祝祭六日目の午後。海水と人魚。

 祝祭六日目の午後、私の部屋に一人の男が来た。


 頭にターバンを巻き付け、首から足首まである長袖を着用した、いかにも商いを生業にしている小綺麗な身なりの男だ。


「久しぶりだなキルク」


 ソファーに座り、膝に乗っているリーバを撫でながら、私は親しげに声をかける。


「お久しぶりでございます。ゼトス様」


 男の名はキルク・リブリゾ。


 礼節を重んじるこの男は年は二十と若くはあるが、豊富な資源を有するゼノン領でも多くの市場を束ねるおさの一人で、いわゆる大商人だ。


 灰色の髪と黄土色の瞳に洗練された物腰。深く一礼をして丁寧に挨拶を返すキルクは、確かに男の自分から見てもすこぶるいい男だ。


 それに合わさった落ち着いた雰囲気と、思慮深くも真理を突いた受け答えで言葉巧みに客を魅了するのは、さすがといってもいい。


 大抵の客は、会って早々この男からかすかに香る上品な大人の色気と魅力に落ちるのだ。言うなれば色男ということだ。


 といっても──幼なじみの私にそれは効かないがな。


 私とナイヤ、そしてキルクの三人は、昔ユグドラシルの祭典に両親が赴いた際に出会った。幼なじみ同士だ。


 出会った頃の私たちはまだほんの子供で、公爵の子息で私と同年のナイヤと、当時は大商人の息子で跡継ぎだったキルクは私とナイヤより三つ年上でまだ見習い商人だった。


 気位の高い貴族のなかでも気軽に付き合える彼らとは以来、頻繁に連絡を取り合う仲になったのだが……


「さっそくですが、ナイヤの件は聞いております」

「そうか。まったく、女好きのあいつが何をとち狂ったのか。それより、私は職人を呼んだはずだが商人のお前が来たということは、何か入り用があるのだろう?」

「おっしゃるとおりでございます」

「ではまず席に座ってくれ」

「失礼いたします」


 キルクは頷くと、私が座るソファーの対面に位置された、向かい合わせのソファーへ移動する。


 そこで私の丁度真正面に腰を下ろした。座り方も洗練されていて、綺麗だ。


「水晶球の修復ですが、結論から申し上げますと直ぐには難しい状況です。ご存知の通り、精霊力を媒介とする道具の修復には相応の材料が必要となりますが、残念ながらそのうちの一つが今は入手困難になっているのです」

「材料とは? 何が足りないんだ? こちらで教えてくれれば用意させよう」

「細々したものを抜かせば、主要となる材料は三つございます。一つ目は千年貝の虹を閉じ込めたと言われている『七色に輝く貝殻』を二個。二つ目は黄金の鱗を持つ深海の古代魚ゴールドフィッシュの『黄金の鱗』を五枚。そして三つ目はアクアマリンの宝珠『人魚の涙』を一粒でございます。その人魚の涙が不足しているのです」


 どれも総称「海の宝石」と呼ばれている最上級の鑑賞品であり材料だ。


「何故だ? いくら高価といっても人魚の涙なら今までは普通に流通していただろう。ゼノンの港近くにも時折現われるくらい近しい存在だし、むしろ一番手に入りやすいはずだ」

「それが……」


 続くキルクの答えに、私は目を瞬かせる。


「恋愛をしない人魚が増えている?」

「はい。人魚の涙とは、失恋に流す涙が硬化して神秘の力を宿すと言われています。けれど最近は繁殖期が訪れてもその……」

「何だ? 言いにくいことなのか?」

「最近の人魚たちは男に興味がないのだそうです」


 男に興味がないとは、それはいったいどういう状況なんだ? と首をひねる。


「ゼトス様もご存知の通り、人魚の繁殖相手は人間の男ですが、今回はそれが問題なのです」

「というと?」


 人魚を見たこともない内陸の国々で言われているのは、繁殖相手が魚人という話だ。魚の頭に上半身は人間の男、そして下半身は人魚の生き物など、ただの都市伝説にすぎないけれど何故かそう思われているらしい。


「最近の男たちはひ弱で頼りになく、だから繁殖相手に見えないのだとか」

「ああなるほど。それには私も覚えがある」


 草食系男子が増えて肉食系男子が減ったから興味が湧かないってことか。言われて、自分を鑑みる。見事なまでの草食系男子だ。


 まったく、覚えがあり過ぎて笑えないな。


 苦笑して、冗談めかして話しかける。


「では答えは簡単だな」

「簡単とは?」

「騎士団の人間なら条件にぴったりだろ。それかお前かナイヤなら確実だ」

「ゼトス様、冗談ではありませんよ」

「はは、悪い。でも実際、肉食系なら騎士団が一番適任だろう。それかお前なら相手がよりどりみどりなのは知っているぞ。ナイヤと同じく、よく女性から求婚を受けているそうじゃないか」

「そういった類いの話をそれ以上続けるようなら私は帰りますよ?」


 キルクはニコリとしながら述べるものの、珍しく怒っている。といっても少しだけだがさすがに今帰られては困る。


 キルクは物腰は柔らかいけれどその実、芯はとても強い男だ。私と違って一度やると言ったらやる。


「そうか、モテる男たちがこれほどいるのに残念だ。というのは本当に冗談だが。だって不思議じゃないか。イエルといい、ナイヤといい。それにお前まで、何故こうもいい男がフリーなんだ? ナイヤは色恋の噂がしょっちゅうたっているけれど、結婚する気配はない。お前もイエルも全くと言っていいほどそういう話を聞かないじゃないか。不思議に思うのも無理ないだろう」


 肩をすくめて言うと、キルクはその黄金にも見える黄土色の瞳をすがめた。 何かおかしなことでもいっただろうか?


「そのなかにご自身を除外して話をされるのはいかがなものかと」

「何故私がモテる男たちの集団に入るんだ?」


 思わずキョトンと言い返した後で、家柄目的の結婚が頭に浮かぶ。


「……そうか、家柄込みってことなら一応範疇はんちゅうには入るのか」


 ホルスト家が自由恋愛主義で本当に良かった。神妙な面持ちでつくづく考えていると、溜息が聞こえた。


「ゼトス様はご自分が周りにどう見られているのかを、あまりご理解されておられないようですね」


 咎める口調で溜息交じりに言われても気にしない。父親を亡くしたあの日から、私は自分がそんな上等な人間でないことをよくわかっているからだ。


 精霊の血を引く一族というバックボーンがなければ、こんな極上の人間と付き合うこともできないだろう。


「自己分析は案外に難しいぞ? それにしても失恋したときの涙となると……やりにくいな。誰か適当な相手をあてがって振らせるなんて人道的に反する行いはできないし。ところで人魚たちは普段どこで生活をしてるんだ?」


 まさかの恋愛事情とは、通算五十七回も振られている私には、想像していたよりもはるかに難しい問題だ。


「正確な位置はわかりませんが。基本的に人魚は繁殖期以外で陸に近づくことはありません。海辺にはいない。もっと沖の、深海の底で生活しているようですから」

「人間の領域から外れた場所となると、ますます困ったな」


 気を紛らわすように膝にいるリーバの頭を撫でようとして、頭のピンクリボンが取れかけているのに気づく。


 リボンを結びなおしている間、リーバが大きなアクビをした。小難しい話は飽きたらしい。


 床に下ろしてやると、楽しそうに辺りを走り回り、それから……体を横向きに床をコロコロ転がり始めた。


 いったいどこで覚えてきたのか。しかしリーバはこの遊びをいたく気に入っている。


 石材を加工して作られた床は常に清潔が保たれているものの。そんなふうにしたら体が埃だらけに! という使用人たちの嘆きが聞こえてくる光景だが、満面の笑みでひたすら転がっているのを見ると……自由に伸び伸びしている。楽しそうで何よりだ。


 とりあえず、後でブラッシングは確定だな。と心の内で苦笑する。


「その子が、ゼトス様に手を出そうとしたナイヤに鉄槌を下したと噂の犬ですか?」

「ああ、名前はリーバという」

「ところで犬というのはこのような動きをするのが普通なのでしょうか? 私は猫しか飼ったことがないもので」

「さあどうだろう? 私も犬を飼うのはこれが初めてだからな。でもこの子は異国の犬だし、ユグドラシエルの犬とはだいぶ違うような気はしている」


 部屋の端から端までコロコロ転がっているのをキルクと眺めがら、ふと思い出す。


「そういえば、以前、ナイヤを追い出すために異空間を川に繋げたのなら、今度は海に繋げることもできるんじゃないか?」

「ゼトス様? 何をなさる気ですか?」

「まあ見ていろ」


 コロコロ横向きに転がっているリーバが丁度真横に来たときに、頼み事をしてみた。


「リーバ、海に異空間を繋げて人魚を連れてきてくれないか? 何て言ってもできるわけないか」


 話しかけると、コロコロしながら笑顔で通り過ぎていった。


 だろうなと納得する。これこそまさしく冗談だ。人魚のいる海域に繋げてくれるなんて、そんな都合のいいことできるわけが──


 ドバァッ。


「え?」


 部屋の中いっぱいに、大量の海水が押し寄せてきた。





 海に繋げて大漁、いや大量の海水が押し寄せる事態を、いったい誰が想定しただろう。


 慌ててリーバを止めようとソファーから起立するも、あえなく海水に足を取られて私は転倒した。


 海水をもろに被ったところで、速やかに海水が引いていく。私が転んだとリーバが気づいたらしい。


 全身、顔もずぶ濡れで、口の中にはしょっぱい海水の味がする。


 口に手を当て目を瞑りながら、ゴホゴホと咳をして息を整えた。


 海水が完全に引いた床に仰向けの姿勢で、何とか額に張り付いている前髪を払う。


 目に海水が入らないよう閉じたまま、私は床に両肘をついて上半身を起こす。そこで体に違和感を覚えた。


 何だ? 腹の上に何か……


「──あなたは誰?」


 聞いたことのない、鈴を転がすような美しい声に、目を開く。


 私の体の上には、蒼色そうしょくの輝く鱗で覆われた下半身に、上半身は人間の美しい少年がいた。


 年は十五、六くらいだろうか。少年の腰まである青髪がチロチロと私の腹に触れて少しくすぐったい。


 淡く軽やかな色合いのエアリーブルーの青髪よりも深い紫紺しこんの瞳が、私を不思議そうに見下ろしている。


 ……誰かに押し倒されるのは、これで二度目だな。


 久しぶりに見た人魚はとても近くて、何やら刺激的な状況に、思わずクスッと笑って私は口を開く。


「初めまして人魚の王子様。私はゼトス・ホルスト。ゼノンの地を統治する男の弟だ」


 男の人魚は王族にしかいない。それ以外は全て女しか生まれないのだ。


 水浸しの部屋に、水浸しの私と人魚。呆然としているキルクに、そして……ずぶ濡れのリーバが床でコロコロと転がっている。


「皆、怪我はなさそうだな」


 やれやれ、使用人たちには、後で世話をかけたと謝らねばならないな。


 私は上にいる王子を見上げ、内心溜息を吐く。


 それとどうやらもう一つ、問題が増えたようだ。

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