を傾けていたら話しづらいだろうという葛藤の末の答えだ。


 静かにしていれば会話はよく聞こえる。


 四人の人間が不気味な様子で虚空を眺める傍ら、親子は言葉を交わす。


「警察を呼んで、ちゃんと調べてもらおう」


 アンナが自分の意思をハッキリと伝えるも、フェイは俯いて声を絞り出す。


「……しばらく、ホテルが休業になっちゃうかもしれないよ」

「ホテルなんか気にしなくていい。数日閉じて潰れる場所なんか潰れればいい」


 アンナが説くように言い切ると、フェイは驚きと苦笑を顔に織り交ぜた。


「閉業の話をしてた時、あれだけ悲しそうだったのに?」

「そりゃ悲しいさ。でも物事には優先順位がある。最優先はアンタだよ」


 フェイは眉尻を下げて膝の上で拳を握り、弱々しく首を左右へと振った。


「でも、やっぱり大丈夫だよ。そりゃ……私の命と比べる時が来たら優先してほしいけど。でも、そんな大袈裟にするほどじゃないじゃん。身体に不調なんて無いし、何かあっても、そんな、分からないくらいだから」


 フェイは微かに震える手で自分の腕を掴み、身体を守るように身を縮こまらせた。


 その顔色は微かに青く、目は怯えるように泳いでいた。その言葉は自分を鼓舞するためのものなのだろう。恐怖を強引に上塗りするための言葉であることは火を見るよりも明らかだった。


 どうにか浮かべた無理やりな笑みは少し痛々しい。彼女にこれ以上苦しい思いをさせたくないアンナは、どんな言葉を選ぶべきか困っている様子だった。


 瑠璃はふぅ、と、溜息を一つ。お節介は自覚しているが、歯痒いなら動くべきだ。


「ちょい」


 瑠璃は椅子を引いて立ち上がり、二人の方へと緩慢に歩き出す。背中には三対の視線。唐突に割って入った怪しい探偵に、二人も戸惑いの目をこちらに向けてきた。


「お嬢さんに一つ聞いてもいいかな」


 フェイは怪訝な目で瑠璃を見詰める。


「何ですか?」

「君が大人になって子を持った時――子供が同じような被害に遭っても、君は警察を呼ばないんだね?」


 即座に言い替えそうと準備していた口が空気だけを押し出し、気の強そうな双眸が驚きに見開かれた。瞳孔が不安定に揺れ、「それは」と彼女は膝の上に拳を置く。


 ここで意地と見栄を張って嘘を吐かない辺り、性根は素直で優しい子なのだろう。


「子供じゃあ想像しづらいなら、女将さんでもいい。女将さんが大怪我を負って、それでもホテルを優先しようとしたら? 君はその意思を汲んで手伝いをできる?」

「……できません」

「そういう話なんだと思うよ、これは。君が女将さんの大事なものを大事に想っていることは、部外者の私にも伝わってくる。言葉だけじゃなくて行動していることも分かる。ただ、その大事なものに自分が含まれていることを先ずは理解するべきだろうね」


 フェイはきゅっと唇を引き締めて目を細め、その瞳孔を彷徨わせる。


 自分を恥じ入るように眉尻を下げながら、彼女はその顔を俯かせた。


 人様の娘がどうなったところで、瑠璃の人生に大きな影響もない。まして、異世界だ。それに何かが起きた頃には既にこの世界から消え去っていることだろう。


 だからこれは、余計なお世話というやつなのだろう。でも、必要だと感じた。


「……分かるよ、それだけじゃないんだろう」


 ハッと上げられたフェイの顔が歪み、瞳が動揺に揺れた。


 「どういう意味だい?」とアンナの尋ねに、瑠璃は最後まで言うか言うまいか判断しあぐねた。だが、これだけ年若い少女が抱えていた苦悩をこの場に居る誰もが今まで気付いていなかった事実は、突き付けてやるべきなのだろうと、自戒も兼ねて言うことにした。


「怖いんだろ、透明人間に何されたかハッキリするのが」


 核心を突かれたフェイは、一瞬、誤魔化すように笑みを取り繕おうとした。しかし、意思に反してその顔は歪んでいき、彼女は涙を堪えるように唇を噛んだ。


 彼女は自分の腕を掴んで縮こまる。噛んだ唇の隙間から熱い吐息をこぼしながら、やがて、観念するように頷いた。ぽた、と、情けない自分を恥じるような涙が彼女の膝上の手に落ちる。


 見開いた目でそれを見たアンナは思わず、といった調子でフェイに手を伸ばし、そしてその背中に手を回す。


 容疑者三名も、その事実に思い至らなかった自分を恥じるような素振りを見せた。


「透明人間は、少なくとも目につく場所にあるものを盗んで行かなかった。じゃあその目的は? そう考えるのは自然な発想だ。そして、その結論に自分の身体が過るのも同様に自然だ。だったら、警察が事件をしっかり調査して、結果として自分の身体に何をされたか現実を直視させられるのは怖いだろう――この事件は透明人間の単なる不法侵入として処理はできないんだ、少なくとも彼女にはね」


 フェイの背中に手を回したアンナは、まずは言葉ではなく行動で示した。その華奢な身体をそっと抱き寄せ、微かな震えを抑えるように身体を抱き締めた。


 これ以上の言葉が必要であるかは悩ましかったが、瑠璃は重ねて言った。


「でもね、フェイ・ウェストン。大人として、これから大人になっていく君に助言をしよう」


 瑠璃は容赦のない自分に嫌気が差しながらも、誰かが言うべきだと心を冷ました。


「箱の中に小人は居ない。蓋を閉めるのは単なる現実逃避に過ぎず、目を背けても現実は変わらずやってくる。だから、怖いなら大人を頼りなさい」


 すすり泣きながら顔を上げたフェイは、瑠璃の顔を見て、それから、その目で大人を探す。そして、探すまでもなく自分の身体を抱き締めてくれる親を思い出し、身体を預けた。


「馬鹿な子だねえ……だったら、猶更、ハッキリさせないと」

「ごめんなさい、お母さん。……ごめんなさい」

「いいんだ。私こそ気付かなくてごめんよ。ちゃんと、一緒に病院に行こう」


 「うん」とフェイが頷くから、これで確執は解消されただろうかと一息を吐く。


 成り行きを黙って見守っていた容疑者三名は、今のやり取りを見て何を思ったのだろうか。微かな義憤や責任感の浮かぶ表情からは、もはや推察をするまでもないだろう。


「俺も一緒に行こう。話せることはあるはずだ」

「私も付いていく。証言は正確な方がいいだろうからな」


 クリスとブライアンがそれに同意し、アメリアも二人の後ろで優しく微笑む。


 フェイは涙に濡らした顔を恥ずかしそうに隠しながら、「ありがとうございます」と照れ笑いと共に謝辞を伝えた。フェイはこれ以上、ホテルを理由に無駄な遠慮をすることはないだろうし、容疑者三名も比較的協力的になってくれた。


 そんな会話に水を差すように、瑠璃はぽつりと呟いた。




「――――まあしかし、犯人が誰かを考えると、その必要は無さそうですがね」




 言葉の意味を理解できなかった者達の間抜けな目が瑠璃の顔を見る。


 そして、その顔が飄々と、ふてぶてしく、更に楽天的な表情を浮かべていたから、その事実を基にして言葉の意味を段々と理解していく。「何故――」唯一理解が遅れたブライアンがそう呟き、「まさか」と少し遅れて驚愕と怪訝を瑠璃に視線で投げつけた。


 瑠璃は軽薄に笑うと、フェイの方を見た。


「最後に一つ確かめたい、お嬢さん」

「は、はい」

「【肉体の透明化】の魔素は、玄関前から枕元への一直線だけだった?」


 質問の意図が分からずに眉根を寄せるフェイへ、瑠璃は煙草を取り出しながら続ける。


「透明人間は透明になったまま君の枕元に行って、その後にどこへ消えた?」

「それは……えと、外部犯なら、外に出たんじゃないですか?」

「その通り、外部犯だと仮定すると、その人物はホテル内で顔を見られる訳にはいかない。つまり、ホテルを出るまでは透明化を維持し続けるはずだ。そうなると、透明化は君の枕元で折り返して再び玄関前まで維持され続けたはず」


 瑠璃が手元でオイルライターを開閉させながら呟けば、クリスが得心した。


「そうか、全く同じルートで行き来したとも思えない。玄関前のどこかで魔素が二線あれば」

「ああ、透明人間は折り返して出口へ向かったことになる。そうなれば外部犯で確定だ」

「……待っておくれ。ちょっとまだ、理解できてないことが多い」


 アンナが眉根を寄せて制止をかけるが、瑠璃は軽薄に笑って出口を示す。


「後で整理して説明しますよ。まずは玄関前へ行きましょう」


 そうして六人でホテルの玄関前へ向かうと、そこには確かに緑色の魔素がある。


 そして、それは――始点と終点の二つに分かれていた。注視しなければ分からないような極々小さな光の粒子の一つは扉の前にあり、きっと面々は先にこれを見付けた。


 そして、今度は扉を出てすぐ右に曲がった花壇の傍に、微かな魔素が残っている。どちらが始点でどちらが終点かは分からないが、少なくとも、こう説明できる。


「透明人間はここで透明になって、中に入り、そして出て行った――正直、これを確認できるまではこれでクリスを疑う気持ちはあったがね、これで君達宿泊客は十中八九、白だ」


 瑠璃はそう断言をして、クリスは「ほら」とブライアンを勝ち誇った顔で見る。


 ブライアンは悔しそうに歯噛みしつつ「悪かった」と詫びた。案外、仲は良好だ。


 傍らにフェイを抱いたアンナが、眉根を寄せたまま唇を尖らせた。


「ちょっと待っておくれ。まだ私は理解できてないんだ、なぜ急に全員容疑者から外れた?」


 瑠璃は冬場の冷気を手で阻みながら、咥えた煙草に火を灯す。


 ニコチンが肺に染み渡った。ふぅ、と、煙と蒸気で白く曇る息を吐き出した。


「朝起きた時、ホテルの入り口の鍵はどうなっていましたか?」

「閉まってたけど」

「つまり、出て行ったはずの犯人が閉めたことになりますね」

「そうだね。だから何だって言うんだい?」

「ここで思い出してほしいのは、なぜクリスが疑われたのかという話です」


 うろ覚えらしきアンナは腕を組んで首を傾げ、代わりにフェイが答えた。


「『鍵がかかっているから内部犯』『それでいて魔素が外から続いているから外出者』です」

「その通り。でも――もしもクリスが犯人だとすれば、自分の手で鍵をかけるということは、つまり自らの手で自らを犯人だと絞り込ませることに他ならない」


 ここに至ってようやく理解したアンナは、腕を組んで目を丸くする。


「そんなことは――」

「――無論、犯人であればするはずがない。尤も、彼が間抜けで、普段の癖で鍵をかけてしまった、なんてオチもあり得る。だから十中八九。でも、彼が犯人なら、外にまで出て偽装工作をする周到さがあるのに、その過失はあんまりにも間抜けすぎる」


 難しい顔で押し黙る面々を、瑠璃は紫煙を揺らしながらにやりと眺める。


「そうなると、今度は誰が犯人なのか、ってことになる」

「……でも結局、鍵を開けられる人間が三人しかいないなら外部犯は無いんじゃ……」

「いいや。その言葉には二つの間違いがある」


 瑠璃が言うと、「え」とアメリアは間抜けな声を上げて目を泳がせる。


「一つ目、エントランスの鍵は内側からも開けられる。中の人間が鍵を開けて、外に出て魔術を発動して中に戻っても――同じような魔素の痕跡が生まれるだろう。だから、鍵を開けられる人間は宿泊者のブライアンとアメリアも含む」


 アメリアは唖然とした顔で顎に手を添えて俯き「確かに、そうなるかも」と呟いた。


 ブライアンは狼狽えながら「俺じゃないぞ」と宣言をする。クリスの白い目が刺さった。


「え、じゃあ内部犯?」

「いや、わざわざこんなことを言ってから撤回して申し訳ないが、先ほどのクリスと同様の理由で、内部犯であれば鍵をかけて疑いの目を内側に向けさせる理由が無い。理由が無いだけでアリバイも無いから完全に潔白とは言えないけどね」


 そう答えると面々は腕を組んで悩み、クリスが腕を組んで瑠璃を見た。


「もったいぶらずに真相を教えてくれ。……異世界の探偵」


 良い響きだ。「オーケー、じゃあ二つ目の間違いだ」瑠璃は煙草を大きく吸った。


 煙草の先端の赤熱が、朱を帯び始めた異世界の町に灯る。瑠璃の影が妖しく揺れた。


「前提が違うんだよ。居るだろ、もう一人。鍵を持っていて――顔を出せない人間が」


 煙草を唇から離し、軽く持ち上げてそう軽薄に笑う。


 誰にも心当たりがないらしい。瑠璃は呆れてアンナを見た。


「貴女が教えてくれたんじゃあないですか、女将さん。物忘れにはまだ若いでしょう」


 顎を摘まんで沈黙する女将は、やがて、側頭部でも弾かれたように頭を揺らした。


 ハッと目を見開いて顔を上げた彼女は「まさか」掠れる声で呟いた。


 流石は母娘と言うべきか、フェイも間もなくそこに思い至ったらしい。茫然とした様子で瑠璃を見詰め、自分の導き出した推論が正しいのかを瑠璃に視線で尋ねた。


 瑠璃は答えを口に出そうとして、しかしホテルの門扉傍に人影を見つけ、唇を曲げる。


「そうでしょう? そこの素敵なお兄さん」


 気障な言い回しと共に煙草の先端をそちらへ向けると、夕陽の逆行を背にした人影が震えた。


 その場に居た五人の視線が一斉に集う。クリスとブライアンが素早く詰め寄ろうとした。


 一瞬、人影は逃げ出そうとする。だが、彼が靴底を石畳から離すと同時、フェイの声が辺りに浸透した。




「お父さん?」




 離れた靴底が同じ場所で音を鳴らした。


 拘束しようとしたクリスとブライアンは、彼が逃げ出す素振りを見せなくなったことを察して動きを止める。次いで、フェイの言葉の意味を少し遅れて理解し、目を丸くしていた。


 フェイは信じられないと言うように、呆然と首を左右に振っていた。


 アンナはフェイほど狼狽えてはいない。ただ、物憂げにその影を見詰めている。


 ここから逃げ出そうと考えるほど往生際の悪い男ではないようだ。影は観念したようにこちらを振り返ると、そっとホテルの門扉を押し開けて面々の前に立った。


 それは、フェイと同じ黒髪を短く切り揃えた壮年の男性だった。


 髭は綺麗に剃っており、髪もよく手入れされている。やや疲弊が色濃く見える翡翠の双眸は未練がましく妻と娘を見詰めており、頼りない唇が情けなく震えていた。


 彼は滲んだ手汗をデニムのズボンで拭い、不安そうに口を開く。


「……途中から、話を聞いていた。どうやら騒がせてしまったらしい。すまない」


 「ほんとだよ」と空気を読まずにアメリアが吐き捨てる。


 我に返ったクリスやブライアンも、頷いてそれに同意した。


 だが、そんな彼らの隙間を縫うようにアンナが彼へと歩み寄る。


 何人かがロマンスを期待しそうになった次の瞬間、凄絶な平手打ちの音が街中に響き渡った。


 もはや殴打に近い平手を繰り出したアンナは、真っ赤に染まった手を痛そうに振る。


 同じく真っ赤な頬を押さえた男性は、弱々しく腰を突いて申し訳なさそうに項垂れた。


 それを見た他の面々は、瑠璃も含めて唖然と押し黙り、フェイだけは静かにそれを見守っていた。思うところがあるように、瞳を伏せている。


「何しに来た」


 アンナが男性へ問う。彼は俯いて呟いた。


「すまない。フェイの顔を……見に来た」

「二度とその面を見せるなと言った。忘れたとは言わせないよ」

「ああ、不義理を承知の上だ。申し開きもできない」

「アンタが余計な魔術を使って会いに来たせいで! あの子は怯えていた! 【肉体の透明化】がどういう魔術か、元教師のアンタが知らない道理も無いだろう。この犯罪者が!」


 アンナが感情任せに吐き出す。男は娘の抱いた恐怖に思い至っていなかったのだろう。


 ハッと蒼白にした顔を上げると、フェイの方を見て、その目尻の腫れに気付く。


 どうやらこの世界にも土下座があるらしい。彼はフェイへと膝を突いて頭を垂れた。


「す、すまない、フェイ。君を傷付けるつもりはなかったんだ」


 フェイは何も言わない。或いは言えない。黙ってその姿を見詰めていた。


 瑠璃はそそくさと喧嘩から距離を置き、同じように離れてきたクリスに耳打ちをする。


「透明化って犯罪なのかい?」

「あ? ……そうか、異世界から来たんだったか。そうだ。一部の魔術はそもそも発動が禁止されていたり、免許が必要だったり、或いは事前に申請を要するものがある。透明化の魔術は事前申請が必須、怠れば魔術規制法に触れる」


 どうやら魔術といえども万能ではないらしい。まだ知らないことが多すぎる。


 瑠璃は漠然とそんなことを考えながら、夫婦喧嘩の行く末を見届けた。


「アンタは一線を踏み越えた。これから警察を呼ぶ。顔を出したってことはその覚悟があるんだろう?」

「ああ、ここまで騒ぎにしてしまったなら、それがケジメだろう。申し訳ない、本当に」


 父親は殊勝に頷いて、腫れた頬を押さえながら徐に立ち上がった。


 アンナは一児の娘を守る立場として然るべき措置を取る決断をし、ホテルの電話を使うべく足をそちらへ向けた。それと同時に、フェイへ確認を取る。


「フェイも、それでいいね?」


 その質問は『私刑ではなく然るべき法的機関に差し出そう』という意味での質問だった。


 だから、対するフェイの返答はアンナの想定しないものだった。


「……ううん、警察は、いいよ。特に何かされた訳じゃないなら」


 フェイは穏やかにそう言い切った。


 怒りや軽蔑、戸惑いや罪悪感。そんな感情に支配されることなく、普段通りの調子で。


 当然、アンナはそれを認められない様子で、腕を組んで逡巡の素振りを見せた。


 どうやら父親も乗り気ではないらしい。自罰的に物言いたげな顔でフェイの選択に苦言を呈そうとしていた。しかし、「そうだよね?」と、『変なことをしていないよな?』と確かめるようにフェイが尋ねれば、彼はやがて、崩れ落ちるような笑みを浮かべて白状した。


「……ああ。君が元気に育っているか、どうしても顔を見たかっただけだ」

「あはは、何それ。元気だよ、お母さんのお陰で」


 フェイは腰に手を置いて、少し話題を探る表情を覗かせた。腫れた目が眩しそうに細くなる。


「最近、何してるの?」

「俺は――その。また、教師を始めたんだ。一からやり直そうと思って」


 父親は戸惑いつつも、徐々に氷を溶かしたように柔和な顔で答え始めた。


 フェイは、意図的なものだろう。努めて明るい声色と表情で受け答えをする。


「そっか。じゃあ……ホテルに戻ってくるのは難しいね」

「それは……そうかもな。アンナも許してくれないだろう」


 当たり前だ。そう言いたげなアンナがフェイの後ろで腕を組む。


「でも、安心して。私はもう大丈夫だから。私には、お母さんが居るから」


 父親は微かに見張った瞳に、一抹の寂寥感を滲ませる。


 次いで、その傲慢な感情を安堵で塗りつぶし、やがて苦笑を浮かべた。


 その言葉は拒絶の意図を孕んでいたのだろうか。それはフェイにしか分からない。


 そうかもしれないし、そうではないかもしれない。だが間違いなく言えるのは、彼女の後ろで鬼の形相を浮かべて腕を組む彼女が居れば、愛娘はこれからも問題なく生きていくだろうこと。それを確信した父親は、微かに相好を崩した。


「ああ、その通りだったな」


 父親は目を瞑ってそう噛み締め、最後にアンナを見る。


 アンナは「ふん」と鼻を鳴らすと、「本当にこのまま帰していいんだね?」とフェイに再確認。フェイは甘えるようにアンナの服の裾を摘まみ、多くは語らずに頷いた。


「そういうことだ、さっさと帰りな」


 アンナはそう言って顎で門扉を示し、父親は真っ直ぐに頷いて踵を引く。


 そして、思い出したように宿泊客達の方を見ると、父親は律義に頭を下げた。


「貴方方にも迷惑をかけた。申し訳ない、宿泊のお代と慰謝料は後日、郵送で私の方から」

「ふん。私の分は構わん――同じく子を持つ父として、お前さんの行動はよく分かるのでな。そうなった原因が自分自身にあることと、やり方に問題があったことは反省すべきだが」


 ブライアンは腕を組んでそう格好つけ、クリスはヒュウと口笛を吹く。


「じゃあ俺は貰っておこう。よろしく頼むよ、女将さんに連絡先を伝えて置く」

「同じく私も。よろしくお願いしますねー」


 クリスとアメリアがそう言葉に甘え、そして最後、父親の目が瑠璃を見た。


「貴女はどうする?」


 その場に居た面々の視線が一斉に瑠璃へと集い、瑠璃は思い出したように「あー」と声を上げる。気付けば半分ほどまで燃えてしまっていた煙草の灰を慌てて携帯灰皿に落とし、それから勿体ない、と場を弁えずに一服。そして犬歯を覗かせて笑った。


「私は別に宿泊してた訳でもなし、ただ自分から首を突っ込んだんだ。女将さんが貰っておけと言うのなら貰うけれども、君から金を受け取るのは道理に背くかな」


 そう言ってアンナを見ると、彼女は「勝手にしな」と腕を組んで顔を背けた。


 すると、父親は怪訝な眼差しを瑠璃へと注ぐ。


「自分から首を突っ込んだ……? そういえば、俺に最初に気付いたのも貴女だったな」

「それだけじゃないですよ。この人、犯人が貴方だってビタ当てでした」


 アメリアが虎の威を借るように瑠璃を示し、瑠璃は賛辞に乗って軽く手を振り返す。


 父親はその言葉に、暫し唖然とした様子で瑠璃を見詰める。他の面々も、改まって瑠璃を訝しがるように観察し始めた。


「なんで、俺だと分かったんだ?」


 瑠璃は煙草を一吸い。短くなった煙草の先端が赤く光り揺れた。


「犯人はまず、このホテルの四階を訪れたことがある人間だと思った」

「どうして」

「魔素が一直線にお嬢さんの部屋へ向かっていたからね。私は初見で似たような扉が四つ並んでいて、一発で部屋を特定するなんてできなかったもの」


 そう言われて、その場に居た全員がハッと得心に至る。


 瑠璃は煙草を挟んだ手を顔の周りで揺らす。


「次に、お嬢さんの知人だと思った。使えなくて当然と言われるくらいに難易度が高い犯人の魔術を、お嬢さんは魔素に触れただけで透明化だと断定できた。確か、魔素に触れただけで魔術を特定できるのは、それに詳しい人間だけなんだろう? そして、犯人がこのホテルの四階を知っている人間だと仮定すると、そこにも繋がりが見えてくる――つまり、犯人はお嬢さんに魔術を教えたことがある人間ではないか? これは仮説レベルだけどね」


 淡々と瑠璃が語ると、段々と話を聞く者たちの顔に畏怖の念が滲む。


「挙げだすとキリが無い。鍵の施錠状態も謎なんだ」

「何か……おかしいですか?」


 フェイは腕を組んで首を捻る。瑠璃は微笑を返して答えた。


「さっきも言った通り、内部犯だとしたらこの偽装工作は偽装工作に満たないお粗末なもの。だから必然的に外部犯の線が濃厚になるんだけど、そうなると今度は鍵をかける理由が分からない。だって、最初からホテルに居なかった人間だからね。容疑者から外れるためにアリバイ工作をする必要も無い。わざわざ鍵なんてかけなくていいのさ」

「それは……犯行が起きたことを隠したかったんじゃないか?」


 ブライアンの指摘を、瑠璃は笑って一蹴する。


「魔素が残ってるのに隠すも何も無いだろう」

「……それもそうか」

「俺でも分かったぞ」


 クリスが軽口を叩くとブライアンの睨みが返る。


 さて、瑠璃はこの問題にこう結論を出す。


「だから私は、犯人が鍵をかけた理由をこう仮定した」


 笑って続ける。


「単に鍵が開けっぱなしだと、そこで寝ている人達が危険だろう?」


 フェイとアンナが息を飲み、ブライアンは頻りに頷く。アメリアとクリスは顔を見合わせた。


 瑠璃が父親の方を細めた目で見詰めると、彼は観念して瞑目した。手が汗を握っている。


「それから、三人の証言したクリスの帰宅時間が全員異なる件も、三人以外の外部犯が居ると仮定すれば筋は通る。二十三時半に侵入者が来て、そいつは二十四時に帰り、二十四時半に帰ってきたクリスが魔素を発見した。これで、誰も嘘吐きじゃないと分かる」


 散々疑い合っていた三人は顔を見合わせる。誰も謝罪はしない。


「駄目押しは鍵の所在だ。家族が持っていると言っていたし、このホテルは元々、貴方と女将さんで経営していたとも聞いた。貴方は鍵を持っているだろうと踏んだ」


 瑠璃がそう結論を下して煙草を吸うと、紫煙が夕刻に紛れる星々に覆いかぶさった。


 父親はふう、と長い嘆息の後に、敬服するように頭を下げた。


「貴女は、一体何者なんだ?」


 素性を聞かれると困るが、下手な誤魔化しも効かない。


 瑠璃は煙草の先端を彼へと突き付け、こう答えた。


「探偵だよ。異世界のね」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る