三十二 丈庵住職
翌月。
長月(九月)八日、昼四ツ半(午前十一時)。
両親の月命日は雨だった。雪は神田湯島の円満寺で両親の墓前で手を合わせ、妹の多美を思った。藤堂様の話から、多美は黒川屋安兵衛の娘だ・・・。夜盗が入った折、おっとりした多美の性格を思えばわかることなのに、寝所にいなかった多美を不審に思ったあたしを許しておくれ・・・。
墓参を済ませた雪は円満寺の庫裡に上がり、
「丈庵様。何かとお世話になりながら、月命日の墓参の折に御挨拶するだけの失礼をお許しください。先月、大黒屋の身代を継いだ襲名披露の折に、これまでの御礼を申し上げたかったのですが、何かと商いの取り引き先との挨拶がありまして、今日まで御挨拶が伸びてしまいました・・・」
日頃の非礼を詫びながら、真の思いを語れずにいた。
「何も気になさいますな。雪さんは襲名披露の折に、取り引き先の商人たちと私に御挨拶して下さった。それで充分ですよ」
襲名披露の宴に丈庵住職も招かれて列席した。雪の眼差しや態度から、丈庵住職は、雪が何を思い、今後、何をしようとしているか、薄々察した。
しかし、町医者竹原松月共々丈庵住職は、御上から、『寝首かき一味』を捕縛するために布佐の事は他言してはならぬ、と命じられている。
料亭兼布佐の夜盗といい、黒川屋の申し立てといい、大黒屋の夜盗といい、何としても事実を語ってやりたい、なんとかできぬものか・・・。
丈庵住職は、雪に己の思いを伝えられぬもどかしさを歯痒く思ったが、はたと思いついた。利発なこの娘なら、儂の考えを理解するだろう・・・。
丈庵住職は話を進めるにつれて、声色を甲高く変えて話した。
「商いは如何ですか。御店で変わった事は有りませぬかえ。
もし、何か有れば、逐一、藤堂様に知らせるのですよ。
決して危険な事はなさいませぬように。
来たるべき日に備えて、注意するのですよ」
「では、丈庵様も・・・」
『では、丈庵様も御上の指示で、今後、何が起るのか御存じなのですね』
と尋ねようとして、雪は異変に気づいた。
丈庵住職の話し方が妙だ・・・。この話し方と声色は・・・。
「私は、あなた様の身を案じておりまする」
丈庵住職の語りはよりいっそう甲高く、そして女言葉になっている。まるで、歌舞伎の女形のようだ・・・。ああっ、そうかっ・・・。
雪は気づいた。丈庵住職は料亭兼布佐の女将、布佐さんの気持ちを語っている・・・。
雪の目に涙が溢れた。
「次の月命日、ここに参ります故、遠くから、顔を眺めるだけになさいませ。
くれぐれも、藤堂様の言い付けを守るのですよ・・・」
「はい、皆様の命がかかっているのですね」
「はい、命がけにございまする・・・」
「わかりました。必ず言いつけを守ります」
雪は涙ながらに納得した。
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