二十一 出会い
文月(七月)七日。明け六ツ(午前六時*日の出の30分前)。
この刻限、芳太郎は日本橋の魚河岸に来ていた。
「魚河岸」は日本橋と江戸橋の間、日本橋川の北岸に沿って、本船町から本小田原町一帯(現在の日本橋本町1丁目、日本橋室町1丁目)にある魚市場だ。
魚を仕入れた芳太郎は、他にめぼしい物がないか、並べられた魚を見るうちに、芳太郎と同じように魚を見る娘と鉢合せした。
「ああっ、これはすみませんっ」
芳太郎は、買い求めた魚の入った駕籠を放りだし、駕籠を放りだして倒れそうになる娘を抱きしめて支えた。
「すみませんっ。よそ見してました。活きの良い魚が多いもんで・・・」
「あたしの方がよそ見してたんです。抱き留めていただきありがとうございました。
買い求めたお魚が・・・」
娘は芳太郎が放りだした駕籠を見たまま、芳太郎に抱きついている。
「ああ、すみませんっ。こんな・・・」
と言いながら、芳太郎はしばし娘を抱きしめていたが、腕を解いて、魚を拾い集め、娘の駕籠と己の駕籠に魚を入れた。
「魚が汚れちまってすみません。そこの井戸端で駕籠ごと洗いますんで・・・」
芳太郎は二つの駕籠を井戸端に持って行き、釣瓶で水を汲み、駕籠の魚にかけて汚れを洗い流した。
「ああ、そこまでしていただいてすみません」
娘は芳太郎の手際よさに驚きながら顔を赤らめ、
『ああ、あたしを抱きしめた、あの胸はなんて大きくて厚いんだろう。なんて太く逞しい腕なんだろう。何をしてるのかしら。鍛えられたあの身体。御武家様のようだけれど、御武家様とは思えない。いったい、何をしているお方だろう・・・』。
と、芳太郎と鉢合せした折に抱きしめられた、芳太郎の胸と腕の感触を思い、身を熱くしていた。一目惚れである。
芳太郎の体躯は、日野道場の剣術修行で培われ、上背は五尺九寸、肩幅広く、胸厚く、腕太く、贅肉のない引き締まった身体に加え、役者のようないい男だ。
この日本橋の魚河岸で、板前の芳太郎の顔を知らぬ者はおらぬが、料亭兼布佐の兼吉の倅『芳太郎』の名は『寝首かき一味』に知られているかもしれぬと警戒し。芳太郎は料亭兼布佐の主である事は明かしておらず、あくまでも雇われの板前、太郎、を名乗っている。
現に料亭兼布佐の表向きの主は藤堂八郎の父、与力を隠居した藤堂八十八である。藤堂八十八は北町奉行の命を受け、町人に扮して料亭兼布佐の主を演じている。
芳太郎と親しい魚屋魚源の源助も、夜盗を探るために御上からのお達しと承知し、魚河岸での芳太郎と口裏を合わせていた。
「俺は、太郎といいます。板前してます」
「あたし、多美といいます。国問屋大黒屋の次女です」
多美はまた顔を赤くして御辞儀した。多美は五尺三寸で女としては大柄、器量好しだ。
二人の出会いは偶然ではない。藤堂八郎から黒川屋の一件を聞いて以来、芳太郎は大黒屋清兵衛の娘たちを探っていた。
多美は、二日に一度は日本橋の魚河岸へ魚を買いに来ていた。芳太郎が料亭兼布佐の仕入れに来るのは、町人たちより早い明け六ツ(午前六時*日の出の30分)の刻限で、多美が魚を買いに来るのはその刻限より後だった。
そこで芳太郎は、今日、多美がこの刻限に魚を買いに来るよう手を打った。その助っ人は魚屋魚源の源助である。鱚の天ぷらを口実に、旬の鱚を仕入れるには明け六ツ(午前六時)の早い刻限に日本橋の魚河岸へ行くのがよい、と話していたのである。そして、今日、文月(七月)七日は鱚の安売りをするはずだと。その結果、芳太郎と多美は魚河岸で出会った。
「鱚を買ったんですね。天ぷらですね。旬ですからね」
「はい。魚源の源助さんに勧められました。魚源さんから魚を買ってもいいのだけれど、たいがい品切れになってしまうんです。だから、あたしがここに。
今日は、鱚の安売りがあるからと、いつもより早く来たんです。
そしたら、鱚も買えて、太郎さんにも会えました。
天気も晴れて、太郎さんに会えて、良い日になりました。
太郎さんはいつもこの刻限に魚を仕入れに来るんですか」
「はい、いつも来ます。雨が降っても、雪が降っても、いつもです」
「アハハッ、雪は降りませんよお」
「えっ、ああ、まだ夏でしたね」
「雪はあたしのお姉ちゃんだから、降りませんよ。すみません、戯れ言でした。うふふ。
そしたら、この刻限に来れば、また、太郎さんに会えますね。
あたし、二日に一度の割で、ここに来るんです。明後日、会えますね」
「はい、会えますよ。楽しみにしてます。
鱚は天ぷらの他に、生姜煮にするとうまいですよ」
「はあい。肴の作り方、教えてくださいな」
「はい、わかりました・・・」
芳太郎と多美の出会いを 魚源の源助は魚河岸の一郭から遠目に見ていた。源助は二人の出会いを、我が子が好いた娘と会っているかの如く、目を細めて見守っていた。
「源さん、どうした」
源助の仲間が声をかけた。
「ああ、ちょっと、思い出したことがあってな」
源助は何を見ているか話さなかった。これも、御上からのお達しだあな・・・。
その後。
多美は芳太郎に会うため、明け六ツ(午前六時)には魚河岸に来た。芳太郎は、二日に一度の割で魚河岸に現われる多美に会った。そして、肴の作り方を教え、魚について説明し、親しくなっていった。
葉月(八月)七日。暮れ六ツ(午後六時)。
芳太郎は約束していたとおり、大黒屋の外で多美に会った。
十五年前と十四年前に、料亭兼布佐と黒川屋に夜盗が入り、多額の金子と一人娘を拐かしたことを説明した。多美は芳太郎の説明に納得するところがあった。
多美と雪は大柄で、両親は小柄だ。両親に顔立ちや体つきが全く似ていない。そればかりか多美と雪は似ていない。多美は、物心ついたときからその事をずっと不審に思っていた。芳太郎の話を聞き、多美は心の霧が晴れた気がした。
太郎さんが実の兄なら困るが、太郎さんの説明では、あたしは太郎さんの妹ではない・・・。太郎さんと離れたくない・・・。
多美は希望の光を見た思いで、町屋の明かりに浮ぶ芳太郎を見上げた。
「わかったわ。あたしやお姉ちゃんや、太郎さんのためなのね」
「そうです。俺を信じて、夜盗捕縛に協力してください」
「後で、説明してね。きっとだよ」
「はい。とにかく、兼布佐では俺の妹の登美として、隠れていてください」
「わかったわ。でも、妹はいやよ。許嫁にしてっ」
多美は芳太郎に抱きついた。
「はい。わかりました」
芳太郎は笑顔でそう答えた。
その日から、多美は、芳太郎の許嫁として料亭兼布佐に住み着いた。建前上の料亭兼布佐の主、藤堂八十八は芳太郎の意を介し、咎め覚悟で、多美の身の上を芳太郎の遠縁の娘と騙って料亭兼布佐の奉公人を納得させた。
後日、芳太郎は内密に、藤堂八郎と北町奉行に、多美の保護を報告した。全て、多美の身を守るためだった。
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