001_目覚め-1
パチパチと音を立てて燃える火を、俺はぼんやり見つめていた。
焚火なんて、本当に久しぶりだ。中学の学校行事のキャンプファイアー以来だ。
――結構暖かいんだな。
俺は思った。火はやや離れているのに、オレンジ色の光がちゃんと届いているというだけで、そちらに面した腹側は背中側よりずっと暖かいのだ。布団ではない、何か硬いものの上に寝ていて、そのせいで下から体温が奪われていく感じがするのだが、焚火はそんな寒さにも温もりを補ってくれている。
ゆっくりと、ゆっくりと意識が戻ってくる。
――ここは、どこだ…?
俺は周囲を見回した。体はまだ重かった。頭も起こせない。ほんの少し視線を動かせるだけだ。
――すごい……。何だ、あれは。
俺はとてつもなくデカい木々に囲まれていた。降るような星空を背景に、巨木の梢が遥か高くに見えて俺は驚く。黒いシルエットが放射状に頭上を覆い、
次に俺は、その星空に目を奪われていた。
すごい。すごい。夜空にこんなに星があるなんて。これほどの数が空を覆っているなんて。
あまりにも綺麗過ぎて、怖くなった。吸い込まれそうな、とはよく言ったものだ。
俺は、本当に自分がこの星空に吸い込まれて拡散してしまいそうで、目を逸らした。
すごい数の虫の声がする。
――さっきから、俺は『すごい』ばかり言っているな。
わずかばかり我に返って、俺は内心
はっきり言って、俺は虫の中に寝ている。すぐ頭のそばからも聞こえてくる。
こんな大自然の中には、いたことがない。
――そうだ。将聖。
徐々にあの記憶が蘇ってきた。将聖が異世界転生する、まさにその瞬間に立ち会った記憶だ。まるで夢のような記憶だが、夢ではない。そのことを、俺は確信していた。
――結局、俺も便乗しちまったんだな。
地球世界で、俺は死んでしまった。そしてこのよく分からない世界で、また新たな人生を生き直そうとしている。それが喜ぶべきことなのか、恨むべきことなのか、まだ俺には分からなかった。
ここは地球世界じゃない。俺たちはもうあの日常に、帰ることはできない。
改めてそう思った途端、急にとてつもない不安が込み上げてきた。何かが喉元までせりあがってきて、息もできない。胸がどっどっどっ、と激しく鼓動して、耳の奥がその音だけでいっぱいになる。全身に汗が吹き出し、吐き気がした。
俺はこれから一体、どうなってしまうんだろう。
周囲の大自然に、
まだ何も起こっていない。なのに、怖くて怖くて仕方がない。
ラノベの主人公たちは冷静すぎる。というか多分、不感症だ。全く知らない、文明があるのかどうかも分からない異世界に飛ばされて、何故それが簡単に受入れられるんだろう? 何故パニックを起こさず、孤独と恐怖を感じずにいられるんだ?
空の上の将聖が、あんなに動揺していた理由が分かってきた。
俺はつくづく馬鹿だから、異世界転生したらその後どうなるかなんて、あの時は考えもしなかった。ただラノベそのものの光景に(まあ、主人公があんなに泣き叫んでいるラノベは読んだことがなかったけど)、まんまやん、スゲー、とか呑気に思っていただけだった。
将聖は分かっていたのだ。あいつ、頭がいいから。
将聖はすぐに予測できたのだろう。俺たちが日常から引き離され、まったく知らない世界に放り込まれた先で、どんな生活が待っているかということを。
そこには今まで当たり前に享受していた、便利で快適な文明が存在するとは限らない。例えば「水を飲みたかったら蛇口をひねればいい」という日本の水道事情は、本当は地球世界においても珍しいことなのだ。向こうにおいてさえ、依然として子どもたちが数キロ先の水場に水を汲みに行くのが当たり前、という地域が存在しているが現実なのである。今俺たちがいるのは、それと同じような歴史的地点に立つ世界であるのかも知れない。
もちろんここが、地球世界よりはるかに文明の進化した世界であるという可能性だってあり得るのだった。ここは地球よりも科学が発展し、機械化が進み、しかも人類と自然とが調和した理想的な社会であるのかも知れない。
だが、そんな世界であったらあったで、俺たちはどう振舞ったらよいか分からず、混乱することになるだろうと思われた。文明があるということは、その文明に即した行動を求められるということだ。そこには特有のルールがあり、誰もがそのルールに従うことが暗黙の
そのルールを知らず、それができない人間は、どのように扱われることになるのだろう。
それを例えて言うなら、黒船来航当時の世界の中の日本のようなものだ。日本が鎖国をしている間にも世界は動き、知らぬ間に国際間のルールが敷設されていた。取り残されていた日本は不平等な条約の締結を強いられ、ノルマントン号事件のような人種差別さえも受けることになった。要するに、はるかに進んだ文明が常に後進者を暖かく出迎えてくれるとは限らないということなのだ。
何も知らない俺たちは、「遅れた原始的な人間」として嘲笑され、差別される日々を送ることになるのかも知れない。
俺たちには誰も頼る人がいない。
頼れる金もない。頼れる情報も、知識も経験もない。俺たちがすがれる法律や機関のようなものが存在しているかどうかも分からない。
そんな世界に降り立って、果たしてまともに生きて行けるのだろうか。
将聖は気付いていたのだ。その理不尽な困難に。
一日一日が、サバイバルになる。明日生きるために今日食べなければならない、ちゃんとした食料を手に入れるのにさえ、果てしない努力と忍耐を要求されることになるかもしれない。
「将聖。将聖……っ!」
恐怖のあまり、俺はあいつの名前を呼んだ。体を起こそうとしたが、まだうまく力が入らなかった。
「将聖……っ! ごほっ、ごほっ!」
口の中がごわごわで、俺は言葉半ばで咳込んだ。一度咳込むと発作のようになり、しばらくは止めることもできなかった。
「……? ……っ! 優希!」
少し離れたところから、将聖の声がした。
「優希! 今行く!」
離れたといっても、互いの声が届く距離だ。方角ははっきりしており、虫の音以外に遮るものもなかった。
しかししばらくは何かに足を滑らせる音や、下生えをかき分ける音ばかりがした。その姿が森の中から現れるまでは、結構な時間が必要だった。
これが、この世界における、俺たちの能力か。
「優希! 目が覚めたのか。良かった…。」
「大丈夫か? どこか、苦しいのか?」
「悪い。平気。ちょっと、口の中が気持ち悪いだけ……。」
俺はまだ咳に喘いでいたが、大丈夫、というように手を挙げて、落ち着くまで待った。
「将聖こそ、大丈夫なのか? ……気分、悪くないか?」
オウム返しのように、俺もそう尋ねていた。あれほど大泣きした将聖を、今まで見たことがなかったからだ。未来が見通せるからこそ受けたショックも大きく、「すぐに立ち直るのは難しいのでは?」と思っていたせいもある。
だが、あれから結構時間が経っていたらしい。将聖はすっかりいつもの将聖に戻っていて、真っ赤になっていた目の腫れも引け、すっきりとした顔になっていた。今の姿は「いつもの将聖」というにはちょっと
ただ、俺のことがずいぶん心配だったのだろう、やや狼狽したような、落ち着きのない表情で、将聖はずっと俺を凝視していた。
「俺は大丈夫だ。……今の俺、気になるか?」
「別に。そんならいい。」
俺はしゃべりながら、喉を押さえた。さっきからなんか、声が変だ。裏返っている。いつもの声を出そうとして喉をゲホゲホとさせてみたが、うまくいかない。
体に思うように力が入らないと、咳をするのも一苦労だった。喉元に引き寄せた両腕が重い。
だが、不思議だった。
将聖が現れただけで恐怖が消えた。飲み込まれそうなほどに大きく感じていたのに、それが噓のようだ。
不安は、残っている。この不安は多分、消すには途方もない時間が必要だろう。しかしじりじりと胸を内側から掻きむしるような恐怖はなくなっていた。
今、落ち着いている将聖も同じ気持ちなのだろうか。
俺はまた、体を起こそうとした。隣ではなぜか将聖が、ビクッと
頭が重い。
それでも俺はちゃんと周囲を確認したくて、起き上がろうと両手を踏ん張った。
いつもよりも数段頼りなく感じる腕を支えに、上体を起こす。
ようやく、横座りの姿勢になれた。
「森だ。」
周囲を見回して、俺は言った。体を起こしたからといって、木々の隙間から街の灯が見えるわけでもなかった。
「……異世界だ。」
しばらく間をおいて、将聖が言った。その顔は張りつめていた。
「知ってる。」
俺は答えた。
「俺も聞いていたんだよ。お前とあの青いのの会話。途中の少ししか聞いていないと思うけど、大体知ってる。その姿のことも分かってる。……お前、選ばれちゃったんだな。」
「選ばれたって、何だよ。ただ移住させられただけだろ。なんでこうなったんだか……。」
「移住って……。あっちでは俺たち、死んじゃったんだろ?」
「うん。死んでる。」
将聖の口ぶりが、苦々しくなった。
「俺たちは向こうで一度死んで、こっちの世界に魂と肉体を持ってこられて、また生き返ったんだ。俺たちの死体は、家族に消えたことがバレないように、火葬場の焼却炉に入れられてから、こっちの死体とスリかえられたんだそうだ。」
「そんなことまで説明されたのか? ……どうだっていいだろうに……。」
「もう帰れないってダメ出しされたのさ。うちの家族もお前んちの両親も、俺たちの死体を十分に見せられて、俺たちが死んだって突き付けられて、それを灰にして、無理矢理受け入れたみたいだ。……今更帰っても、混乱させるだけだ。」
「そっか。」
これが異世界転生か。
俺は腹の奥がきゅっと捻じれたような感覚を覚えた。
想像していたのと、まるで違う。
俺の思う異世界転生は「主人公のみに許されたご都合主義の設定の中で、波乱に満ちた運命さえイージーモードで乗り越えつつ、大勢の美少女たちに囲まれて何不自由なく暮らして行く」というものだった。今いる場所も、起こっていることも、そんな世界からは程遠い。
それでもまだ、深刻な将聖に比べ、俺の悲壮感は浅かった。
頭のいい将聖と違い、まだいろいろ理解していないせいだったのかもしれない。
「もううちには帰れないのか。俺『転スラ』みたいな明るい転生モノのほうが好きだったんだけどなあ。」
「お前、ここで『転スラ』を期待したら、多分、痛い目にあうぞ。」
将聖は言った。
「俺たちが異世界で、何ができるんだ? 持ち込めそうな技術とか、何か持ってるか?」
「ないね。」
俺は即答した。冗談めかして言ったつもりだったが、顔が硬直して笑うことができなかった。
「でも、お前は『世界の均衡』とやらのために選ばれたんだからさ、何か持ってんじゃないの? チートスキルとか。」
「だから『選ばれた』とかじゃねえよ。ただの移住だってば。」
食い下がってみたが、将聖は即座に否定した。「全然違うだろ」という
「うん。気持ちは分かる。でも、お前が選ばれちゃったのも、なんか分かる。」
慰めでもなんでもなく、俺はそう言った。
青い球体の言葉を思い出す。
「私がお前に望んでいるのは、なにも勇者や英雄になれということではない。お前は新しい世界に行き、そこに住み、そこで生きて、その世界で友を得、家族を作り、暮らしていけばいいのだ。」
確かあの球体は、そんな事を言っていた。言われてみれば確かに「移住」に近い内容ではあった。
だが俺には、球体が将聖に対し、もっともっと大きな活躍を期待しているように思われたのである。例えば「勇者のパーティの一員になる」とか、「英雄の右腕としてその旗下で働く」くらいの活躍を、だ。決して「ずっと見劣りする存在でいていい」などという意味で、ああ言ったのではない。むしろ勇者や英雄にさえ比肩し得るような、そんな存在であって欲しいと願っていたような響きがあった。
そして「それくらいのことは、こいつにはできる」と俺は思っているのである。
だというのに、こいつは自覚が足りない。早く自覚させないといけない。
こいつがチートスキルとか、自分の運命に目覚めなければ、俺たちはこの世界で生きていけないんじゃないだろうか。
色々言ってやりたいことはあったが、うまく言葉がみつからなかった。
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