003_目覚め-3

 自分の身体からだの変化に気づいても、俺はすぐに反応できなかった。

 ぽっかーん。

 まさに、そんな感じだ。頭の中が真っ白だった。

「なに? 何で? 俺今女なんだけど。」

 しばらく呆けた後、俺はようやくまたその驚きを言葉にした。

 自分で自分に言い聞かせないと、何が起こっているのかよく分からない。

 女の胸がある。丸く膨らんだ袋が二つ、胸板にぶら下がっている。それがただただ、気持ち悪かった。気持ち悪すぎて、触ってみようという気も起こらない。

「え? 何これ。ええええ~……。」

 俺は何度もシャツの中を確認した。何度見ても結果は変わらないのだが、何度見ても現実とは思えない。驚きの渦に飲み込まれて、ひたすらぐるぐると攪拌かくはんされているような気分だった。大声で悲鳴を上げたいのに、ひどく乾いた言葉しか出てこない。

 将聖がようやく、あきらめた様子で振り返ったが、俺がもそもそとベルトを外して前ファスナーとトランクスを下げ始めると、こむら返りでも起こすんじゃないかという勢いでまた顔を背けてしまった。

「……ない。ない。俺のが、ない。」

 目の当たりにして、ようやく声が震えてきた。自分の声が、見えない壁の向こうから聞こえてくる。

「俺の息子が、どっかへ行った。」

「……それ、俺がお前のパーツをいろいろ貰っちゃったから。」

 将聖がのろのろと口を開いた。

「お前、息子が二つもあるのか?」

「いや、二つはないけど。俺の筋肉支えるためには下垂体とか副腎皮質とかが強くなければならないとかなんとかで、いろいろ移し替えられちゃって。全部じゃないけど、お前の幾つかの内臓はだいぶ縮小してしまってる。それで、その状態で元の体のまま生き返ると、いろんなことが維持できないって話だった。だから、お前を『再構築』でまた男にするのは危険だって言われて……。」

「じゃ、お前、俺が女にされたの、知ってたのか?」

 俺はまだ、何の感情も抱くことができぬまま、将聖に尋ねた。

「……うん。ごめん……。」

 躊躇ためら躊躇ためらい、将聖が答えた。俺から顔を背けたまま、ずっとうつむいている。

 へえ、と俺はつぶやいた。もうそれしか言いようがなかった。

「なあ、将聖。これって、元に戻るよな?」

 俺は将聖に訊いた。え、という声を発したきり、将聖は固まった。

「俺たち、転生しちゃったから少し体がおかしいけどさ、だんだん元に戻るんだろ?」

 将聖がいつまでも動かないので、仕方なく俺はトランクスとスラックスを着なおした。きちんとベルトも締めて顔を上げると、ようやく将聖が振り返る。

 深刻な表情かおだった。いまだかつて見たこともないほど深刻な表情で、将聖が俺を凝視していた。

 しばらく見つめあって……、ようやく俺は理解した。

「……これ、戻らないのか?」

「……俺はやめてくれって言ったんだ。」

 将聖がかすれた声で言った。言い訳だと気づいたらしく、またさっと顔と目を背けてしまう。振り払って隠そうとしたらしいが、その目から涙が飛び散った。

 俺の胸に、じくじくとした不安が込み上げてきた。

 どうやら転生と同時に、俺は女にさせられてしまったらしい。そしてどうやら、男には戻れないらしいのだ。

「な、何するんだ?」

 突然ふらつく体を踏ん張って俺が立ち上がろうとしたので、将聖が引き留めるように肩をつかんだ。俺はその手を振り払って、また無理に立ち上がろうともがいた。

「便所。ションベン。俺、ちびりそう。」

 手足がぶるぶると震えた。おそらく今の四肢には慣れていないせいだろう。将聖がまた助けようと手を出してきたが、俺はもう一度、今度はもっと力を込めて振り払った。

「こっち来んじゃねえよ。それから絶対に、こっち見んなっ。」

 俺は必死に立ち上がった。

 頭が重い。体のバランスがうまく取れない。

 俺はふらふらしながら焚火の光の届かない、藪の中へと入っていった。

 ――ションベンって、どうやってするんだっけ?

 思考が完全に停止してしまっていた。ファスナーを下げて自分の一物いちもつを探すが、手を突っ込んでも見つからない。

 ――ああそうだ。女はしゃがんでするんだったな。

 体ががくがく震え始めた。早くしないと、スラックスがびしょ濡れになってしまう。

 俺は左手を巨大樹の幹にかけて体を支え、右手でベルトのバックルを外し、スラックスとトランクスを下げた。そろりそろりとしゃがみ込み、ようやく用の足せそうな体勢になったが、今度はションベンが出てこない。あんなに切羽詰まった感じだったのに、ぴたりと止まってしまっている。

 この場所まで来て、この体勢になるまでの苦労を考えると、出さないで帰るのは得策ではない。俺がしばらくいきんでいると、ようやくちょろちょろと流れ出てきた。ションベンと一緒に、涙も出てきた。

 なんだかとてつもなく気分が悪かった。尻を全開にしないと用が足せない。それだけでも何か無理やり無防備にさせられてしまった感じがするのに、後始末までもが必要な感覚だった。軽く振って水気を落とせばいいというものではないらしい。俺は必死で手近にある草の葉を引きむしった。薄暗い光の中で、何度も変な虫がついていないことを確かめてから、ションベンが流れ出た辺りを拭く。それでもそのままトランクスを穿くのが躊躇ためらわれ、俺は目を閉じてスラックスごと引き上げた。変な場所を触ってしまったので手も洗いたいのだが、ここに水はない。また柔らかそうな草を引きむしり、よくもんだものをおしぼり代わりにして指先を拭いた。爪の間まで緑に染まったが、その青臭い匂いでションベンの臭いが消えることを願った。

 無事に用を足せたことに安心し、大きく深呼吸をして。

 ……そして俺は絶叫した。

「何だよこれぇっ!」

 涙が噴き出した。気持ち悪い。とてつもなく気持ち悪い。

 あまりにも恐ろしいことが起こってしまった。

 自分が吸血鬼になってしまったとしたら。自分が狼男になってしまったとしたら。

 ほかにどんなことが起こったら、こんな風に感じるのだろうか。

 心が、魂が、肉体を脱ぎ捨ててしまいたいと切望するほどの、自分自身への嫌悪感。

「何だよこれっ! 何だよこれっ! 何だよこれっ!」

 俺はわめき、体をかきむしった。どこかへ逃げたくて森の奥へ駆け出そうとしたが、すぐに地面に倒れこみ、ますます身悶えするほどの怒りに駆られた。立ち上がろうとしたが手足が言うことを聞かない。俺は肘と膝をついたまま、頭を地面に打ち付けた。

「こん畜生っ! こん畜生っ! こん畜生っ!」

 将聖が血相を変えて飛んできた。

「何してる、優希っ!」

「放せクソが! この卑怯者!」

 背後から腰に腕を回して、地面から強引に俺を引き上げた将聖に向かい、俺は怒声を張り上げた。涙声まで甲高く耳に突き刺さる。

「知ってて黙ってたな? さっきから素知らぬ顔しやがって!」

「いや、その、素知らぬ顔をしていたわけじゃ……。」

「じゃ、何で最初っから言わねえんだよっ。」

 将聖は上を向いたまま、真っ赤になって黙っていた。真面目な将聖はこういう時、一人で責任を感じて反論を止めてしまうのだ。その目からもあとからあとから涙がこぼれてくる。

 クソ。俺だって分かっている。これはあいつのせいじゃない。

 あいつが悪くないってことは、分かっている。

 だけど、……だけど。

 俺は将聖の腕から逃れようと、手足をばたつかせた。

 受け入れられるものと受け入れられないものってのがあるだろっ!

 こんなことが受け入れられるか! こんな、こんな恥ずかしくて気持ち悪くて最悪なことが受け入れられるわけないだろが!

 受け入れられるか! 受け入れられるはずあるか!

 俺は男だ! 男として十七年を過ごしてきたんだ!

 俺は、男だ!

 今さら、女なんかやってられるか!

「何だよこれっ! 何だよこれっ! 何だよこれっ!」

 俺はわめき続けた。わめいていないほうがおかしくなってしまいそうだった。

「最悪だ。最悪だっ。……最悪だ最悪だ最悪だっ!」

 俺は叫びながら泣き続けた。自分自身が気持ち悪い。吐き気がした。目が回る。

 げふっ。

 俺が体を二つ折りにし、吐きながら泣くのを見て、ついに将聖も泣きだした。

 吐きながらといっても、出てくるのは胃液が少しばかりだったけどな。

「ごめん、優希。ごめん。……ごめんっ!」

 将聖は俺を無理矢理立たせると、自分に向かせて取りすがるように両肩をつかんだが、俺はあいつの胸を乱暴に押しやった。

「触んじゃねえよっ!」

 将聖は、俺の細腕に素直に突き飛ばされて尻餅をついた。そのまま項垂うなだれて膝を抱えると、肩を震わせて泣きだした。半狂乱になっている俺よりも、みじめな姿だった。

 将聖の支えを失った俺も反対側に尻餅をつき、腹を押さえたままわあわあと泣いた。

 体の中を、嵐が吹き荒れる。

 ぐるぐると色々なものが渦巻いて、すでに内臓はぐちゃぐちゃに混ざり合っているのではないかと思ったくらいだ。

 俺は声を上げて泣き、将聖は声もなく泣いた。

 後から振り返ると、俺にあそこまで泣かれた将聖が、あの時どんなに傷ついて、辛い思いをしたのだろうと思う。あの時すでに将聖は、俺の一生の面倒を見るつもりでいたんだろう。

 そのための、俺は足枷あしかせなのだから。

 俺たちは泣くだけ泣いて、ひたすら泣き続けた。

 それが俺たちの中に、何か浄化作用を起こしたのかもしれない。

 しばらく泣き続けて……、俺たちは泣くのに疲れ果て、どちらからともなく泣き止んだ。

 何だか泣きすぎて、体がふわふわする。

 こんな風に泣いたのは、ずいぶん久しぶりの気がした。小学生以来かもしれない。

 ぼおっとする頭をあいつに向けて、俺は言った。

「もう寝るわ。とりあえず、明日になったら食い物か町を探そうぜ?」

 目と鼻を真っ赤にした将聖も頷く。こんな時なのに、濡れたまつげが綺麗だと思う。

 さっき起きたばかりなのに、俺はどっと疲労感に襲われて、どうにか寝ていた元の場所に戻ると、また倒れこむように横になった。目印は地面に敷いてあるブレザーだったが、ふと見やると俺はちゃんと自分のブレザーを着ていて、それは将聖のものだと気づく。ワイシャツだけのあいつが寒そうだ。

 返さなきゃ、と俺は頭の片隅で思ったが、意識はすぐに暗闇の中に呑まれていった。




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