Paris 糸口

「やっぱりめぼしいものは特にないですね」

 電気をつけていない真っ暗闇の部屋。パソコンから放たれるモニターの光がまぶしい。その光に照らされ、ヨシムラは残念そうに言った。

「書類やファイルのデータとかの中身も、特にこれと言って事件の手がかりになるようなものはありません。メールの中身も仕事関係のものばかりです」

「そうか…。メグレ警視、他に遺留品は無かったのですか?」マルセルがメグレに確認する。

「まぁ死体の中にあった財布ぐらいかな」

「ちょっと見させてもらってもよろしいでしょうか?」

「あぁ、そこにある」

 奥にある長机の上をメグレが指差す。そこにはキリタニの自宅で押収した書物、煙草から歯ブラシなどの生活用品までもがビニール袋に包まれて並べられていた。

 その中に黒い折りたたみ財布が入ったビニール袋があった。マルセルは指紋をつけぬよう手袋を着用すると、ビニール袋を開けて財布を取り出した。折りたたみ型の財布を広げる。ユーロ通貨の紙幣が数枚。他には免許証。クレジットカードやキャッシュカードの類は入っていない。確かにこれだけだと何の手がかりも掴めない。

「駄目か」

 マルセルは財布をビニール袋に詰め戻し、机の上の元あったところに置いた。

 その時、ふと横にあるビニール袋に目がいった。

「警視、これは?」

 ビニールの中には手のひらサイズ、紫色をした布製のものが入れられている。

「あぁ、それもキリタニの遺体の中に入っていたやつだ。中には白い粉が入っていて麻薬かと思ったらただの塩だったよ」

「塩ですか?」

「それは御守りというものです」

 ヨシムラが割って説明する。

「いわゆるクリスチャンにとっての十字架みたいなもので、日本で最もポピュラーな御守りですね。塩は広く厄よけを意味します。自分自身の健康を祈るためや、学生が受験をする時の合格願い、恋愛成功を願うために持っている人もいるんですよ」

「キリタニは何かしらの宗教を信仰していたということかな?」

 マルセルの言葉をヨシムラが笑いながら否定する。

「いえいえ、無宗教でも持っている人はたくさんいますよ。それぐらい日本ではポピュラーなものです。日本ではお寺という簡単に言えば神様に願い事をする教会のような場所があります。そういったところで売られている物ですね。どこの御守りかしら。ちょっといいですか?」

 ヨシムラがマルセルから〈御守り〉の入ったビニール袋を受け取ると、ビニール袋の端をつま先でつまみ、ぐるぐると回す。

「どこだろう?東京のお寺かな」

 日本語だろうか。何やら一人でつぶやき始めた。

「メグレ警視、ちょっと中を見させてもらってもいいですか?」

「あぁ。大丈夫だ」

 メグレの許可を取り、ヨシムラがビニール袋から〈御守り〉を取り出す。布を縛っている紐をほどき、中からまたビニール袋に入れられている塩を取り出した。やはり日本では普通の文化なのか、ヨシムラは塩に対しては特段興味を示さない。中身が空になった布をつまんでは、ぶつぶつ独り言を言っている。

「何か気になるのか?」メグレがヨシムラに尋ねる。

「少し。普通こういった御守りって、そのお寺の名前が外側の袋に印字されているものなんですが、この御守りには何も書かれていません。気にしすぎなのかもしれませんが…」

そう言ってヨシムラは塩を袋に戻し〈御守り〉を机の上に置いた。

「メグレ軽視、パソコンのウェブ閲覧履歴については何かご確認されましたか?」

「あぁ、実は私もそれが気になっている」

「どういうことですか」

「実はウェブ閲覧履歴を見るとどうやらメールアプリを使用していた形跡がある」

「メールアプリ?いわゆるグーグルとかヤフーなどのフリーメールですか」

「一見似たようなものだが情報技術部によると、もう少し複雑らしい」

 メグレとヨシムラのやり取りにすっかりマルセルは取り残された。年代的にもパソコンなどのデジタル機器に触れて生きてきたわけではないので、さっぱりわからないことが多い。娘の出産祝いの時もインターネットを使って初めてベビー用具を通販で購入したが、やり方が全くわからず、近所の人間を呼ぶレベルの人間には異次元の会話だ。

「複雑とは?」

「何やら特殊なアプリみたいでな。パスワードを打ち込んでログインするのは一般的なフリーメールと変わらないが一回でも失敗したら、全てのメールの送受信記録が端末から完全に抹消される仕組みになっているとのことだ。アプリの開発企業にも問い合わせたが、抹消されたら開発者にも完全に復元は無理らしい。そう言った理由で情報技術部でもパスワードの解析は慎重になっている」

「パスワードとはどういったものですか」

「それがパスワード自体は数字8桁という至ってシンプルなものらしい」

 メグレの言葉を受けてヨシムラが再度、パソコンと向き合う。ウェブの閲覧履歴からどうやらそのメールアプリのログイン画面を映しているようだ。

「ここに数字8桁か…」1人呟くヨシムラに「勝手に打ち込むんじゃないぞ。データが消えたら困るからな」とメグレが釘をさす。

 数字8桁…。マルセルの頭の中に瞬時にある数字がよぎった。ここまで直感的な感覚を持ったことはこの歳にして生まれて初めての感覚だった。

「メグレ警視」

「どうした」

「私にパスワードを打ち込ませてください」

 マルセルの言葉にメグレとヨシムラが驚きの反応を見せた。

「8桁。おそらくこれじゃないかという数字があります」

「おそらくでは困る。許可出来ん」

「自信はあります。これで失敗したら覚悟は出来ています」マルセルは自身のスーツの内ポケットから警察手帳を取り出した。

「本気か?」差し出された警察手帳にメグレとヨシムラが目を丸くする。

「はい。信頼するモーリス警視が事件に関わっているんです。私の警察人生をかけてでも事件と向き合いたい。本気です」

 マルセルの覚悟を確認したメグレはヨシムラに席を譲るよう促した。席を立つヨシムラは不安そうな表情でマルセルを見ている。席に着くとマルセルは両手の人差し指を伸ばし、不慣れな手つきでキーボードをゆっくりと叩き始めた。8回目のキーボードを叩いた後、心地よい鈴の音がパソコンから発せられた。どうやら成功したらしい。

「うまくいったのか?」メグレが画面を覗く。

「どうやらそのようですね」同じく画面を覗き込んだヨシムラも口にする。

「マルセル、パスワードは何だったんだ」

「数字8桁。19771210。例の日本での強奪事件の発生日です」


 メールの内容はほとんど日本語でのやり取りだったので、再びヨシムラに席を譲って内容を確認してもらうことにした。

「メグレ警視、マルセル警部」

 10分ほど経った頃、ヨシムラが2人に声をかけてきた。

「このメールアドレスを使ってキリタニがやり取りをしていた人間はそう多くありません。主に3人から4人といったところですね」

「メールの中身は?」

「相手によって様々ですが…。一番やりとりが多いのはカワムラという人物とのメールですね。次にマエシロという人物。メグレ警視、もうちょっと調べさせてもらっていいですか?」

「あぁ。でもパソコンの持ち出しは認められないぞ。それに今日は遅い。2人とも帰って休むんだ。ヨシムラ女史。明日、また報告を頼むよ」

 時計を確認すると午前3時半をまわっていた。しかし不思議と疲労感は無い。何か糸口が掴めたかもしれないという期待感、そしてモーリスの衝撃の告白が入り交じり、マルセルの神経は完全にハイの状態になっていた。

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