十五 芳太郎の元服 与力の藤堂八郎

 料亭兼布佐が夜盗に襲われて以来五年が過ぎた。

 町方は大黒屋を見張って探りをかけたが、大黒屋が『寝首かき一味』である物証を得ぬまま、与力の藤堂八十八は役目と事件を子息の藤堂八郎に引き継がせて隠居し、北町奉行の命を受け、料亭兼布佐の主を演じていた。


一方、芳太郎は十五歳になり、元服した。

 五年のあいだ、芳太郎は日野道場の台所を切り盛りし、重い水桶二つを天秤棒で運び、まさかりで薪を割り、力仕事をしながら、重い樫の木太刀を振り続けた。芳太郎の身の丈は五尺八寸(約176㎝)を越え、逞しく成長しつつあった。


「芳太郎さん。手合わせをお願いします」

 道場の中央に立った日野唐十郎は、道場の板壁を背にして正座している芳太郎に御辞儀した。唐十郎は日野道場主の日野徳三郎の甥で、師範代補佐である。

 正面上座に道場主の日野徳三郎が正座し、その右に与力の藤堂八郎が座り、芳太郎に並ぶ右上座には、徳三郎の子息で師範代補佐の穣之介、住み込みの次席門弟坂本右近が正座している。


 芳太郎は御辞儀し、左脇に置いた木太刀を持って立ち上がり、道場の中央へ進み出た。唐十郎と対峙し、互いに御辞儀して蹲踞し、木太刀を正眼に構えて立ち上がった。


 すっと唐十郎が芳太郎に近づいた。呼応して芳太郎が退った。二人の間合いは蹲踞した時のまま、広まらず、狭まらずだ。

 そう思っていると、唐十郎が芳太郎の左に回り込んだと見せかけ、芳太郎の面手おもてに木太刀の鋒を突き入れた。芳太郎は仰け反るように顎を引き、背後に倒れたと思ったら、身体が宙を舞って後方へ一回転し、足から床に着地した。芳太郎は間合いを取って再び唐十郎の前に立っている。

「トンボを切っておらぬで、打って参れっ」

 唐十郎の声と共に、木太刀を正眼に構えたまま、芳太郎の身が矢のように飛んだ。

 唐十郎は木太刀を右に引き、右からから左上へ、芳太郎の木太刀を跳ね上げた。

 だが、芳太郎の小太刀は頑として唐十郎の小太刀を受け止めたまま跳ね上がらない。

 瞬時に唐十郎は前へ出た。芳太郎の身体がするりと唐十郎の左へ抜け、芳太郎の木太刀が唐十郎の胴を薙いだ。いつのまにか、芳太郎の左の胴に唐十郎の木太刀が当たっていた。

 見た目には、相打ちだった。


「それまでっ」

 日野徳三郎が立ち合いを止めた。徳三郎は芳太郎の動きに納得して頷いている。

 芳太郎は小太刀を引いて左手に持ち、身を正して唐十郎に御辞儀した。

 唐十郎も小太刀を左手に持ち、身を正して返礼している。

 芳太郎はその場で徳三郎に向き直り、正座して木太刀を左に置き、徳三郎に御辞儀した。唐十郎も芳太郎の横に正座して木太刀を左に置いた。

 徳三郎が芳太郎を見て、 

「よう鍛錬なすったなあ。唐十郎だとて、ためらわずに打ち込んで良いのだよ。無頼漢相手には、ためらわずにな」

 とほほえんでいる。

「はいっ」

 修業が報われた・・・。芳太郎の目には涙が浮んだ。

 魚を捌く庖丁の刃の動きの繊細な感覚と、重い鉞を振って天秤棒で二つの水桶を担ぐ身体の動的感覚、芳太郎は二つの感覚をみごとに会得していた。おまけに重い鉞を振っていたこともあり、十五歳にして上背もあり筋骨隆々である。


「唐十郎、芳太郎さんの剣の技量を如何に見るか」

「人並みを越えていると思います。私は食べるだけで調理を見ておりませぬが、切り身の角の立ち方や、骨の避け方を見るに、庖丁の技量についても然りでしょう。

 私も木太刀で捌かれる寸前でした」

 唐十郎は芳太郎の木太刀捌きを説明して笑った。


「では、中許し、いや、奥許しで良いな」

「はい、先の先、を会得しております故」

 唐十郎は徳三郎にそう答えてほほえんだ。

「うむ。

 芳太郎さん。修業は今日を区切りとしなさい。

 今後の事は、与力の藤堂八郎様の指示に従いなさい」

 徳三郎は隣席に座っている与力藤堂八郎を示した。


「芳太郎さん。よくぞ修業なすった。

 今日からは料亭兼布佐に戻り、主として板前をしながら、此処に通って剣術の修業を続けなさい。ただし、表向きの店の主は、今までどおり、我が父藤堂八十八ですよ」

「はいっ」

「そして賭場に出入りし、無頼漢に夜盗一味の探りかけて下さい。

 丁半博打場が立つ賭場は、越前松平家下屋敷の中間部屋です」

 そして、藤堂八郎は説明する。


「五年前の水無月(六月)二十日。料亭兼布佐に夜盗が入った。

 同年、葉月(八月)五日。抜け荷の咎で取り潰しになった廻船問屋菱川屋を、国問屋大黒屋清兵衛が買い取った。当時、大黒屋清兵衛と稲夫婦には、一歳の娘の雪がいた。

 今、雪は六歳になるはずだ。雪には一つ違いの多美がいる。

 料亭兼布佐に夜盗が入った翌年、水無月(六月)六日。日本橋富沢町の御堀端にあった廻船問屋黒川屋安兵衛に夜盗が入り、一歳に満たぬ黒川屋の一人娘の登美が拐かされ、抜け荷の儲け三千両と、裏大福帳七冊が奪われた。

 黒川屋安兵衛の申し立てによれば、黒川屋安兵衛は大黒屋清兵衛に潜入し、己の裏大福帳一冊を大黒屋の奥座敷で見つけたが、己の正体の発覚を恐れ、裏大福帳をそのままにして黒川屋に逃げ帰った・・・。

 目星をつけた店は、国問屋の大黒屋です。『寝首かき一味』なのは間違いありませんが、確たる物証がありません。探ってください」


「では、その雪が拐かされた妹、由起ですか」

 大黒屋に妹が居ると芳太郎は思った。

「それは定かではない故、探りをかけるのです。

 決して慌ててはなりませぬぞ。余裕の行動をするのです。

 人目を避けるため、今後の繋ぎ(連絡)は、剣術修業に参る折に此処日野道場でするか、料亭兼布佐の表向きの主である我が父藤堂八十八にしてください。

 急ぎの繋ぎは、早朝に、八丁堀の私にして下さい」


「はい、わかりました。

 ところで、物証が無いなら、黒川屋安兵衛は死罪にはならなかったのでありませぬか。

 もしやして、大黒屋清兵衛が殺害するのを恐れ、黒川屋安兵衛を逃したのでは・・・」

「いかにも、そうです。先ほどの黒川屋安兵衛の話は、皆様、他言無用ですよ」

「わかりました」


「では、取り敢えずの賭場の賭け金、五両です。一分金が二十枚入っています。

 一晩の賭け金は、一分を越えぬようにな」

 藤堂八郎は一分金が二十枚入った巾着を芳太郎に渡した。


 藤堂八郎の言葉に、一瞬、芳太郎は驚いた。一分は一両の四分の一だ。一分あれば町人は家族四人で四半月は暮らせる。それを一晩で使うのか・・・。

(1 両=4 分=16 朱=4000 文。1分は約5万円)


 芳太郎の驚きを藤堂八郎は勘違いした。

「一晩の掛け金が一分というのは、ケチっているのではないです。

 若い者が一晩に多額を賭けては怪しまれます。

 小さく賭けて、周りの賭に興ずる者たちを観察するのです」


「ケチっていると思ってはおりません。一分あれば町人は四半月暮らせますので・・・」

「そうですね。町人は銭金の有難みを良く知っておるが、遊び人や無頼漢、羽振りのいい商人、盗人はなどは、銭金はいつでも手に入ると思っておる。

 賭場に集る者は、そういう者たちだ。

 よって、心して、賭場に出入りするのです」


「今日から賭場に出入りするのですか」

「慌てずとも良い。料亭兼布佐の客などから、賭場の話をそれとなく聞き出して下さい。

 そして、どのように行動するのが得策か、考えるのです」

「はい・・・」

 芳太郎は賭場に関して何も知識が無い。


「丁半博打と賭場について何を知っていますか」

「何も知りません」

「日野先生たちは如何ですか」

「賭場の様子は聞いておるが、賭場へ行ったことはありませぬ。穣之介も唐十郎も右近もです」

 徳三郎の返答に子息の穣之介、甥の唐十郎、住み込みの門弟坂本右近が頷いている。


「では、説明しましょう。

 賭場が開くのは日暮れ後、暮れ六ツ半(午後七時)過ぎです。

 越前松平家下屋敷の裏門に渡り中間が二人出て、賭場の客を確認している故、『遊びに来ました。初めてです』と言って屋敷に入って下さい。

 中間が、賭場が開かれている中間部屋の、隣の中間部屋に案内します。そこに居る用心棒に得物を預け、胴元が座っている帳場で賭け金を賭け札に交換します。

 賭け札は一枚百文です。一分は千文ですから賭け札十枚と交換できます。

 賭け札を得たら隣の中間部屋の賭場に入り、新参者が座る下座に座って下さい。賭場で酒など注文できますが、何かと揉め事のきっかけになりますから、酒は飲ぬように。

 賭場で行なう賭け事は、丁半博打です。壺降りが竹で編んだ壺に二つの賽子を入れて振り、賽子が入った壺を盆茣蓙の上に伏せたまま置きます。

 この時、二つの賽子の目の合算が奇数なら「半」偶数なら「丁」です。

 客は「丁に一枚」などと言って賭け札を賭けます。

 壺降りが壺を取って賽子の目を確認します。

 丁なら、丁に一枚を賭けた客は、自分が賭けた札と、胴元から賭けに勝った報酬の一枚の、合計二枚を得ます。負ければ掛札は胴元の物になります。

 掛札の交換は帳場で行ないます。

 簡単ですが、丁半博打の説明です」


「藤堂様は賭場に詳しいですな」と徳三郎。

「興味は無いのですが、役目柄故、致し方ありませぬ。

 芳太郎さんは、何か訊きたい事がありますか」


「いえ、ありません。

 料亭兼布佐の客から、それとなく賭場の話を聞き、それから賭場に行こうと思います。

 稽古に来た折に、賭場へ行く日を伝えますので、その節は、藤堂様、大先生、皆様、よろしくお願いします」

 芳太郎は藤堂八郎と徳三郎と唐十郎に御辞儀した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る