010_遠望

 五日目の朝、俺は眠る将聖を振り返りながら焚火をつついていた。

 今朝の将聖はなかなか目を覚まさない。

 明け方近くから、将聖は眠ったままうめき始めた。傷の痛みのせいらしかった。悪寒もするらしく、時折体も小刻みに震わせていたので、俺は将聖にブレザーを返すと、湯たんぽに徹してあいつにくっつき、眠れぬまま朝を迎えたのだった。

 明るくなるのを待って、俺は将聖の腕の傷を調べてみた。どうやら出血だけは止まったようで、ひとまず胸を撫で下ろしたが、魔物に咬まれた傷は腫れ上がり、熱を持っていた。黒髭に殴られた頬も青黒く変色していて痛々しい。

 こうやって、ずっと俺をかばってくれていたんだもんな。

 ちゃんとワクチンを打っている家猫いえねこにだって、噛まれたらと傷が腫れ上がると学級クラスの誰かが言っていた。将聖は魔物に噛まれたんだから、もっとひどくなるかもしれない。

 不安だったが何もできない俺は、日が昇るまで将聖の湯たんぽ代わりを務めた後、起き上がって粗朶そだを集め、ほぼ消えかけた焚火の火を何とか起こした。

 将聖が起きたら呼んで、もう少し温めてやりたい。

「……? 優希っ!」

 あー。

 あいつ、起きたな。

 俺はちょっときまりが悪くて、あいつに声をかけるのをためらった。

 目覚めた第一声が俺の名前って、何だか恥ずかしいぞ。

 でも、険悪なムードだった昨日を思い出せば、仕方がない気がする。

「将聖。こっち。」

 俺は声をかけて手を振った。それから立ち上がり、横たわったままの将聖の傍へ歩いて行った。

 将聖はなかなか起き上がれない様子だった。大儀そうに体を回して、両手で支えるように上半身を起こす。でもそれが精一杯らしく、座り込んだまま、とろんとした目つきで俺を見上げた。

「大丈夫か?」

「……悪い。大丈夫じゃない。なんか、あちこち滅茶苦茶痛い。」

「うん。何か腫れてて、見るからに痛そうだもんな。」

 俺は将聖の額に手を当ててみた。熱い。

「今朝より熱が上がったな。」

「あ。優希の手、なんか気持ちいい。」

 将聖は口調までとろんとしていた。

「今日は休もう。お前、一日寝てるといい。ただ、も少し火の近くに来れないか?」

「……手、貸して。」

「そら。」

 俺が手を引いてやると、将聖は無理矢理、という様子で立ち上がった。頭もグラグラさせていて、本当に苦しそうだ。

 将聖は、どうにか火の傍まで移動すると、ドサリと地面に倒れこんだ。傷にさわるのでブレザーは片袖を通せなくて、血で汚れたワイシャツが目に飛び込んでくる。寒そうに体を丸めているので、今日は俺が背後からあいつの体にくっついてやった。

「そーら。湯たんぽが来てやったぞ。」

 将聖がくすくす笑いだした。

「何だよ。」

「優希が、ちっこい。」

「るせー。ちっこい言うな。」

 俺は憮然ぶぜんとして言い返した。

「だってお前、おサルのおんぶしてるみてえ。」

「おサルがおサル言ってんじゃねえよ。」

「でなきゃコアラとか。木にしがみついてるやつ。」

「そのうち絶対ナマケモノとか言い出すんだろ。お前。」

 将聖のくすくす笑いが続くので、俺も一緒になって笑った。

 ああ、クソったれ。

 俺も、こいつが笑うのを待っていたのか。

 でも、将聖の上機嫌はほんの一時いっときのことだった。将聖はすぐに喘ぐような溜息をつき、疲れ果てたようにぐったりと体の力を抜いてしまった。

 俺は、また眠ってしまう前に、将聖に言わなければならないことがあった。

「将聖。」

 俺は将聖の背中に声をかけた。

「昨日はごめん。お前に八つ当たりした。」

「……いいよ。昨日はいろいろあったし。」

 弱々しい声だったが、将聖は答えてくれた。俺はその声にしがみつくような思いで、言葉を続けた。

「良くない。悪かった。お前には助けられっぱなしなのに、ずっと当たり散らしてた。」

「そんなに急いで、気持ちの整理、つけなくていいんじゃね?」

 将聖が、また無理をして体を動かした。俺の制止も聞かず、寝返りを打って俺に向き合う。

「お前、辛いだろ。」

 将聖は真剣な眼差しで俺を見て、言った。その目尻が赤く潤んでいるのは、熱のせいばかりではないんだろう。

「その、……身体からだのこと。簡単に受け入れられることじゃ、ないだろ。……俺が、お前を巻き込んだ。俺が、お前からいろいろと取り上げた。これ以上、呑気のんきに手伝えとか頼める立場じゃなかった。フォーリミナが反対した理由が分かった気がする。俺がお前に押し付けたものは大きすぎた。俺のこと、今無理して許さなくていい。これから先、一生恨まれるだけのことはした。……悪かった。」

 ……これだから、こいつは困るんだ。

 こいつ、俺が「ごめん」って言うと、何ですぐに許しちゃうかな。

 そして、なんでこんなに真正面から謝るんだよ。お前一人の責任でもないだろうに。

 だから俺の中は、こうして罪悪感でいっぱいになっちまうんだ。

「もう言うな。頼むから、もう言うなよ。」

 俺はしゃくりあげながら将聖の口を手で塞いだ。もう見せたくないと思っているのに、また俺の目から涙がこぼれてしまう。これはいくらなんでも、泣きすぎだ。

「いや。今、言っておきたい。お前には、本当に済まなかったと思っている。……それで、お願いなんだけど。」

「何だよ。」

「今は許さなくてもいいからさ……。いつかは、ちゃんと許してほしい。優希に一生恨まれるのは、正直きつい。」

「ああ。そうかよ。考えとくわ。」

 俺は泣きながら笑ってしまった。こいつは、俺なら一生かかっても口にできないようなことを、さらっと言っちまう。

 まったく、恥ずかしくないのかよ。

 まだ受け入れられない部分はあるが、俺はもう、あらかたは許してしまっている自分に気付いていた。

 素直じゃない俺は、まだ将聖には言えなかったのだが。

「とりあえず、早く良くなれ。お前が動けねえほうが恨めしいわ。」

「お前は大丈夫なのか?」

 将聖が、熱で少し焦点の定まらない視線を俺の腹のほうへ向けた。

「あー、これ。忘れてたわ。忘れてたくらいだから、大丈夫だろ。」

 将聖が気にしているのは、俺のワイシャツに開いた穴と血の染みだった。昨日ワイシャツの前を裂かれた俺は、今日はそれを前後逆に着ていて、その上からブレザーを羽織って背中を隠していた。そうしてみて初めてワイシャツに血が付いていることに気付き、自分も昨日、魔物に傷つけられたことを思い出したのだ。

「俺さあ、自慢じゃないけどコロナやインフルみたいな感染症には一度もかかったことないんだよね。」

「俺もないよ。」

「感染症は、気合いだよな?」

「……ワクチンじゃないのか?」

 将聖の声が震えていた。手を伸ばして頬に触ると、さらに熱が上がっているようだ。

「優希。俺の腹のほうに来てくれる?」

 将聖がまた寝返りを打って、言った。左肩の傷が体の下に来るのは辛いらしい。

 俺は将聖の腹のほうへ移動して、背中を向けて横になった。将聖が俺の体に腕を回す。

 最近、こいつが俺を抱き枕みたいに抱いて眠るんで、恥ずかしかったんだけど。

 そうか。こいつ、今までも俺を湯たんぽにしていたのか。

 体温が通うにつれて、小刻みに震えていた将聖の体から少しずつ緊張が解けて、静かな寝息に取って代わった。その様子に、どこか、安心したような気配が伝わってくる。

 俺も連日の疲れが出たのか、いつしか眠り込んでいた。



 六日目。

 俺たちは森を歩きながら、腹をぐうぐう鳴らしていた。

 腹が減った。ついに、フォーリミナの加護が切れたらしい。

 だが、将聖の回復は目覚ましかった。傷はまだ痛むと言っていたが、熱はすっかり引けて、目に力が戻っていた。傷の周囲の腫れも驚くほど和らいで、もう動かすのにもさほど支障はないという。現に今も、俺の隣をしなやかな身ごなしで歩いている。昨日のあの衰弱が嘘のようだ。

 もしかすると、俺たちの胃袋を満たしていたフォーリミナの魔法が、傷の回復のほうへ流れていったのかもしれない。

 腹は鳴り続けていたが、俺たちの足どりは軽かった。ようやく町と思しき建造物の一群を発見したからだ。

 ちなみに、その町を最初に見つけたのは、この俺である。

 将聖は昨日一日食欲がなかったが、俺は腹が鳴り続けて辛かった。ぐったりと横たわったままの将聖が、ケラケラ笑い出したほどだ。日本でも山野草を採ったり食ったりした経験は一度もなかった俺だが、「何でもいいから食い物探したいんだけど」と言うと、将聖もようやく、俺が一人歩きすることを許してくれた。

 はぐれたら絶対迷子になる自信があったから、俺は将聖からあまり離れないようにしながら、森の中をほっつき歩いた。近くにはいないと将聖が保証してくれたが、魔物や前日に会った魔物狩りの男たちに出くわしたくなかったこともある。

 これまでずっと先を急ぐことばかり考えていて、ろくに周囲に目を向ける心の余裕がなかった俺は、この時は食い物を探すというよりも、一人落ち着いてイザナリアを見て回りたいという気持ちのほうが強かったと思う。魔法の存在する異世界とはいいながら、周囲の様子や飛び交う虫、植物に、取り立てて物珍しい特徴は見られなかったからだ。ここに生えている巨大樹は確かに驚異的な高さを誇るが、これはどうやらそういう種類の木というだけのようで、森の中を流れる沢の岸などにごくまれに生えているほかの種類の木々は、日本で見たものと大きさにほとんど変わりはない。

 俺は自分がそれを残念に思っているのか、それとも安心しているのか分からなかった。将聖はフォーリミナと直接話し合って、イザナリアで生きる覚悟を決めたのかもしれないが、俺はまだ段ボール箱に詰め込まれて置き去りにされた捨て猫のように、何も見えず、不安だけを抱えて、次に何が起こるのか、身をすくませて待っているような気分だったからだ。

 ……知らぬ間に、俺はまた、暗い考えに取り付かれていたらしい。

 あのまま一人、自分の中に籠っていたら、どこに迷いこんでいたか分からない。だが、俺の物思いは長くは続かなかった。少し離れた木の枝から、小鳥が数羽、突然飛び立ったのだ。何ということもない出来事だったが、自分の思いに浸りきっていた俺は、ビビって腰を抜かしそうになったほどだった。

 海を見渡す岬のように、先端が樹林の先に向かって突き出した倒木を見つけたのはその時だった。

 俺はその倒木に駆け寄った。一目見ただけで、それをたどっていけばこの巨大樹の森の外の景色を見渡せると分かったからだ。俺はどうにかその上によじ登り、体操の平均台の上を歩くようにバランスを取りながら、先端に向かってそろそろと進んだ。だんだん地面が遠ざかっていくのが怖くて、途中から四つん這いになって進んだが、樹林の先へ抜けると、目の前に世界が広がっていた。

 秋の空は高い。

 その澄み切った蒼穹そうきゅうに包まれるように、穏やかな大地が広がっていた。

 俺たちが歩いてきたこの巨大樹の森は、大きな山脈の麓に広がっていた。針葉樹の暗い緑が山裾やますそを一面に覆っている。しかし低地にくだるにつれ少しずつ木々の背は低くなり、広葉樹が多いのか、赤や黄色に色づいた葉が目に鮮やかになっていった。

 さらに下ると起伏はゆるやかになり、そこには農地か牧草地と思われるなだらかな地形が広がっていた。生垣のようなもので区切られた畑の間を、赤土の小道が細く長く伸びている。なめらかだが定規で引いたような舗装道路とは違う、ゆるゆると曲がりくねった道だった。日除けか道標みちしるべの役割でもあるのか、所どころにポツンと立つ大樹や、置き忘れられたようにそこにある巨岩を回り込んで、遠く先まで続いている。

 優しい道。日本の田園地帯とは違う、だがどこか懐かしい風景だ。

 そして俺の目は、そのはるか先に、ついに町と思しき建造物の姿を認めたのである。

 俺はしばらくの間そこに立って世界を眺め続け、それから大きく深呼吸をした。

 この先、何が起こるか分からない。

 だけどその時俺は、「きっと何とかなる」と思ったのだ。

 大丈夫。きっと俺と将聖は、ここでうまくやっていける。

 日本にいたころのように、何不自由のない生活は望めないだろう。ラノベで読んだような、胸がすくような逆転人生とも程遠い生活かもしれない。

 だとしても、俺たちはきっと、なんとかやっていくだろう。どこかで飯を食い、どこかで風雨をやり過ごしながら、生きていくはずだ。

「でもな、立ちションができなくなったのは、ショックだったぜ。」

 俺はつぶやいた。フォーリミナが聞いているような気がしたからだ。

 あの場所で、小鳥が突然飛び立ったのも、きっと偶然じゃない。

 俺はそこで少しばかり泣いた。自分の体のことで、泣くのはこれで最後にするつもりだったからだ。少なくとも、将聖の前では泣かない。もう絶対に、と俺は心に決めた。

 それから俺は、将聖の待つ場所まで、急いで戻った。

「将聖。将聖!」

 俺はうつらうつらしていた将聖をたたき起こすと、倒木の上で見たものをまくし立てた。

「明日は屋根の下で飯食って、布団かぶって寝るぞ!」

 そんなことができるという保証は何もなかったが、俺は力強く言った。

 将聖の、やや回復の兆しが見える顔が柔らかくほころんだのが嬉しかった。



 そして、今日。

「君に、捧げるおはぎは、ずんだデコレーション。」

 俺はアニメソングを口ずさみながら歩いていた。こんなポカポカ陽気の遠足日和に、ただ黙々と歩き続けるなんて無理な話だ。

 腹は減っていたが、町に近づいていることで、気分は高揚していた。どうやって手に入れるかはまだ思い浮かばなかったが、町なら食料が手に入る可能性があるわけだし、驚異的な回復力とはいえ、まだどこかに痛みを隠している将聖を誰かにてもらうこともできるかもしれない。

 秋晴れの森の中は暖かく、空気が澄んで気持ちよかった。少しずつ増えてきた広葉樹の落葉が、靴の下でカサコソと心地よい音を立てる。これまでの巨大樹の森は道なき道を進んできたが、この広葉樹の森に入ってからは、獣だけではなく人間の足によって踏み固められたと思われる道を、俺たちは歩いていた。所どころ石や丸太を敷いて補正された道で、舗装道路ほど快適ではないが、木の根や岩で足首をひねる心配がなくて歩きやすい。

 もうすぐ、町に着く。

 まだ人に会うのにためらいはあったが、俺も将聖も、ようやく人里を見つけてほっとしていた。早く屋根のある場所で眠りたかったのだ。俺たちは二人とも、寒さのせいで短時間しか眠りにつけず、かなり疲れが溜まっていた。

「枝豆、生まれのスウィーツ、青春、の味。」

 それでも俺は機嫌よく歌い続けた。新しい声にはまだ違和感があるが、悪い声ではない。高い音も楽に出るし、澄んでいて伸びやかだ。

 俺は将聖よりも先に町を見つけたことに浮かれていた。あいつが体調不良のうちに抜け駆けしたに過ぎないのだが、「俺だってやればできるじゃん」という妙な自信が、どん底まで沈んでいた心を持ち上げてくれた。きっとこれからだって……、どんな小さなことであれ、俺が将聖の役に立つことは、何か必ずあるはずなのだ。

「ずんだ、ずんだ、ずんだ、ずんだ、ずんだデコレーション…。」

 少し先に立って歩きながら将聖も歌っている。今日はあいつも機嫌がよかった。魔物やそのほかの危険を警戒して、森の向こうに意識を飛ばしながら歩いているが、昨日と同じ柔らかな笑顔を顔に残したまま、時折俺の顔を振り返る。

 どうしてそう何度も振り返るのか、よく分からないまま、俺は曖昧あいまいに笑い返した。



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俺たちは勇者じゃない 陶子 @Caraway

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