前夜祭~過去の出来事~

 昔からずっと、イエルはぶっきらぼうだが私には優しくて、芯の通った心を持つ物静かな青年だった。


 大人になった今も彼の根底は変わらず。そして平凡な私と違い、羨むほどに強く美しい。


 私の母アーダと、当時ゼノンの領主でありラシエル家の当主でもあったイエルの父、ラキスが再婚したのは、私が十歳でイエルが十五歳のときだ。


 イエルと私はどちらも片親を亡くした者同士、年は離れているが兄弟として育った。


 しかし、そうしてイエルの父親と私の母親が再婚する前の幼い頃の私が、実は全く逆の性質をしていたのは、誰もが驚く事実である。


 幼い頃の私はとにかくやんちゃで、色んなものに興味を持っていた。


 その中の一つが屋敷を抜け出すことだ。


 時折こっそり民の暮らしを覗き見る。


 ホルスト家は大切にされすぎて、何が相手の本心なのか見えないのに不満を抱いていた当時の私は、お忍びで出かける自由な世界で普通に人々と接するのに好感を覚えた。


 それもあえなく両親にバレて、私は当然お叱りを受けたし、父は許しはしなかった。けれど私が町へお忍びで出かけるのを止めることはなく。


 そうして言うことを聞かずに町に出た私を探しに来た父と喧嘩をして、衝動的に道端に飛び出したとき──偶然前を通りかかった馬車に危うくかれるところを、父が私を庇って亡くなった。私が八歳のときだ。


 私が我儘を言って、町に行きたがらなければ、父は亡くならなかった。


 私は母の大切な人を死なせてしまった。だから私は、自分の幸せな将来や結婚にはあまり関心がない。


 それからだ。私が屋敷の中に引きこもるようになったのは。


 町に出ることは一切なくなり、外の世界にも全く興味を示さず。人ともあまり話さなくなった。


 関わることすら、わずらわしく感じていた。


 しかしそんな無気力な私が唯一外の世界と繋がるきっかけを作ってくれたのが、後に義兄となるイエルだった。


 母の連れ子としてイエルと出会った当時の私は、二年前の父の事故を引きずっており、かなり根暗だった。


 そんな私にイエルは無理強いせず、自然と寄り添うようにして、たくさんのものを見せてくれた。


 馬術も教えてくれたし、地図の読み方も教えてくれた。広い世界があることを、イエルは私に見せてくれた。


 さらにイエルは、己を兄ではなく名前で呼べと言う。何故かと聞いたら「その方が呼びやすいだろう?」と彼は答えたのだ。


 後になって思った。


 自身を名前で呼ばせることで、イエルは引きこもっていた私の狭い世界に風穴を開け、親近感を抱かせることで、私の世界に入り込んだのだと。


 しかしそうと気づいたときには後の祭りだった。


 それは実際、絶大な効果があり、私は見事にイエルを自分の世界の一部として認識した。実に巧妙なやり口だ。──が、それ以上に、私がイエルを好きになってしまったのは、彼も想定外だっただろう。





 それからさらに時は流れ、イエルが十八歳の成人を迎える日の前日へと移り変わる。


 イエルの成人を控えた前夜祭の夜。当時十三歳の私の、これが通算五十七回目となる最後の告白だった。


『イエル、私はあなたが好きです』

『これを言うのは五十七回目だが、お前は俺の弟だ。それ以上でも以下でもない』


 座り慣れた稽古場の簡素な椅子にイエルは腰掛け、短剣の手入れをしながら、彼の前に佇む私を見もせずに、ぶっきらぼうに答える。


 イエルも告白を数えていたらしい。意外と細かい面にも気を向けているようだ。


 イエルにこっぴどく振られたというのは、いつもこんな調子で毎回毎回会う度告白していたら、オオカミ少年のようにやがて相手にされなくなっただけ。というのが実は真相だった。


 そしてこれが私にとってのいい節目にもなる。


 十三歳の少年らしく無知ゆえに人目もはばからず告白して玉砕した。一心に慕っていたといえば聞こえはそこまで悪くないけれど、やり過ぎたし、今思えば好きでもない相手に迫られたら……。


 うっ、気持ち悪いな。


 こんな義弟を持ったイエルに同情したいくらいだ。悲観する権利は、私にはない。


 だから振られるのは当然だし、猛省している。


 お陰で今は人との距離感や加減はきっちり覚えた。


 この頃のイエルは、まだ青年とはいえ体つきはだいぶ出来上がっていたし、元より骨格が普通の人間よりもがっしりとしているせいか、二の腕も太く、全体に肉感的で体の前後に厚みがある。


 もう正式な騎士団の団員に引けを取らない体格をしていた。女のように細っこい私とは大違いだ。


 ちなみに先ほど告白していたこの時の私は、まだ諦めていなかったので、会話に少し続きがある。


『これが最後です。ですからちゃんと確認させてください。私は対象外だとおっしゃるのですね?』

『くどいぞ。お遊びなら他でやれ。俺は忙しい』


 話している間も、イエルは柔らかく乾いた布で短剣を丁寧に拭き上げている。


『騎士団に入隊するというのは本当ですか?』

『そうだ。だから俺は暫く戻らない。その間あまり無謀な真似はするなよ? すぐには駆けつけてやれないからな』

『…………』


 引きこもり体質で外との繋がりなどない私に、なんの心配をする必要がある?


 意味のない心配をかけられても、虚しいだけだ。返事をする理由がなかった。


 話は終わったとその場を去ろうときびすを返した私に、すると後方から声がかかった。


『おい、俺がいない間はミスるなよ?』


 振り返ると、砥石の置かれたサイドテーブルに布を置いたイエルが、こちらをエメラルドグリーンの瞳で眼差まなざしていた。


 何も起こるはずがないのに、念を押された。けれど暫く戻らないという人間との間に禍根を残して別れるのは心臓に悪い。


 返事をするだけならタダだし、『かしこまりました』と言って淡々と返すと、イエルは短剣に再び視線を戻して、私もそれ以上はその場に留まらなかった。


 ──そして、本当にイエルは暫く城に帰らなかった。


 ようやく城に帰ってきた後も、イエルは一層外の世界で過ごす機会が増えて、またほとんど城にはいない時期が続いた。


 成人してデビュタントパーティーに参加すると、交友関係が一気に花開く。世界が広がり、城の中だけの生活では物足りなくなるのが普通だ。


 だから城に居着かなくなったのも普通のことなのだろう。


 イエルは別の世界に居場所を持っている。そう思い知った私が、イエルは自分には手の届かない存在だとちゃんと認識するくらいまで、彼は帰ってこなかった。


 つまりはしつこい弟から離れたかったのと、自立を促す意図もあったのだろう。


 常に安全圏にいて、処世術にうとい私とは正反対の義兄だ。イエルは常に危険地帯にいて、処世術にもけている。


 生っちょろい世界にいる弟は、正直、イエルにとって足手まといだ。


 配下を引き連れ、戦闘の最前線に立つ姿には微塵の恐怖もなく。敵を撃退し戦いを挑むその生き様に一度でも触れたなら、誰もが憧れと尊敬を抱く極上の男となり。


 今では本当に、とても手が届かない存在になってしまった。


 戦士特有の鋭い眼差しにひとたびさらされれば、誰もが単純な恐ろしさよりも先に圧倒されて言葉を失う。


 二言三言話すまでもなく、好戦的な男だと一目でわかる、内からにじみ出る威圧感。


 イエルは屈強な騎士たちのなかでも頭一つ飛び抜けていた。


 それもそのはず。イエルは現在二十二歳になるが、多くの功績を上げた褒美として、ユグドラシエルの広大な領土の中でも多くを締めるここ南の地ゼノンを、二年前に父親のラキスより譲り受けた。


 わずか二十歳で領主となり、以来、イエルはこの地を守ってきた。他の者たちとは経験の歴が違うのだ。


 そんな男が時折私を見る目もまた、ただただ優しかったものから、徐々に貫禄を帯びていった。


 イエルが戦いの地に赴くときのあの目。血がたぎり、飢えた獣の目をしている。あれは、野生の肉食獣の目だ。


 イエルは今でこそ、遠征に出るとき以外はちゃんと定期的に城へ戻ってはいる。


 けれどイエルがようやく定期的に戻ってくるようになった頃には、私ももう、遠征からの出迎えと見送り以外関わることはしなくなった。


 一歩下がって距離を取り、ちゃんと弟として振る舞っている。


 イエルが私を振ったのは、本当に弟以外に見えないからという理由なのか、それとも私が男だからか。


 ……はぁ、困ったことに振られた理由ならいくらでも思いつくな。


 ひとえに私が精霊の血を引いているからこそ、こんな私でも同格に扱ってもらえるのであって、一般的な貴族であったなら、相手にすらされていないだろうことは、重々承知している。


 子供を産めるといっても男というと、引く人間は多いだろう。それに弟だとか男だからとか以前に、告白を繰り返していた頃の私が幼すぎて、相手にしなかったイエルは正しい。


 だから振られた私も納得している。むしろあのときの幼い私にイエルが手を出していたら、その方が問題だ。


 けれど振られたといっても、兄弟仲が深刻化したわけではない。


 イエルは懐が深かった。


 城の中で顔を合わせる機会が減ったとはいえ、話すときは以前と変わらず、仲の良かった頃のままのようにイエルは気軽に話をする。


 だから尚更、当時はあれだけ素直に愛の告白をしていたのに、私はイエルと接するのが苦手になり、やがて小生意気な口を利くようになっていった。


 諦めたとはいえ、ただの普通の兄弟として過ごすのは、私にはキツかったのだ。


 しょせん、精霊を信仰するユグドラシエルの民であるイエルももれなく、私自身ではなくホルスト家を大事にする側なのだと心中で悪態をつくようになり、


 そうして遠征からの出迎えと見送りのときにしか、私は姿を現さなくなったのだ。


 そんな私の変わりようを、イエルは最初驚いたように見ていたが、やがて呑み込んだ。

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