祝祭七日目の早朝。客室での出来事。

 昨日の私たちが、あの後どうなったのかというと。


 押し寄せた海水で当然部屋は水浸し。


  人魚も一緒に部屋の中に流れてきただけでなく私の上に乗っかる事態に、普段冷静なキルクは元より、騒ぎを聞きつけやってきたイエルも目を丸くしていた。


 イエルは城の会議室で隊長たちと仕事をしていたらしい。


 海水に足を取られて転倒した私を目撃したリーバは、毛玉の外へ展開していた異空間を即座に閉じてくれた。


 けれど転んだ私がずぶ濡れになったのはもちろん、キルクも足元が相当に濡れていたし、せっかくの上等な衣装も細かなしぶきを浴びて台無しだ。


 リーバに至ってはふわふわの毛玉が濡れてボリュームがなくなり、体にペッタリと毛が張り付いて、まるでチキンの骨のようにほっそりとした外見に……。


 続いてイエルの後にやって来た、隊長たちのリーバを見たときの反応ときたら!


 イエルはそんなリーバの姿を、これまで何度も見ているので驚きはしなかったけれど。


 別の生き物のようなリーバの姿を見た、騎士団の華ともいうべき五隊長たちオウラにディオン、ラナンシーにクシナにサギリの反応が深い沈黙で。「誰?」と心の内が丸分かりだったのは、今でも思い出すだけで笑いが込み上げてくる。


 しかしそんな惨状も、イエルの指示によって早急に改善される。


 私たちは事情を話し終えると、全員もれなく風呂の準備と換えの服を用意され、すぐに部屋を追い出された。


 風邪が治ってきたところに、海水でずぶ濡れになった私の姿を見たオウルが発狂しかねない様子だったので、風呂から出た後は大事を取ってベッドで過ごすこととなり。


 キルクは身なりが整うと、人魚の涙を入手できるよう他につてを当たってみると約束して、仕事があるからと帰っていった。


 そして海水を被って地面にコロコロと転がっていたリーバはというと。


 まだ遊びたそうな顔をしていたが、用意された大きな風呂桶で使用人たちに全力で洗われることとなった。


 といっても、元々おしゃれが好きで自ら清潔になりにいくのが趣味のリーバにとって、風呂桶で洗われるのはご褒美のようなもの。


 使用人いわく、風呂桶を見た瞬間喜々として自ら入りに行き、そして洗われているときも満面の笑みだったという。楽しそうで何よりだ。


 お陰でリーバは元の丸い毛玉に戻ってふわふわだ。


 最後にリーバが海水と共に放出した人魚の王子様はというと。私が風呂に入っている間に迎えの人魚たちがやって来て、その日のうちに海へと帰っていったそうだ。


 風呂から出て落ち着いたら、私は改めて人魚の王子様へ二重三重に謝罪をするつもりでいた。


 私の代わりにイエルが保護者兼城主として謝罪したそうだが、何ともすっきりしない。


 それも実はこの王子様、家出していたらしく海底中を捜索されていたそうで、王様直々の迎えだったらしい。逆によく見つけてくれたと感謝されたそうだ。


 色々やらかしたのはこちらなのに、釈然としない別れ方をしたのは心残りだが、物事の全てがきっちり白黒つけられるわけじゃない。


 それにしても……あの時、リーバを見た隊長たちの顔は忘れられない思い出になったな。


 思い悩むのを止めるように努力していると、チキンの骨のようになったリーバを見て固まる、五隊長たちの姿がポンッと頭に浮かんだ。


 そうして昨晩は、思い出し笑いでクックックと腹を抱えてこらえながら、ふわふわになったリーバを抱えて床についた。


 だから王子様とはそれきりになるものだとばかり私は思っていた。──が、そうして帰っていった人魚の王子様は、翌日、お供の者を連れてやって来た。





 祝祭七日目の早朝。


 私は城にある客室のなかでも一際豪奢な作りの部屋にいた。


「昨日は大変失礼いたしました。人魚の王子様」


 イエルは騎士団の仕事で城を不在にしている。


 私は先日会ったキルクのときのように、人魚の王子とテーブルを挟んで向かい合わせにソファーに座っていた。


 陸に上がると人魚は下半身が人間と同じ足に変化する。知ってはいたけれど、それを実際に見たのは初めてだった。


 姿形は人間だが、着ている服は少し変わっている。角度によって美しい光沢を帯びて輝く布地は、人の世界には流通していないものだ。


 さらに海の生き物の特徴を細部に取り入れたような細工が施されており、上品でありながら華やかな印象を与える。


 おそらくこれが人魚の間では王族貴族が一般的に着用する衣服なのだろう。腰まである淡く軽やかな色合いのエアリーブルーの青髪と、紫紺しこんの瞳によく合っている。


 向かい合わせにソファーに座ったときから観察しているなど、もちろんおくびにも出さないが。


 人魚の王子はすこぶる美しい少年だ。煌びやかな貴族社会でも、これほど美しい者は滅多に見ない。そんな相手を前に、何も感じないのは無理な話だ。


 といっても、私を抜かしてゼノン領には何故か美しい者ばかりが集まってくるようだが……。


 互いに相手の様子見のような状態が続いて、やがて人魚の王子が口を開く。


「ゼトス様とおっしゃいましたね。私の方はまだ名乗っておらず、大変失礼いたしました。私の名前は……」

「名はオルウェン。歳は十五。人魚の帝国スカビナの第一王子で、父親は海底の帝王オラクル・スカビナ・スティルウォーター」


 さらさらと知っていることを述べる。


 人魚の王族が陸に近づくことは滅多にない。まして男の人魚を見たことがある者など、ここ数十年、皆無に等しい。


 男の人魚は王族にしかいないが、それでもやはり男は滅多に生まれない。王族もほとんどが女ばかりだと聞く。


 風呂上がりにイエルから家出中の王子だと聞いてはいたが、互いに形式的なやり取りのみで簡易的にすませ、そこまで深くは名乗り合わなかったという。


 警戒するのも当然で、異種族間の外交にも絡んでくる事態だ。互いに手の内を明かすような真似はしないに限る。


 けれど何となく勘が働いて、私は詳しい素性を昨日のうちにオウルに調べさせておいたのだ。


「人間は人魚の世界にはあまり精通していないと聞いていたのですが」

「ええまあ、男の人魚を見るのは初めてだったものですから。素性を調べるのは必要と判断しました。不快に思われたなら申し訳ございません」

「いいえ、領地を統べる弟君として、それは正しい判断でしょう」


 オルウェンは私より二つ年下だが、しっかりしていて大人びている。


 背丈は私より少し高く、体格も海でいつも泳いでいるだけに、しなやかな筋肉質がついていて頼もしさを感じる。というのは全部、昨日上に乗られた時に感じたことだ。


 昨日のオルウェンは、いきなり陸に放出されたのに全く取り乱さなかった。


 むしろ状況を把握するため、辺りを淡々と観察していて常に冷静で、おそらくとても利発な人だ。


 ……少し、物静かなところがイエルに似ている気がする。


「それで、王子様。今日はいったいどのような用件でいらしたのでしょうか? もし昨日の件で何か気になる点がございましたら、お申し付けいただければ可能な限り対応いたします」


 言ってはみたものの、昨日イエルは謝罪の気持ちで贈り物も用意させたけれど至極丁寧に断られたと聞いた。謝罪が目的ではないだろう。


 護衛を二人連れているし、今回は家出してきたわけではなさそうだが……。


「昨日ゼトス様はご自分の不注意で、その犬に間違った指示をしたためと説明されました」

「はい、あなたを連れてきたのはこの子ですが、そうするよう頼んだのは私です。責任は私にある。その説明に間違いはありません」


 客室に来るとき、リーバもちょこちょことした足取りでついてきてきたので、そのまま同席させた。


 おかしな遺恨を残すより、昨日の当事者を同席させた方が、誤解もときやすい。


 同席しているリーバは、今は私の膝上でキリッとお座りしている。綺麗な客人の前では、格好つけたいらしい。


「しかしただの勘違いで不必要に人魚を呼び寄せるとは思えないのです」


 昨日事の経緯を話したときに、そこは説明を省いたはずが、察しの良い王子様だ。


「確かに。私には人魚が必要です。大切にしている水晶球を割ってしまったその修復に『人魚の涙』が必要なのですが、近年の市場では枯渇していて、なかなか手に入らないと言われたもので」

「それで人魚を探していたのですね」

「ええ」

「何故、昨日はそうお話にならなかったのですか?」

「それでは不意打ちで頼み事をするようなもの。フェアではないでしょう」

「だから説明を省いたと?」

「はい」


 水晶球の修復に人魚の涙が必要だったが、あれだけの事態を起こした手前、くださいとはさすがに図々しいが過ぎる。


 引き続きキルクに人魚の涙は依頼しつつ、手に入らないのを想定して何か別の手はないかと考えていたところだった。


「王子様はそれを確かめるためにわざわざいらしたのですか?」

「はい、せっかくの機会ですから少しお話がしたかったのもあります。それと……」


 オルウェンが後方に控えている人魚の護衛に片手を上げて合図を送った。


 護衛の人魚が小箱を手に取り、ソファーに座っている私の横に来た。持っているのは指輪を入れるサイズくらいの小さな箱だ。


「これをお渡ししようと思ってきました」


 オルウェンの言葉と同時に、護衛の人魚はその場に立て膝をつくと、小箱の蓋を開ける。中に入っていたのは、真珠のように丸く神秘的な輝きを放つ、鮮やかなブルーのアクアマリンの宝珠「人魚の涙」だった。


「これは……」

「必要と思いましたので」


 人魚の涙が不足しているのを加味し、そこまで察していたとは。内心舌を巻く。


「お気持ちはありがたいのですが、今回の件はこちらがご迷惑をかけた立場です。その上、何の理由もなくこんな高価なものをいただくわけにはいきません。それは愚か者のすることです」


 すると、気を悪くしたでもなくオルウェンは「なるほど」と頷き、続けて考えるように言う。


「それはもっともですね。では、今回のおわびも兼ねて、城下町をゼトス様に案内していただくというのはどうでしょうか? 以前より私は一度、人間の世界を見てみたいと思っていました。もちろん、軽い散歩程度で結構です。そしてこれは、この地を統べる領主の弟君に、無理を聞いてもらったそのお礼というのではいかがですか?」


 やれやれ。なかなかに手強い方のようだ。


 海底の帝王の息子にここまで気を遣ってもらって、これ以上、好意を無下にするのはさすがに得策ではない。


 私は一呼吸置いてからオルウェンの提案を呑むことにした。


「わかりました。ですが、お受けする前に二つ確認させてください」

「何でしょう?」


 私の膝上でキリッとお座りしているリーバに視線を落とす。


「この子の名前はリーバといいます。ただの犬ではなく、私にとってリーバは大切な家族です。そして散歩にはこの子がもれなくついてくると思いますが……」


 私が門番にリーバの外出を自由にさせるよう伝えるまでは、この子は城壁を自力でよじ登って山へ川遊びに行っていた。


 こんな小さくて丸い、ふわふわの体のどこにそんな筋肉が? と驚くほど逞しい子だ。置いていっても必ず追いかけてくるだろう。


 名前を呼ばれてリーバが、キャン! と元気よく返事する。お口を開けて笑顔全開だ。それまで淡々とした様子のオルウェンが、華のようにクスリと小さく笑った。


「問題ありません。私にとっても、その子は初めて陸に招いてくれた特別な子ですから」


 確かに、海水ごとの豪快なやり方ではあったが、人魚はリーバが城に招いた客だ。


 オルウェンは私の言葉を汲んで即座に、そして好意的に対応した。年若いのに根気強く粘り強い。


 ああ、やはり利発な人だなと私は内心苦笑する。


 それからもう一つの確認事項を私が話すと、一旦、オルウェンは海へと帰っていった。





 オルウェンと散歩の話をした日の夜。私はイエルの部屋を訪れていた。


 コンコンコン。


 ノックをして、ドアを少し開ける。


「入るよ?」と一言断りを入れたら、「どうぞ」と短い返事が返ってきた。


 最近イエルが徹夜続きなのは、オウルから聞いて知っている。城に帰ってきたのも一時間ほど前だ。


 領主として精霊祭の予行演習で祝祭を仕切っている以外にも、騎士団の仕事も抱えているのだから無理もない。


 ──その上、こんな手のかかる弟がいたんじゃな。


 普通、ぼやきたくもなるところなんだが……


 ここ数年、イエルの部屋には近づきもしなかった。それが祝祭一日目の夜にこの部屋を訪れてから連続となると、


 あー、もやもやする。


 いったいどう思われるんだか。だから人と関わるのは苦手だ。


 足取りを重くして入室する。


 しかし机に向かって仕事をしてると思っていたイエルは、仕事の手を休め、こちらを見ていた。入ってくるのを待っていたらしい。


 イエルが座る机の前まで行く。


 窓辺の星明かりと、燭台の灯りに照らされた机の上は、書類で山積みだ。


 そこに湯気立つ紅茶の入ったカップが置かれている。少し前に、誰か淹れにきたらしい。


「お前から来るのが二度も続くとは、珍しいこともあるものだな」

「まあね。それよりまだ仕事してたんだ」


 どんな場面でも話しかけるきっかけは必要だし、徹夜のことなど知らぬ振りをするのは悪い手じゃない。


 今の家族の形を壊さないよう、一線を超えた感情など、もう抱いていないと無関心に見せるのも大切だ。


「オウルから今日何があったかある程度は聞いてると思うけど……」


 それから全部正直に話したけど、イエルは特に変わりなしだ。いつも通りの動じなさでかえって安心する。


「熱を出して寝込んでいると思ったら、水晶球を割って怪我をして、その次は人魚か」


 これがオルウェンに話したもう一つの確認事項──イエルに人魚の王子様との外出の許可を取ること。


 それにしても……薄茶色い燭台の灯りに照らされた、仄暗い部屋で席につき、顎の前で手を組んだイエルは特に迫力がある。といってもこれで通常通りだ。


「そうだよ? お礼に『人魚の涙』ももらえるし。だから明日、人魚の王子様と城下町へお散歩しにいきたいんだけど」

「リーバを連れてか?」


 イエルにはリーバの行動も想定の範囲内らしい。


「もちろん。他に何を散歩させると思ってるんだよ」

「他に散歩できる犬がいるなら、それも連れていけ。年中部屋にこもってるお前には、いい気晴らしになるだろう。わかっているとは思うが、こちらは外交として扱い、護衛はつける。それでもいいなら好きにしろ」


 イエルはあくまで領主としての判断を伝えているのだ。


 人魚の王族との交流が友好的なものとなれば、沿岸部に位置するゼノンの今後の貿易にも優位に働く可能性が高い。何にしても仲良くしておいて損はない相手だ。


「ああ、それで十分だ。礼を言う。それと、許可を出してくれるのはありがたいし、感謝してるけど。城にはリーバの他に犬は一匹もいないのとか、全部知ってるだろ?」


 使用人どころか、馬の数から城に出入りしている業者まで全て把握してるのにと悪態をつくと、イエルは少し表情を和らげた。


「ところで、人魚への連絡はどうやってつけるつもりだ?」

「それなら王子様が連絡役を置いていったから平気だよ」

「連絡役?」

「猫。今は水浸しになった私の部屋が乾くまで使えないから、代わりに使ってる隣室のベッドの上でお座りしてる」


 ちなみに部屋が完全に乾くまで、おそらく三、四日。かかっても一週間くらいで自室には戻れるだろう。


「お座り? 猫が?」


 オルウェンが置いていった。陸に上がると猫になり、海に入ると妖精の姿に戻る。海の妖精──ウミネコ。


 名前はラナ。猫なのに姿勢が良く、お座りしているときも背筋がピンとしている。かなりの美猫で、性格はクールだ。


 強い黄色味のある琥珀色の目をした、黒豹のような印象の大人の黒猫。大きさは子犬のリーバの三倍近くある。ちょうど、大型犬と小型犬のようなサイズ感だ。


 ラナは、ここに来る前もベッドの上に姿勢良くお座りしていた。


 その回りを、リーバが新しい家族ができたと思って、嬉しそうにポンポン跳ねているのに微動だにせず。姿勢良くじっとしていた。


 リーバは生後半年のまだまだ赤ちゃんで、ラナは年齢不詳だけれど正体は妖精だ。そしてつい最近、ラナは子供を亡くしたらしい。


 感情の温度差はあるものの、リーバは仲良くしたそうだったしラナは落ち着いていたから、そのまま一緒に置いてきたのだ。


 イエルの許可が出たら、ラナに真珠を渡すことになっている。それをオルウェンに届けてくれるのが、ラナの役目だ。


「猫は猫でも海の妖精だよ。あと、この仮はそのうち返すから」


 じゃあな。と背中を向けて部屋を出ていこうとしたところで、話しかけられる。


「ゼトス、ヘマはするなよ?」


 振り返るとイエルは羽根ペンを持って仕事を再開していた。「わかってるよ」と簡易的な返答で会話を終える。


 それから部屋に戻ると、私は出てきたときと同じ位置でお座りしているラナに真珠を渡す。


 リーバはラナの尻尾にじゃれるような格好で寝ていて、すっかり懐いたようだった。



 

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