十 黒川屋安兵衛

 文月(七月)五日。暮れ六ツ半(午後七時)。

「お前さん、登美を探しておくれっ。三千両と大福帳も探しておくれ。

 登美は乳も飲めずに、腹を空かせてるだろうに・・・」

 奥座敷の褥の上で、黒川屋安兵衛の女房の三津は、安兵衛を正座させて詰め寄った。そして、登美が飲まなくなって乳が溜まった張りつめた乳房をさすった。


 安兵衛と三津は、娘の登美を拐かされて三千両を奪われたまま黙っている二人ではない。三津も抜け荷の片棒を担いでおり、堅気の廻船問屋の女将ではなかった。

「盗人は同業者だ。この日本橋富沢町や田所町の界隈は御堀端に廻船問屋が多い。しかも老舗の大店おおだなだ。夜盗をするはずがない」

 安兵衛はそう囁いた。

「そんなら、最近店開きした廻船問屋かい」

 そんな廻船問屋はこの日本橋界隈にはない。いったいどこの店かしらと三津は思った。


 廻船問屋黒川屋は日本橋富沢町の御堀端にあり、表沙汰にできぬが、安兵衛と三津の夫婦が抜け荷で財を成した廻船問屋だ。大店は、富沢町の北へ二丁目の新大坂町には廻船問屋吉田屋がある。その西の通りを挟んだ田所町には廻船問屋亀甲屋がある。どれも老舗だ。


「去年の夏、米沢町に国問屋が店開きしたな。何という店だったか・・・」

 店の規模が小さかったので、開業を知らせる瓦版に目も留めなかった。行って探ってみよう・・・。

 安兵衛は探りをかける決心をした。

「三津、明日、米沢町へ行って探る。登美がいれば、泣き声でわかる」

「お前さん、顔を見られるんじゃないよ。あたしらは顔を見られたが、あたしらは奴らの顔を見てないんだからね」

「そうだったな。どうしたものか・・・」

 安兵衛は考えたが何も思い当たらない。

 闇雲に探っても国問屋が夜盗なら即座に捕まっちまう。この俺が商人だとわからぬようにするにはどうすればいいか・・・。

 安兵衛の心に閃いた。

 人足に化けるか・・・。だが、この手では・・・。

 安兵衛はじっと手を見た。どう見ても、これは人足の無骨な手じゃねえ。ならば・・・。


「三津、儂は、明日から人足をする。お前は帳場を頼む」

「なんて事を言うのさ。何をする気かえ」

「このなまっ白い手や顔じゃあ、御店の主だとわかっちまう。

 人足として働けば、ちっとは日焼けして無骨な手になろうというものさ」

「御店の主の見た目は、かんたんには変わらないわさ。早く登美を探さないと、あたしの顔を忘れられちまう。そのうち、乳も出なくなる」

 三津は、また、乳が溜まって張りつめた乳房をさすった。


 長年身についた黒川屋の主の性格と風貌は、かんたんには変わらねえ。いったいどうすれば人足に化けられるだろう・・・。

 安兵衛は考え込んだ。そして、閃いた・・・。



 その夜。安兵衛は奥座敷で、眠らずに大酒を飲んだ。安兵衛が飲みすぎるのを女房の三津は止めなかった。

 その次の夜。安兵衛は奥座敷で、眠らずに大酒を飲んだ。飲み続けた安兵衛は吐いた。吐き続けた。そして、また眠らずに大酒を飲んだ。

 奥座敷にこもった数日間で、安兵衛の目は窪み、頬はげっそりと落ちた。その人相は、かつての廻船問屋黒川屋の主の安兵衛とはほど遠かった。人相の変化を日々見ていた女房の三津ならわかるが、奉公人も知古の者も、一見で安兵衛とわかる者はいなかった。



 数日後。

 裏庭の木戸から、安兵衛と三津はこっそり外へ出た。そして。廻船問屋黒川屋の裏長屋へ行き、三津の口利きで、安兵衛は「安吉」と名乗って裏長屋に部屋を借りて住み着いた。

 安吉の生業は「利根川の荷揚げ人足」である。酒好きが高じて女房から縁を切られ、路頭に迷った挙げ句、黒川屋の伝手を頼って上州の前橋から江戸へ出たことになっていた。


「五助さん。この人は安吉さんと言うのさ。酒好きが高じて、女房から縁を切られちまってねえ。あたしの実家の伝手を頼って前橋から出てきたのさ。

 利根川で荷揚げ人足をやってたって言うけど、飲んだくれて追い出されたんだ。どれくらいの人足か、察しがつくってもんさね。

 五助さんの郷は上州高崎って言うじゃないか。すまないが、同郷のよしみで、荷揚げの面倒を見てやっておくれよ」

 安兵衛の女房の三津はそう言って、安吉の世話を、黒川屋の裏長屋に住んでいる荷揚げ人足、五助に頼んだ。

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