008_受難-1

 異世界での第四日目も、巨大樹の森の中で暮れ始めていた。

 森を進むにつれ、俺たちは魔物と接近することが多くなってきた。将聖の危険察知能力がかなり高くて、正面から突然出くわすということはなかったが、それでも相手の動きが速いのと、俺の動きが遅いのとでニアミスることも多かった。どうやらこれまでの安全だった道のりは、かなり恵まれたほうであるらしい。徐々に俺たちにも、イザナリアではこんな危険と隣り合わせの状況のほうが普通なのだということが分かってきた。

 将聖が魔物の気配に気付くたびに、俺を岩陰に隠したり、木の上に引っ張り上げたりする。

 ――あー。俺ホント、完全に将聖の足手まといだな……。

 俺が自己嫌悪を隠しながら歩いていると、また、将聖が俺の肩をつかんだ。

「ダメだ。数が多すぎるっ!」

 どこに意識が飛んでいるのか、将聖が虚空を見ながら低く叫ぶ。そして俺を一瞬絶望的な目で見てから、なんと肩に担ぎあげて、今来た方向へ向かって走り出した。

 ――速い!

 俺は絶句した。

 ――嘘だろ、俺を担いでいるんだぞ?

 俺は将聖の背中に顎が何度も叩きつけられるのを避けるために、逆さまの状態であいつの腰にしがみついた。

 こうしたほうが安定するのか、将聖の体の動きもますます激しくなっていく。

 背後から擦過音さっかおんのような聞き慣れない音が追いかけてきた。黒板を爪で引っ掻くような、不快な音だ。

 それが魔物の咆哮だと気付いた時には、その黒い獣はすぐ近くまで迫っていた。

 ちゃんとその姿を確認したいが、下手に体を起こして将聖の動きを妨げたくはない。俺は恐怖を押し殺して目を閉じていた。足枷あしかせには足枷のプライドがあるのだ。

「……っ。」

 凄まじい殺気が叩きつけてきた。すぐそこにいる。

「ギャオアゥッ」

 まさに映画に出てくる化け物そのものの絶叫だ。そいつはひと声吠えると、将聖の肩、すなわち俺の背中に向かって飛びついた。

「――っ!」

 背中に痛みが走る。爪をかけられたのだ。制服のブレザーの上から、ワイシャツとタンクトップを突き抜けて、肉まで届く。将聖が脚力で振りほどいた。

「優希っ!」

「いいからっ! 走れ!」

 俺は将聖の背中に被さったまま叫んだ。こうすれば、将聖は傷つかない。

 ハッハッハッハッ……。

 頭のすぐ脇で、魔物の荒い息遣いがする。怖い。

 でも将聖に傷をつけるわけにはいかない。俺は息遣いから顔を背けながら、将聖の背中をかばうように体を伸ばした。

 こいつは俺のためにこんなに頑張っている。ずっとずっと頑張っている。睡眠時間さえ削って、頑張っている。だから、傷つけるわけにはいかない。

 突然、将聖が俺を体から引き剥がした。

 そして、放り投げた。俺の体は軽々と吹き飛んで、え、と思う間もなく水の中へ突っ込んでいた。

「~~~っ!」

 突然のことに、俺は水を吸い込みそうになるのを必死にこらえた。着衣のままの潜水は、抵抗が激しく体が恐ろしく重い。冷水に手足が一気に強ばるのを必死に動かして、俺は水面に顔を出した。

「将聖っ!」

 俺は森を流れる沢の深いよどみの中から、将聖を見て悲鳴を上げた。狼に似た魔物に喰いつかれている。

 その数、三頭。

 魔物は将聖の左腕と左肩、そして右の太腿に牙を立てていた。将聖が体を折り曲げるようにして、引き裂かれそうになるのをこらえている。

「将聖。……将聖! 将聖っ!」

 俺は岸に向かって必死に泳いだ。

「来るな、優希!」

 将聖が怒鳴る。

 だが、「来るな」と言われてと行かずにいられるわけがなかった。

 俺だって男なのだ。

 耳障りな咆哮がさらに近づいてきた。おそらく、後続の群れが迫っている。

 俺は無我夢中で手足を動かした。

 俺が岸にたどり着いたところで何ができるというのでもない。でも、あいつの盾になることぐらいならできるかもしれない。

 シャアアアアッ。

 擦過音さっかおんが悲鳴のように響いた。

 ――え?

 何が起こったのか、将聖の腕に噛みついていた一頭が、弾かれたように身をひるがえした。

 将聖の太腿をくわえ込んでいる一頭が、将聖を地面に引きずり倒そうとする。

 肩に喰いついている奴も、体重をかけて押し倒そうとしていた。

 ジャアアアアッ。

 キシャアアアアッ。

 まただ。

 魔物が叫び、そして将聖から離れる。今度は二頭同時だった。

 三頭は将聖を取り囲むようにして、くるくるとその周りを歩き始めた。

 だが、その様子が少し違う。距離をとるようにして、隙をうかがっているように見える。

 将聖は肩で息をしていた。剣道で間合いを計るときの、あの独特のすり足で相手の出方を窺いながら、呼吸を整えている。三対一で、全然気迫負けしていない。

 俺は流されないように岸に近い岩に身を寄せ、水中でガタガタ震えながら待っていた。これから何が起こるのか、全く予測できなかったが、今、将聖の邪魔をしてはいけないことだけは分かったからだ。

「そっちだ!」

「一頭でいい。殺せ! 金になる!」

 人の声がした。

 男の声だ。しかも、日本語。

 いや、多分日本語に聞こえているだけだ。この四日間、疲れたり喉が渇いたりはしても、まったく空腹は感じてこなかった俺は、フォーリミナが予測できる限り、俺たちがこうむるであろうあらゆる負担を取り除いて、俺たちをイザナリアへ転生させたことが分かってきていた。俺は今、イザナリアの言語が理解できている。だが、おそらく彼らの言語を日本語として認識しているだけだろう。ゆくゆくはこちらの言語を学ばなければならないかもしれないが、現時点ではありがたい。

 人が来た。どうやら武器を持っているらしい。これで将聖も助かる。

 なのに、何故か俺は見つかりたくない、と思ってしまった。

 見られたくない。誰にも会いたくない。

「お、なんだこのガキは?」

「襲われてんのか?」

「おい、そっちだ。手負いの奴はそっちにいるぞ!」

 森の中から武装した男たちが出てきた。武装した人間なんて、漫画や動画の中でしか見たことがない。鶏ガラのように痩せた男が、狂ったように笑いながら飛び出てきたときは、その手に弓矢が握られていてもまるで現実味がなかったが、下生えや小枝を薙ぎ払いながら現れた、スキンヘッドの巨漢の握る大剣が、ザン、と音を立てて地面に突き刺さるころには、俺は十分に彼らにおびえていた。将聖に何をされたのか、動きの鈍い魔物の周囲に、鋭く飛んできた矢が突き立つ。それから、頭頂が禿げて落ち武者のような髪形をした男が弓に矢をつがえて現れた。遅れてさらに一人、ほぼ顔全体が真っ黒な髭に覆われた、小柄だが屈強そうな男が現れる。

 武装した人間。

 日本で、俺の周囲に、そんな人間は一人もいなかった。

 怖い。ただ武器を持っているからというだけでなく、持つ雰囲気も怖かった。

 だが男たちは、将聖よりも魔物のほうに夢中だった。人が襲われているのに、それはないだろうと思ったが、射かけてくる矢は威力があり、魔物のすぐ足元にビンと突き立って微動だにしなかった。将聖を取り囲んでいた魔物たちも分が悪いと判断したのか、さっと身を翻し駆け去っていく。

「くっそ。弱っている奴がいたのに。」

「おらっ。とっとと追いかけるぞ!」

 男たちは行ってしまうようだ。

 そのほうが余程都合がいい。俺は流れに持っていかれた体温と体力の残りを振り絞るようにして、沢から岸へ這い上がった。

「将聖! 将聖っ!」

 俺の頭の中には将聖しかなかった。魔物が駆け去ったのを見届けると、将聖は腕を抑えるようにして地面に崩れ落ちてしまったからだ。

 だから俺は、男たちが俺の声に反応するように立ち止まったことに気づかなかった。

 将聖が、血を流していた。

 肩と太腿は制服越しに噛まれたのと、おそらく筋肉を締めて牙が深く食い込むことを防いでいたのだろう、さほど傷は深くない。だが、左前腕の傷は違っていた。牙の跡が穴になってくっきりと穿うがたれ、そこから血があとからあとから溢れ出てくる。

「出血が気になるけど、咬まれた傷だから、まずは洗ったほうがいい。黴菌ばいきんが入る。」

 俺は震える声で将聖を促した。将聖も頷き、歯を食いしばって立ち上がる。

「水は冷たいから、もしかしたら止血にもなるかも知れない。」

 俺自身の歯の根もうまく合わなかったが、俺は将聖のブレザーのポケットに手を突っ込んで、昼間に借りたハンカチを取り出した。将聖が自分で傷口を洗うのを待って、前腕をハンカチでくるみ、上から将聖のネクタイできつめに縛る。

 ――これで出血が止まってくれればいいが……。

 そう願うことしか、俺にはできなかった。怪我のことについては素人だから、これからどうなるのかまるで分らない。

 肩と太腿の傷にも何もできなかったが、こちらは何とか血が止まりそうだった。

 俺が将聖の傷を縛っている間に、気が付くと、背後を男たちが囲んでいた。

「おい。」

 突然声をかけられて、俺たちはびくりとして振り返った。

「お前ら、この辺りの人間じゃないだろ。どこから来た?」

 俺は背筋がさあっと冷たくなるのを感じた。日本なら怪我人を見たら「大丈夫か?」と気遣うのが一般的だ。以前地下鉄に乗っていた時、高齢の女性が車内で眩暈めまいを起こして倒れたことがあったのだが、その時は周囲の人々が「どうしました?」「大丈夫ですか?」と声を掛けながら集まっていったものだった。そしてそれを、俺は異常だとも不思議だとも思ってはいなかったのである。

 最初に停まった駅で、乗客の一人が車両から飛び出し、車掌に異変を伝えるため手を振った。おそらく非常ボタンを使って全車両の乗客を驚かせるような真似をしたくなかったのだろう。ほかの数人の乗客も、その女性の知り合いではなかったようだが、駅務員が現れるまでずっと傍で付き添っていた。駅務員が到着した後も、事情を知る人がそのままその駅に残り、駅務員に説明したり女性を励まし続けていたりしたのが印象的だった。

 ところが今、あからさまに向けられたのは、余所者に対する不信感だけだった。

 ――ここは日本じゃない。

 そう俺に知らしめるには十分な言葉だった。

 俺は男の言葉にすっかりひるんでいたのだが、将聖はまだ痛みに顔をしかめていて、会話をできる状態ではなかった。

 仕方ない。俺は自分が前に出て答えることにした。

「遠くから…です。魔物に追われてきたんです。」

 将聖からレクチャーされた「設定」が、まだきちんとインプットしていない俺は、しどろもどろになりながら答えた。

「お前たちだけか? 連れはいないのか?」

「はい。おれ……私たちだけです。」

 男たちは俺を見て、何かひそひそと話し始めた。

 その目つきが何だか不快で、俺は落ち着かなかった。

 じろじろと遠慮のない目で、俺を見る。

 やっぱり俺はどこか変なのだろうか。まあ、服装がこいつらの目には変に映るだろうことは認めるが。

「魔物に襲われたのか。そいつは可哀想にな。」

 落ち武者が言った。何だか、白雪姫にリンゴを売る魔女みたいな声だと思った。

「ついてこいや。何もねえが、傷くらいは診てやるぜ?」

 俺は将聖を見た。将聖は不安そうだったが、俺はこいつの傷を誰かに診てもらいたかった。この男たちはどこか胡散臭いところがあるが、俺よりは傷を診ることに慣れているような気がする。

「ありがとうございます。」

 俺は申し出を受けることにした。


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