009_受難-2
男たちはこの巨大樹の森の中にキャンプを張っていた。
と言っても、小さな湧き水のそばに作られた、一夜限りの野営地に過ぎないことは一目で分かった。巨大樹の根が盛り上がり、ちょうど潜り込めるだけのスペースのある場所に、毛布などいくつかの荷物が隠してあるだけだ。焚火の跡にネズミのような小動物の骨が散乱していて、ただそれだけのことなのにひどく殺伐とした雰囲気が漂う。
俺は胃がきゅっと縮まるのを感じた。
黒髭が、ぞんざいに将聖の傷を診た。
「大した事ねえな。」
黒髭は、そう言っただけだった。俺はついてきたことをすでに後悔し始めていた。
「で? お前たち、どこから来たんだ?」
落ち武者が、改めて俺たちに尋ねた。今度は将聖が受けてくれた。
「……俺たちはウィクタ・ノファダから逃げてきた者です。俺は将聖。こっちは『妻』の優希です。」
「妻? 若っけえ夫婦だな。」
俺は腹の内でフォーリミナに悪態をついた。
そう。俺たちの設定は「夫婦」だった。今のイザナリアの時代は、女にとっていろいろと危険が多いらしいのだ。既婚ならば安全ということでもないようだが、独身よりはマシ、ということなのだろう。
だが、俺と将聖が「夫婦」とは。学校の奴らに知られたら、それこそ俺たちは二人とも変態扱いか、一部の女子のオモチャにされてしまうだろう。最悪だ。
イザナリアに来てから、あらゆることが、最悪だ。
「ウィクタ・ノファダって、どこよ。聞かねえ地名だな。」
「ディフリューガル山脈の中腹にあります。俺たちの部族はあまり他部族との交流がないので、もしかしたらご存じないかもしれません。」
「おい。こいつの髪を見ろよ。ハイランダーだろ。ディフリューガル山脈っつったら、ワイバーンの群れが現れて一帯が焼かれたって話だ。あそこにハイランダーの集落があったはずだ。かなり危ないって噂だったが。」
イザナリアには主として四つの人種が存在する。エルフ、ハイランダー、ドワーフ、そして
いずれにせよ、こんなところだけラノベ・ワールドのテンプレをしっかり踏襲しているのが、俺にも将聖にも解せないところではあった。
「どうせ、みんなやられちまったんだろ? 『父祖の地』だとか何とか気取ったところで、もともとディフリューガル山脈の東は、半分魔界域に呑まれたただの荒れ地だったんだからな。」
俺たちは心の中で唇を噛んだ。フォーリミナがこの設定を選んだもう一つの理由がこれだった。俺たちが逃げてきたということになっている辺境の村は、住民が全滅している。俺たちの説明について異議を唱える者は、この世に存在しないのだ。
大勢の人々が死んだという事実を、俺たちは都合よく利用しているのである。
「はい。彼女を連れて避難して、数日経ってから二人で村に戻りましたが、ほぼ全焼していて、誰も戻ってきませんでした。俺たちは七日間、仲間が戻ってくるのを待ちましたが、もう食料が限界で、故郷を捨てて逃げてきたんです。この森の東側は今、『魔界域』が決壊して魔物があふれています。しばらくは誰も住めないでしょう。」
将聖は淡々と話した。半分は嘘っぱちだ。感情がこもるわけがない。
だが、半分は事実だった。以前フォーリミナが将聖に話したように、世界のバランスは現在、魔物のほうに傾いている。日本のゲームの世界でもワイバーンは強力なモンスターという扱いだが、こちらの世界でも同様な立ち位置にあるらしい。ただし、こちらの世界ではそれがゲームではなく、現実なのだ。
「ディフリューガル山脈の東は落ちたか。」
スキンヘッドが言った。
「だいぶ以前から、もうもたないだろうって言われていたんだ。……けっ。また貧乏人や難民どもが流れてきやがる。」
「俺達には関係ないやね。魔物が増えたほうが稼げるぜ?」
「まあまあ、そう言うな。こいつらは村を焼かれちまったんだぞ。」
落ち武者がにやにやと笑いながら鶏ガラをたしなめる。スキンヘッドはさっきから俺の全身を舐めるような目つきで見ていた。
――気持ち悪い。
何だかどうしようもなく、気持ちが悪かった。俺は将聖の陰に隠れようと、もぞもぞと体を動かした。まとわりつく視線に、吐き気がこみ上げてくる。
「可哀想だろうが。仲間は死んじまって、流れて来た奴らはみんな、奴隷や乞食や娼婦になるんだからな。」
落ち武者の表情が、ひどく冷酷なものに変わった。顔ににやにや笑いを張り付けたまま、確かめるように言う。
「じゃあ、お前さんたちは、二人っきりなんだな?」
その口調に、俺はひやりとした。なぜ武器を持った見ず知らずの人間に、自分たちのことをあれこれしゃべってしまったのだろう。
将聖が、俺を背後に入れながら立ち上がった。驚くほど素早い動作だったが、黒髭のほうが早かった。初めからそのつもりで様子を窺っていたのだろう。将聖の片目を、ガツンと音がするほど殴りつけ、足を払って倒れこんだところを、喉元をつかんで押さえつけた。
「将聖っ!」
俺は一瞬、逃げ遅れた。将聖が殺される、と思ったのだ。
すぐに逃げるべきだった。将聖は、それほどヤワじゃない。
――その、一瞬の
スキンヘッドが、背後から俺の髪をつかんで地面に引きずり倒した。ほぼ同時に、落ち武者が俺の上に飛び乗って、ワイシャツとタンクトップの前を引き裂いて開く。
あっという間の出来事だった。
「――っ! ――っ!」
俺は悲鳴を上げた。ほとんど声にならない悲鳴だった。
俺の目の前に、気持ちの悪い、白い二つの膨らみがむき出しになる。
落ち武者の、爪の間まで汚れた片手がそれをつかんでぞっとした。
「ひひひっ。こいつぁ上玉だぜっ。見ろよ、この肌!」
「腕! 腕押さえろ!」
「なあ嬢ちゃん。あの兄ちゃんともやることやってんだろ? 俺たちがもっと気持ちよくしてやるよっ。」
襲われる。それがこんなに恐ろしいものだと、俺は初めて知った。
ただただパニックに陥り、喉からうまく声さえ出ない。
「やめろっ。……やめろっ!」
必死に叫んでいるのに、囁くようだ。
鶏ガラとスキンヘッドに、左右から腕を押さえつけられた。鶏ガラが俺の乳首にしゃぶりつく。スキンヘッドが、悲鳴を上げた俺の口の中に手を突っ込んだ。落ち武者は馬乗りになったまま俺のベルトを外すと、スラックスとトランクスを一緒に引きずりおろした。
怖い! 怖い!
いやだ! 怖い! いやだ!
やめろ! やめてくれ!
俺は必死で暴れたが、無駄だった。落ち武者がズボンを下ろして自分の
――死んでしまいたい。
この薄汚い男共に何かされるくらいなら。
たった今、ひと思いに死んでしまいたい。
「ぎゃっ!」
弾けるような悲鳴が上がって、男たちは動きを止めた。頭の鈍そうな鶏ガラだけが、気付かずに俺の乳首をちゅうちゅうと吸っていたが、スキンヘッドに殴られて、ようやく顔を上げる。
俺たちの目は、全員将聖に吸い寄せられていた。
将聖の両手が、青く光っている。
あいつを殴って押さえつけていた黒髭に飛びついて、両手で力一杯顔をつかんでいた。
その手のひらから白い湯気が上がり、嫌な臭いを撒き散らす。
「ぎゃあああああああっ!」
耳を覆いたくなるような悲鳴を上げて、黒髭は将聖をようやく突き放した。
顔が焼け
何が起こったか分からなかった。突き飛ばされた将聖は、その勢いのままぱっと体を
「ふぐええっ!」
鶏ガラは舌を噛んでしまったらしい。吐血しながら絶叫した。
「こいつ、魔法が使えやがる!」
スキンヘッドが、俺の口の中から手を引き出した。あんまり乱暴で、俺は前歯がへし折れるかと思ったほどだった。
スキンヘッドは俺の前髪をつかんで引き起こし、首に手をかけた。
「女を殺されたくなきゃ…。」
将聖の靴の裏が、スキンヘッドの鼻を押しつぶした。スキンヘッドが俺の前髪を離して自分の顔を抑えたので、俺はがむしゃらに手を伸ばしてスラックスとトランクスを引き上げた。
一生ブルカで過ごしてもいい。俺はもう、誰にも肌を見せたくない。
落ち武者も、身仕舞いをしていて出遅れた。大事な
将聖が、右手を落ち武者の顔にかけた。その手が光ったのは一瞬だったが、落ち武者の額から片目にかけて、焼けただれて皮が垂れ下がると、獣のような叫び声が巨大樹の森を駆け抜けた。
「優希! 逃げるぞ!」
将聖が俺の手をつかんで走り出した。それだけで、俺の体はぐんっと引きずり上げられ、足をもつれさせながらも走り出す。
自分の体が、こんなにも軽く、こんなにもたやすく他人にあしらわれていることに、俺はショックを受けた。
何の抵抗もできなかった。今も、将聖の手を振りほどくことさえできない。
俺は走りながら、必死にワイシャツの前を合わせた。
さほどデカくもない二つの袋が、胸板の上でユサユサと揺れているのが醜悪で、気持ち悪くて見ていられなかった。
俺の息が上がるのは早かった。
将聖に手を引いてもらっているのに、呼吸がまったく追い付かない。
ようやく自力で歩けるようになった手足がまたぶるぶると震え始め、俺は将聖を引き留めるより先に、地面に倒れこんでいた。
どうして、こんな軟弱な体になってしまったんだろう。最近のアクション映画に出てくる女達は、特別な職業などについていなくても、みんなとてもタフなのに。
「優希!」
将聖が慌てて俺に駆け寄ったが、俺はブレザーの胸をかき寄せて、地面に伏せた。
見られたくない。
もう、誰にも見られたくない。フォーリミナにだって、見せられない。
だが、あいつは見てしまったはずだ。
俺はブレザーの袖で涙を拭った。拭っても拭っても、止まらなかった。
将聖は少し離れたところで固まってしまい、突っ立ったまま身じろぎもしなかった。
「……お前もさあ、見たんだろ?」
しばらくして、俺があいつを睨みつけながらゆっくり体を起こすと、ようやく将聖は真っ赤になって俯いた。
やっぱり、見たんだな。
風に乗って、先ほどの男たちの怒声が響いてくる。だいぶ引き離したようだが、それでもまだ追いつかれてもおかしくない距離にいるようだ。怖い。そればかりでなく、おぞましい。あいつらに触られた部分を掻きむしって、生皮を引き剥いでしまいたい。
俺は震える膝で立ち上がり、近くの小さな薮の中に入ってしゃがみ込んだ。
汚らわしい記憶が蘇って、俺は振り払おうと首を振った。
だがどんなに振り払おうとしても脳裏に現れる。触られた体の感触まで蘇って吐き気がする。
「ぐおああっ!」
俺はうなり声を上げて、こぶしで自分の頭をガンガン殴った。
――消えろ。……消えろ!
俺は頭を殴り、髪を引きむしり、爪でガリガリと顔を掻きむしった。将聖が止めようと近づいたので、俺は四つん這いになってさらに藪の奥へ逃げた。
「ごめん。優希。ごめん……。」
将聖の声だけが、小さな子供のように頼りなく、背後から追いかけてくる。
俺は耳を塞いだ。この瞬間、俺は将聖が世界の果てに消えてくれるのなら、何を支払っても惜しくはない、と強烈に思った。
将聖が焚火を起こした。俺は臭いでそれに気付いてぎょっとしたが、男たちの声はもう聞こえなかった。
そうだよな。あいつは安全だと判断しなければ、火を起こすようなバカはしない。
そういえば、将聖の危険察知能力は、単に「気配に敏感」というレベルではなかった。あれがあいつのチートスキルか何かなのだろう。それにあいつは「ファイア」の魔法も使えたらしい。マッチやライターもないのにあいつがどうやって火を起こしているのか、今まで俺は考えもしなかったが、そういうことだったのだ。
――自分ばかり特殊能力を持っていて、それを俺に隠している、と。
俺は胸のムカムカが止まらなかった。
――考えても無駄だ。考えるな。
俺は頭を振った。
今の俺は、将聖がいなければ生きていけない。歩くこともままならないし、魔物に出くわしたら秒殺されてしまうだろう。
何もかも、あいつ頼み。走って逃げても、追いつかれるのが関の山だ。
どうしたらあいつから逃げられるだろう。
そう考えて、俺はすぐに一つの言葉にたどり着いた。
――自殺。
実のところ、今朝まで俺はそんなこと、考えもしなかった。
将聖が口にするまでは。
だけど今、ふと気付いてしまった。
それだって、未来の選択肢の一つとしてあり得るのだ。
何故だろう。今は「自殺」という言葉が生々しく俺の心に覆いかぶさってくる。
背中を冷たいものが走り抜けるような、心臓をつかまれたような、不快感。
怖い。なのに、その可能性を、方法を、真剣に考えている自分がいる。
……なぜなら、俺はすでに一度、死んでいるからだ。
俺はすでに、死んでいる。
……肩にそっと手を置かれて、俺はかすれた悲鳴を上げて振り返った。
男どもに押さえつけられた恐怖が、喉元までせり上がる。
だが、そこにいたのは将聖だった。
「先に声かけろよっ!」
「……ずっと呼んでいたよ。」
「……っ。」
将聖の言葉に、俺は絶句した。
全然気付かなかった。将聖が心配そうに俺を見ている。
「見るんじゃねえって言ってるだろ!」
俺は吠えた。胸元を必死にかばう自分に気付き、恐怖は突然、猛烈な怒りに変わった。
何でこいつは俺と同じ目に遭わないんだ。
何で俺ばっかり、こんな羽目になる!
こいつが平然と傍にいるのが、もう耐えられない。
イライラして、何が何だかわからなかった。
「あっち行けよ! うぜえわ、お前っ!」
「お前濡れてるから風邪……。」
「うるせえっ。黙れクソが!」
ああ、もうダメだ。
さすがの将聖も、ぷつりと黙った。
怒っている。こいつは滅多に怒らないから、怒ったときが怖い。黙っていても全身から伝わってくる、噴き出すような怒りの感情に圧倒される。この上しゃべらせようものなら、頭がいいから絶対敵わない。
「……頼む。頼むから一人にしてくれ。頼むから。」
俺は両手で顔を隠して縮こまりながら言った。
「将聖。頼む。……俺、今ダメなんだ。」
この姿で泣くなんて卑怯だ。なのに両目から涙がぼろぼろ落ちてきて、抑えても抑えても指の間から流れ出てしまう。俺はそれを隠そうと、膝の間に頭を突っ込んだ。
将聖が、自分のブレザーを俺の頭の上からバサリとかけた。
「……なら、俺も頼むから。……勝手に、どこかへ行くなよ?」
将聖の声は静かだった。立ち上がり、俺から離れていく。
クソ。先手を打たれた。
俺はもう、どこかへ逃げてしまいたいのに。
逃げようにも行く当てがない。何から逃げたいのかも分からない。ただ、どこかへ逃げてしまいたい。どこか、遠くへ。
でも多分、俺はもう逃げられないんだろう。
俺は膝の間に突っ伏したまま、声を殺して泣いた。
――そして。
いつの間に、俺は眠っていたんだろう。
冷たい風が渡ってきて、俺は目を覚ました。頬を撫でられたような、不思議な感覚だった。
最初の夜のように、降るような星が見える。イザナリアに月はないのか、それともまだ月齢が若いのと、巨大樹に隠されてしまっているせいか、俺はこちらに来てからまだ月を見たことがない。だが梢の向こうに広がる凄まじい数の星々が、空を明るく照らしていた。
一つ一つは弱い光なのに、こんなに明るく見えるなんて。
こちらに来てから知った夜空に、俺は圧倒された。
……何故かこの夜空は、フォーリミナが俺のために用意してくれたような、俺を慰めるために見せてくれたような、そんな気がした。一瞬の冷風は収まって、信じられないほど澄み渡った空から、これでもか、とばかりに星々の光が降り注いでくる。
そして急に、俺は自分が一人じゃないということに気が付いた。
一人だったら、この空を見上げて、あまりの大きさに俺は怯えていたはずだ。
将聖が俺の背後にいた。俺の体を体で包み込むようにして眠っている。
焚火の傍ではなかった。俺が隠れていた藪の中に、将聖が滑り込んできたのだ。
将聖の寝息は深く、静かだった。
子供のころ、俺を寝かしつけようとして先に寝落ちた親父を思い出す。
いつも忙しくて、帰りが遅かった。だから、たまに構ってもらうと嬉しくて、寝落ちた親父の低いいびきをずっと聞いていた。
お袋とも違う、大きな安心感。
「将聖……。」
俺はつぶやいた。
「お前はあったけえな。」
俺は将聖の体温に体を預けて、もう一度目を閉じた。
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