三十三 雪の尾行 刺客

 ひと月後の月命日。

 神無月(十月)八日。快晴の昼四ツ(午前十時)。

 雪は円満寺の墓地で両親の墓前で手を合わせた。その折、己に注がれる視線に気づき、本堂の南廂にいる布佐に気づいた。布佐は雪を見てゆっくり御辞儀し、己の左の耳の後ろを示して小さく、鶴が舞う仕草をした。

 白粉で隠し、鬢に隠れてわかりにくいが、雪の左の耳の後ろには、鶴が舞いあがるような赤い痣がある。今、この痣を知るのは、雪の妹の多美と上女中の沙希、そして、生みの親だけである。

 雪の目に涙が溢れた。そして、夜盗に両親を殺害された折に感じた違和感と、これまで感じていた違和感が全て消えた。私は大黒屋清兵衛夫婦の娘ではない・・・。実の母が目の前に居る・・・。そして、妹の多美も大黒屋清兵衛夫婦の娘ではない・・・。


 布佐が雪に向かって何か呟いた。二人の間は離れて声は聞こえない。

 雪は布佐の唇を読んだ。布佐は『危険だから、訪ねて来ぬように』と言っているらしかったが、その逆に『気をつけて、訪ねてきなさい』と言っているようにも見えた。

 雪は『よくわからない』と呟いた。

 布佐は納得したように御辞儀し、円満寺から門へ歩いた。門には丈庵住職がいた。丈庵住職は布佐を連れて門を出ていった。

 雪は丈庵住職と布佐の跡をつけた。


 門の外には、若いモンが居た。布佐を見てほほえみ、若いモンは布佐と共に丈庵住職に御辞儀してその場を去った。丈庵住職はそそくさと円満寺の庫裡に入り、雪と顔を合わせぬようにしていた。

 雪は丈庵住職の思いを察した。あの若いモンは藤堂様が話した私の兄の芳太郎だ。丈庵住職は何も話さず、私に兄を見せたのだ・・・。

 またまた、雪の目に涙が溢れた。雪は寺に向かって深々と御辞儀した。そして、顔を上げた雪の顔に生気が溢れていた。



 そのひと月後の月命日。

 霜月(十一月)八日。小春日和の朝五ツ半(午前九時)。

 雪は円満寺の墓地を墓参するため、早めに大黒屋を出て安針町の布佐の家へ向かった。布佐は母だ。また、円満寺に来るはずだ・・・。

 雪の心は小躍りしていたが、御上に匿われている多美が気になった。多美は黒川屋安兵衛の娘なだ。近いうちに藤堂様に会って確かめよう・・・。そう思いながら、雪は日本橋米沢町の国問屋大黒屋から通旅篭町、大伝馬町へ歩き、南に折れて安針町へ歩いた。



 安針町に着くと、布佐とあの若いモンが安針町から室町三丁目方向へ歩いていた。四半時も歩けば、神田湯島の円満寺に着く。

 二人は円満寺へ行くんだ。私に会うつもりだなんだ・・・。

 心を小躍りさせたまま、雪は二人の半町(約55メートル)ほど跡をつけた。


 布佐と若いモンは室町通りを北へ進み、筋違橋御門を潜り、筋違橋南詰めから筋違橋を北へ歩いた。その時、北詰から、懐手の無頼漢二人が酔漢のようにフラフラ歩いてきた。


 雪は筋違橋の南詰めに佇み、布佐と若いモンの後ろ姿の向こうに、北詰から歩いてくる無頼漢二人を見た。無頼漢二人の視線は、その足取りと異なり、ピタリと若いモンに向けられている。

 その時、南詰めに佇むを雪の背後から、懐手の無頼漢二人が小走りに筋違橋へ歩いた。

 とっさに思いつき、雪はよろめいた。無頼漢たちの前に倒れこんで脚を踏んばり、転ばぬ振りをした。雪をよけきれず、無頼漢二人は雪にぶち当たり、雪もろともその場に転げた。懐手はそのままだった。


 若い娘が無頼漢に突き飛ばされたとあって、南詰めは騒然となった。雪の周りに駆け寄った者たちが、倒れている雪を抱え起こした。

 これで、こっちの状況に気づいてくれると良いのだが・・・。

 雪は、抱え起こしてくれた人たちに礼を言いながら御辞儀し、小袖の裾の汚れを払いもせずに、筋違橋を歩いている布佐と若いモンを見た。


 南詰めの騒動を聞きつけ、布佐が筋違橋の上で振り返った。

 筋違橋の上で、布佐がこっちを見ている。雪は安堵した。


 雪を突き飛ばした無頼漢二人は、チッと舌打ちして立ちあがり、小走りに筋違橋へ歩いて筋違橋を渡り始めた。それまでの小走りの足取りは、フラフラしたゆっくりな足取りに変わったが、懐手はそのままで、視線はぴたりと若いモンに向けられている。



 筋違橋で振り返った布佐に、南詰めから筋違橋へフラフラ歩いてくる二人の無頼漢が見えた。懐手の二人の狙いは若いモンと布佐なのは明らかだ。無頼漢の背後の南詰めに、通行人たちに抱え起こされた雪がいる。

 布佐は、雪が騒動を起こして知らせてくれたと気づき、雪を見て大きく頷くと心の中で雪に礼を述べ、若いモンの袂を引いた。

 若いモンは南詰めから歩いてくる無頼漢二人を一瞥すると、前方の、北詰から歩いてくる無頼漢を見たまま布佐に頷き、布佐の傍に寄った。


 筋違橋の北詰と南詰めから無頼漢四人が若いモンと布佐に駆け寄った。若いモンと布佐を囲み、懐から匕首を出して鞘を抜き、鞘をその場に投げ捨てた。

 無頼漢たちは死ぬ気で若いモンを始末する気だ。無頼漢は四人、多勢に無勢だ。これでは無頼漢を討てない・・・。布佐はそう思ったが、若いモンはおちついている。


「殺っちまえっ」

 無頼漢たちが若いモンに襲いかかった。その瞬間、若いモンがヒラリと筋違橋の欄干に飛び乗った、と思うと、直ちに背後にトンボを切り、襲いかかった二人の頭を足蹴にして着地した。無頼漢二人はその場に倒れた。

 残りの無頼漢二人が呆気に取られたその一瞬、周りを取り囲んでいる野次馬が二人を背後から足払いした。無頼漢は足元をすくわれて倒れ、したたかに腰と肩を打って動けなくなった。足払いしたのは、町人に扮して二人の跡をつけて野次馬に紛れていた、与力の藤堂八郎と同心岡野智永だった。


 若いモンと無頼漢を取り囲んだ野次馬が、懐から捕縛縄を取り出して無頼漢を後ろ手に縛り上げて縄の先を首に回し、縛り上げた後ろ手を、首に回した縄で締め上げた。腕を動かせば首が絞まる。無頼漢たちは動けずにいた。野次馬たちは、町人に扮した同心野村一太郎と同心松原源太郎とその手下たち町方だった。


 筋違橋の南詰めで、雪は無頼漢が捕縛される一部始終を見ていた。無頼漢が捕縛されると、雪は、町方が筋違橋の南詰めから北町奉行所に戻る前に、筋違橋の南詰めから筋違橋御門を出て、神田川沿いに東の方角、浅草御門へ歩き、米沢町の国問屋大黒屋へと急いだ。二人は私の母と兄だ。まちがいない・・・。

 雪の目に涙が溢れた。

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