第二話『胸騒ぎ』

 俺は今、チョコバーほどのサイズの金属塊を、強く、固く、握りしめている。その先端から伸びる、頼りないほどに細いケーブルは、途中で二股に枝分かれして俺の両耳へと繋がっているが、今すぐ引き剥がして投げ捨ててやりたいというのが正直なところだ。この装置デバイスは、俺の所属している組織に代々伝わる門外不出の特殊無線機だ。これが送受信する電波は、スマートフォンやラジオのような一般的な微弱電波のレベルを遥かに超えており、電波法を完全に無視しているのだが、航空機の無線機器が扱う電波には干渉しないので、使ってもバレないという優れものだ。それなのに、何を動揺して、特殊無線機チョコバーを、その融点を越すほどに手で熱しているのは俺がこれから……



 旅客機をハイジャックからだ。



 最終指令とはこのことだ。

 俺の乗る、メシア連邦はオモシュガフロ市発、マクスキ経由、ナナロク共和国行き、ディエット航空六四一〇便は、誰にも邪魔されない、この最果ての南の海に、沈められる運命にあるのだ。

 この機の乗客、機長、副操縦士、客室乗務員たちの中には、これから起こることを知る者は誰一人としていないはずだし、敢えて前もって知らせる義理もない。死ぬのなら、ひと思いに、一瞬のうちに済ませる方が良いに違いない。

 よし、俺は心を決めたぞ。

 乗客を巻き込む以上、英雄、にはどう考えてもなれないだろうが、とにかく、メシアンマフィアの目論見もくろみを阻止して、人類全体の利益に貢献し、平和をもたらすのだ。そのためには……

 まずは俺の外見の問題を解消しなければならない。ハイジャックするのなら、格好もそれっぽくしないと、相手にされないだろう。目の前の、席に備え付けのテレビの画面を鏡がわりにしてみる……というかこのテレビ、ブラウン管だよな? 今の時代に液晶でも有機ELでもないテレビが座席の背に埋め込まれているだなんて、俺はらしい。まぁ、そんなことはどうでもいいとして、そこに映る俺の姿は、どこにでもいそうなオフィスカジュアルスタイルのビジネスマン。しかし幸いなことに、上に着ているのは黒のタートルネック。襟元を少し伸ばしてやれば、顔の下半分は、覆面を被ったようにして隠すことができる。足元の、ラップトップやプレゼン書類の入っていそうな手提げかばんの中には、これまた黒のニット帽を忍ばせている。搭乗から今まで、ずっとレンズが濃い焦げ茶色をしたサングラスをしているから、人相が既にバレているという心配もない。ここでコソコソ身繕みづくろいすれば怪しまれるかもしれないから、トイレに入ろうか。これは俺史上最大の大仕事。緊張のせいか尿意も相当あるので、トイレがちょうどいい。さっきの上司からの無線通信によると、この機は約二十分後……左腕の手首に巻かれたデジタル時計は『01:23』を表示しているから、一時四三分頃、には乱気流タービュランスに突入するらしい。どうせ地獄行きの便だ、準備体操ウォーミングアップになっていいんじゃないか。が、そんな呑気なことは言ってられない。こっちの準備の時間も、限られているのだからな。そろそろ行こう。俺は鞄から黒のニット帽を取り出し、それをハンカチっぽく四つ折りにして、いかにも、ただトイレに行くだけの男を演じる。席から立ち上がり、そこそこのペースで歩き出す。トイレまでの通路はそれほど長くないのだが、やはり最終指令は一味違う。トイレまでの十数歩がとてつもなく長く感じる。この感覚は……懐かしいな。高校の卒業式で、大勢の視線の中、校長のいる演台までたった一人で向かう。あの時の感覚にそっくりだ。キリンやゾウみたく手と足を同時に前に出さないように気をつけなければ。そんなことを考えているうちに、目の前はもうトイレの扉だ。この中に入って、次に外に出た時には、俺はハイジャック犯。もう俺は、どこにでもいる雇われビジネスマンでも、企業の重役でも、ホームセンターの店員でも、建築技師でも、精神科医でも、会計士でもない。組織の人間として、様々な人間を演じてきたが、最後に演じるのが……まさかハイジャック犯だとはな。まぁ、特殊な形とはいえ、何度も法を犯してきたわけだ。その割には、軽すぎるくらいの罰なのかも知れない。そう言えばさっき……俺の席の後方、ちょっと離れたところに、白いワンピースが似合う、やけに綺麗な女性がいたな。あんな人と、一緒に歩む人生も…………あったのだろうか。ああ、俺も、この世に未練たらたらということか。考え過ぎると気持ちがブレてしまいそうだ、早いところ最後の変身を済ませよう。

 通路の左手、トイレの扉を開ける。ちらと振り向き、演じていない本当の俺がいた世界を見納める。そして狭い個室に身を収める。ひどく白く磨かれた馬蹄形ばていけいに座り、人生最後の放尿。タートルネックの襟を鼻の頭のところまで上げて、黒のニット帽を深めに被る。そして、鏡を見る。見事に、二つの目以外は黒一色。誰がどう見ても、ハイジャック犯だ。あとは……凶器が足りないか。トイレの向かいは簡易キッチンだったはず、そこから拝借しよう。俺は立ち上がり、レバーを回す。この世に対する未練を、暗い穴の底の黄色く濁った水とともに綺麗さっぱり流す。内向きに開く扉にやや手こずりながら、トイレを出る。通路に足先が触れた。これでもう俺は、ハイジャック犯だ。

 目の前は、記憶通り、カーテンの向こうにキッチン。ちょうど、誰もいない。堂々と侵入する。とりあえず、冷蔵庫を開ける。これは人類の悪い癖だ。最下段の引き出しを開ける。左から順に、何かの作り置きだろうか、意味不明の紋様の入ったいにしえの土器。リンゴ。バナナ。キュウリ。おいおい、こんなところにリンゴなんか置くと、エチレンガスで他の果物やら野菜が全部ダメになっちまうぞ? いや、そんな心配をしている場合じゃない。おっ! こっちに、黒光りする、ハンドボール大のスイカを見っけ! そうだ、このスイカを鈍器に利用する……のではない。こんな真っ黒で大きな玉、どう見ても…………爆弾じゃあないか!! これに、俺のデジタル腕時計を埋め込んで時限爆弾ぽさを演出しよう。俺は腕時計をスムーズに外す。デジタルのくせに高級時計の『シグマ』。ああ、五百万クレジットの資産よ、さようなら。オラっ! お、いい感じに埋まったな。『01:36』か。少し急ごう。あ、タイマーに切り替えてそれっぽくしておくか。うん、五分タイマーをセット。あと、導火線も欲しいが……この三角コーナーの中にある茶色くて細長いものは……チャーシューに巻かれていた、ヒモ? よし、これを、スイカのてっぺんにブッ刺して……導火線に見立てる。完璧だ。これで、誰がどう見ても、正真正銘、爆弾だ。あと、この液体洗剤も使えそうだな、目眩めくらましに。それに、こんなところにダクトテープ! で、隣にあるのは……おいおい電子タバコのリキッドじゃないか! あ、こっちには本体も! まさか、客室乗務員がコソッと吸ってるんじゃないだろうな? 電子タバコの持ち込み自体は可能なのは知ってる。でも、これがある程度の高温を出せるのは確かだ。これに少し細工して火が出るようにして、爆弾の着火に使おう。いやぁ、機内に電子タバコなんて、物騒だなぁ。ま、そういう俺が一番物騒なヤツだな。よし、こんなもんで十分だろう。というかあれだな、爆弾の燃料の輸送を阻止するって言うのに、自分が爆弾もどきを作ることになるとは、なんとも皮肉だ。だが、あの世はすぐそこ。もはや関係ない。キッチンを出て右に進めば、操縦室コックピットだ。

 じゃあ、行くぞ。

 いや、待て。

 一応、設定を考えよう。

 俺は、ディエット航空の副操縦士という設定。

 無理に機長レベルを装うのは、ボロが出そうで怖い。

 そうだな、そうしよう。

 俺は、ハイジャン・アクバー、副操縦士兼ハイジャック犯。

 準備物を最終確認。

 右手の袖には、電子タバコの本体を改造して作った脱法チャッカマンを忍ばせる、これは本物ガチ

 左手のひらには、愛しのシグマの時計が埋め込まれたお手製時限爆弾、こっちは偽物フェイク

 正直、ちょっと重い、気がする。

 左手のこいつはかなり目立つ。

 だから背中側に回して、前からは見えないように。

 なぜか鍵のかかっていない扉をそっと開け、操縦室コックピットに忍び込む。

 大ぶりの座席に座る、二人の操縦士の後ろ姿。

 左が機長。

 右が副操縦士。

 あとは計器の類がたくさん。

 ここが、俺の墓場、か。

 第一声は、気の赴くままに、いこう。

 アクション!

「へぇ、同じ操縦席でも、こんなに違うんですねぇ」

 俺自身も、どの操縦席と比べているのかさっぱりわからないが、いかにも、それっぽい台詞じゃないだろうか?

「ん、誰だ?」

 機長が振り向く。

 副操縦士もやや遅れて振り向く。

 よし、設定通りいくぞ。

「やだなぁ、聞いてませんか? 私は正真正銘、ディエット航空のパイロットですよ? ハイジャン・アクバーといいます。明日、マクスキ空港からつ飛行機で副操縦士を務めるんです。普段なら、リラックスできる客室の方を選ぶんですけど、今回ばかりは、あのトドロキー機長の操縦と聞いたものですから、これはもう操縦室のジャンプシート搭乗でいくしかないと思いまして、来ちゃいました。あ、一応社員証見ます?」

 ズボンの後ろポケットから、社員証を取り出すフリをして……


「大人しくしてもらおうか」

 と言って、お手製の時限爆弾を見せる。


 多分タイマーの残り時間は三分半ほどだが、ぞれがゼロになる前にケリをつけなければならない。

 どうだ、機長さんたち、驚いたか?


「そ、それは! どどどどう見ても、ベイハイ産のダイナマイトスイカじゃあないか! このあと俺のデザートになる予定だったんだ!」

 と、機長が怒り気味に言う。


 うわ、予想外。

 俺の渾身の一作が、偽物だとバレるだなんて!

 しかも、スイカを楽しみにしていたなどという、なんとも食いしん坊な理由で、バレてしまったのは、かなり屈辱的だ。

 だが、後には引けない。

 こうなったら、強硬手段だ。

 隠し持っていた液体洗剤の容器を逆さまにして、先端の注ぎ口に液体を溜める。

 そして容器を振り上げ、機長、副操縦士の順で、顔のど真ん中目がけて、一気に液体を押し出す!


「ぐわっ、何をするっ! 何も見えない!!」

「めっ、目がぁああ!!」


 うん、なかなか効いているぞ。

 次に、目にも止まらぬ速さで、二人の口に、強力なダクトテープを貼る。これでもう、声をあげられまい。

 そして、爆弾の導火線にもなっている、チャーシューのヒモ。かなり余ったので、これを使って、左側の座席の操縦かんに機長、右側にも同じように、副操縦士を縛り付ける。

 ちなみにここまで、左手のひらのお手製時限爆弾は、ボンドか何かで接着されているかのように、ピクリとも動いていない。


「フハハハ! これで貴様らは、ディエット航空六四一〇便と一心同体、パイロット冥利に尽きるだろう?」

 とっても、悪役だ。


 えっーと、ノリノリ過ぎる、だろうか?

 まぁ、どうせあと二、三分の命だ、楽しませてもらおう。

 目の前で二人の大人が、目も開けられないまま、芋虫のようにモゾモゾともがくが、拘束を抜け出すことはできない。

 で、ここからは、スラスラとよどみなく、言葉が出てくる。

 彼らに、こう言い放つのだ。

「俺はコメット合衆国政府公認の諜報機関『レエム』の捜査官、ハイジャン・アクバーだ。メシア連邦を裏で牛耳る『メシアンマフィア』の監視を主な任務としているが……残念なことにこの飛行機は、メシアンマフィアがメシア連邦の同盟国であるナナロク共和国に向けて兵器級プルトニウム、つまりは核燃料を輸送するのに、利用されていると判明した。だから、飛行機が、誰も核燃料を回収しに来れない絶海の上を飛んでいるうちに、早いところ沈めてしまおうと言うわけだ。いやぁ、お前たちも、運が悪かったな。すまないが、俺の計画に付き合ってくれ」

 うん、なかなかの出来だ。

 それで、客室にも、伝えないとだな。

 マイクを拝借。

「えー、マイクテス、マイクテス。新人機長より、ご搭乗の皆様にご案内申し上げます。ディエット航空六四一〇便は、ざっくばらんに申し上げますと……ハイジャックされました。ハイジャック犯の目的は……敢えてお伝えしません。そんなことを、皆様が知ろうと知るまいと、どうせ海の藻屑もくずと成り果てるのですから。知らない方がいいことだってあります。ということで、その辺は、悪しからず。これより機体は急降下して、南の海のど真ん中に、突っ込みますので、直ちにご自席に戻り、シートベルトを着用の上、両手を握り合わせて神に祈りを捧げるか、十字架を切るか、念仏を唱えるか、人生の素敵な思い出に浸るか……なんでも良いので、とにかく何かしら手持ち無沙汰にならないようしてくださいませ」

 今のも、結構良かったんじゃあないか。

 ふと思ったのだが、世の中の凶悪犯たちは、こんなふうに御託ごたくを並べる時に、噛まないのだろうか。多分、どれだけ悪いことをしていても、噛みまくりだったら、被害者側も含めて、微妙な空気が漂うように思う。

 ああ、また残り少ない命を、しょうもない考えを巡らすのに費やしてしまった。

 そろそろこの世とお別れだ。

 俺は、操縦桿を、雑に蹴って、機体を傾ける。

 体勢を崩し、壁にもたれかかる。

 これで、世界は……

 

 平和になるのだ。

 

 ……。


 ……。


 いや。


 待てよ。


 今俺がもたれかかっている壁に埋め込まれている無色透明のランプ……


 マイクのスイッチのランプ、だよな?


 点灯して、いない。


 さっきの声、客室側に、流れていなかったのか!? 


 くそ……死ぬ直前に、とんだ恥をかいた。

 だが恥など気にしている場合ではない。

 傾きを増し、急降下し始める機体。

 警報音がウォンウォン鳴り出す。

 爆弾スイカが俺の手を離れ、硬い壁に打ち付けられる。


 爆散。


 赤い果肉と果汁が、グロテスクに溢れ出る。当然、スイカの最寄りの人間である、俺の方にも飛んでくる。くそっ! 全身スイカまみれだ。これじゃあ返り血を浴びたみたいじゃないか。それに、そう見えないとしても、ベトベトで不快だ。いや待て、ベトベトなのがどうしたって言うんだ。俺は、十中八九死ぬんだ。何か捕まるものは……あった! ここに折り畳み式補助席ジャンプシートが一つ、空いているじゃないか! って待てよ。俺はこの期に及んで生き残ろうとしているのか? 頭では、このまま勇敢な、諜報機関レエムのエリート捜査官として、殉職するつもりではいたが、体は、正直なようだ。気づけばもう…………ちゃっかりとシートベルトまで装着している。もういい、後は、なるようになるさ!


「うおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!!!!!」


〈第三話に続く〉

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