三十 与力の藤堂八郎
葉月(八月)の商いの締めが終わり、長月(九月)に向けた商いが始まった。
相変らず与力の藤堂八郎が大黒屋に顔を見せて、雪に、夜盗探索は進んでいる、と囁くだけで、多美に関して何も言わずにいた。いずれ、藤堂様に会わねばならぬと雪は思っていた。
葉月(八月)二十五日。昼四ツ(午前十時)。
「松前屋さん。長月(九月)分の干物の他に、必要な品がありますか」
雪は乾物屋の
「他にはございません。毎月、ありがとうございます」
大黒屋の店先で、松前屋庄三郎は取り引き証文を巾着袋に入れて、出されたお盆のお茶を手に取った。
「ところで、巷で『寝首かき一味』の噂を耳にします。大店の商家では、そろそろ一味が出没するのではないかと用心棒を傭うなど、噂が持ちきりです。私どもも、手練れの者を傭いました。大黒屋さんもお気をつけくださいまし」
松前屋庄三郎は大黒屋清兵衛夫婦が流行病で他界したと思っている。『寝首かき一味』に殺害されたのを知らない。
「以前も商家が『寝首かき一味』に襲われたのですか」
雪は興味津々だったが、単なる興味本位で尋ねている振りをした。
「大店の商家は用心棒を傭うなどしていたため、ここ十年余り、被害を受けておりません。 しかしながら近頃は、用心が手薄な大店に、年に一度の割で被害が出ております」
「昔は何処が襲われたんですか」
「かれこれ十六年になりますか・・・。大店の商家は警戒していましたから、大店の料亭が襲われました。主が寝首をかき斬られて金子が奪われ、女房と娘が行方知れずになりました」
雪は驚いたが素知らぬ振りをして話した。
「そんな事があったんですか。こわいですねえ。どこの料亭ですか」
「内密ですよ。商いで出入りしている円満寺の下女から、以前聞いた話です。
今は御上の口利きで隠居した町方の藤堂八十八様が仕切ってますが、神田花房町の料亭兼布佐に・・・」
松前屋庄三郎の説明によれば、三人の夜盗の風体は、雪の両親である大黒屋の主夫婦と、大番頭に似ていた。
何としても与力の藤堂様に会って多美の行方を知り、夜盗を確かめねばならない、と雪は思った。それには大番頭と番頭に悟られぬよう、北町奉行所へ行く口実が必要だ・・・。さて、どうしたものか・・・。そうだ、大黒屋の身代を継いだ挨拶だ、と言って藤堂様に会えば良い・・・。番頭が同行すると言ったら、
『野暮な振る舞いはせず、しっかり帳場を管理しなさい』
と言い含めれば良い。与力の藤堂様はまだ独り身のはず・・・。
葉月(八月)二十九日。朝五ツ(午前八時)。
雪は北町奉行所に与力の藤堂八郎を訪ねた。大黒屋の身代を継いだ報告をし、藤堂八郎にだけ聞こえる小声で、
「商いについて内々にご相談したい事がございます」
と伝えた。藤堂八郎は雪の意を察し、雪を与力の詰所に通して人払いした。
雪は、多美の行方について尋ねた。
藤堂八郎は言う。
「これから話す、ここでの話は全て内密にしてください」
「わかりました。他言しませぬ」
「多美さんについてですが、他言なりませんぞ。多美さんの命に関わります」
「多美は夜盗について何か知っているのですね」
「そうです。詳しい事までは話せませぬが、今、御上の手の者が多美さんを保護している故、安心して待ちなさい。近いうちに会えます」
「安心しました。ありがとうございました」
雪は藤堂八郎に深々と御辞儀して礼を述べた。
「ところで御店でこのような話がありました・・・」
雪は、大黒屋の上女中の沙希が語った大黒屋の裏商いと、雪自身が一歳の頃いつも両親を探していた事を話し、料亭兼布佐に夜盗が入った事件を尋ね、奥座敷の地袋の隠し戸棚にあった、御伽草子の表紙をした裏商いの大福帳を、小袖の袂から出して藤堂八郎に渡した。
「雪さん、こんな事をして大丈夫ですか」
藤堂八郎は大黒屋の主としての雪の立場が気になった。雪が大黒屋清兵衛の身代を継いでも、商いの実権は大番頭の与平が握っている。
「御禁制の裏商いを暴露するのは、真っ当な商人の生き方です。どのような裁きが下ろうと覚悟はできております」
雪はきっぱり断言した。
「それと上女中が話すに、私が一歳の頃いつも両親を探していたとの事が、料亭兼布佐に夜盗が押し入った件と重なって気掛かりなのです。
藤堂様なら料亭兼布佐の事件の全貌を御存じと思い、多美の行方も知りとうございましたから、こうして訪ねてまいりました」
藤堂八郎は雪の決意を感じた。
「抜け荷の件、承知しました。
雪さんが抜け荷に気づいたのを知っているのは、上女中と番頭ですね」
「上女中は気づいていますが、番頭は疑っているだけに思います。
上女中の沙希は父清兵衛と
雪は藤堂八郎に説明した。沙希が偽りを話したか否かは不明だ。
「大番頭と番頭の様子を探り、頃合いを見て御店に立ち入ります故、雪さんは他言せずに、一切、知らぬ振りをして下さい」
「承知しました。私、何も知りませぬ。
藤堂様。料亭兼布佐に夜盗が入った事件を説明してくださりませっ。いかなる話であろうと私は驚きませぬっ。覚悟はできておりますっ」
藤堂八郎は雪の決意の程を感じた。
「相分かりました。これから話す事は、多美さんの件と、御店に立ち入る件も含め、他言無用です」
藤堂八郎は雪を見つめて念を押した。
「はい。他言いたしませぬっ」
藤堂八郎は、十六年前の料亭兼布佐の夜盗事件と、その後の夜盗事件を語った。
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