番外編⑤

 ミンさん、めちゃくちゃ幸せそうに寝ているな……。

 ベッドの狭さでいつもよりもミンさんとの距離が近いことで熱を強く感じる。


 こてりとこちらに向いたミンさんの寝顔を眺めていると、ヒナ先輩の囁く声が耳に入る。


「トウリくん、起きてる」

「起きてますよ」

「……ミンちゃんの言ってること、楽しそうだなって、思ったの」


 嬉しそうな声でも、楽しそうな声でもなく、極めて淡々と事実を伝えるような声色。


 ……ヒナ先輩は、どこかこういうところがある。

 明るくて面倒見が良くて優しい。

 けれど、何というか冷静な部分が見え隠れしているのだ。


 ミンさんとは違って、おそらく本音で話してくれている時も薄い布を一枚挟んだような手触りがあった。


 それが唯一感じられなかったのは、俺の遺書を読んで泣いてくれたときぐらいだろう。


「仲良しの人とずっと一緒に暮らす。ハッピーエンドのお伽話みたいで、素敵だなって」

「……まぁ、そうかもしれないですね」


 ヒナ先輩との間に感じる薄い布は、きっと知性とかそういう風に呼ばれるものなのだと思う。


 他者を助けるには必要な冷静さ、他者を傷つけないために行うべき所作。

 人に優しく接するために必要なその知性をヒナ先輩は持っていて、だから俺もミンさんも救われているのだろう。


「……でも、上手くはいかないと思う。……周りからは好奇か嫌悪かの目で見られるだろうし、年をとって子供のままいられなくなったときは公的な手続きが必要で困るだろうし。何より……たぶん、嫉妬しちゃうよ。トウリくんがミンちゃんに夢中になってるところを見てたら」


 たぶん、本音だろうけど、本音ではないのだろうと思う。

 本音は……たぶん、俺やミンさんを傷つけるかもしれないと思っているのだろう。


 ヒナ先輩は、自分の傷を気にしない人だ。

 お互いを傷つけない薄い布は、自分が傷つかないためではなく俺たちのためなのだろう。


「……ヒナ先輩は、優しいですよね」

「そんなことはないと思うけど」

「ミンさんのこととか、考えてあげてるんだなと分かります。……けど、その優しさは傷つけないように布越しに触るような優しさで。ミンさんも俺も、少し人肌恋しく思うこともあるんです」


 俺の言葉にヒナ先輩は「ん、んー?」と良く分からないような声を上げて、少しだけ身を起こして俺を見る。


「さ、三人でえっちなことをしたいって意味?」

「違います」

「違うんだ……」

「優しくされるのは他人行儀に感じて寂しくなるときもあるという、我儘です」

「我儘かぁ。……じゃあ、聞いてあげないとね」


 くすりとヒナ先輩は笑う。

 小さな手が俺の方に伸びて、俺の頬を触る。


「……どうしたいのか、私も分からないよ。ミンちゃんの言う通りにしたらきっとみんな辛い思いをするだろうし、潔く身を引いても、ミンちゃんを押し除けても、後悔すると思うんだ」


 俺は頷く。


「……全部が望み通りには当然ならないなんて当然でさ」


 ヒナ先輩はそう言ってからミンさんを乗り越えるように俺の顔を覗き込む。


「私、トウリくんのこと好きなんだ。とっくにバレてると思うけど。……たぶん、トウリくんが思ってるより、ずっと好きでだから……」


 ヒナ先輩と目が合い。

 一度気恥ずかしさからお互いに視線を外してから、もう一度目を合わせる。


「傷つくのも傷つけられるのも怖くて、臆病で流されがちな、そんなヒナ先輩になってしまうんだ」

「……流されてくれるんですか?」


 思わず口にした言葉。

 ヒナ先輩は困ったように、少し嬉しそうに口の端を小さく動かす。


「……うん」


 強引に手を引けば、きっとこれからも一緒にいてくれるのだろう。

 けれども、ヒナ先輩が言う通りに世間からの目は冷たいだろうし、そうでなくとも問題は多い。


 俺自身……真っ当ではないと思う、良くないと分かっている。


 暗い部屋。窓がない俺のスキルの中で、小さな電灯の弱い燈色の光が、ヒナ先輩の瞳を照らしている。

 いつの間にか、俺の上に着ていたヒナ先輩から垂れた黒髪が俺の頬をくすぐる。


 俺が今、ヒナ先輩の手を引いているのは、理性からなのか欲望からなのか。


 何もしなければあと一年でヒナ先輩が別のところに行ってしまう怯えからなのか、それとも不安そうなヒナ先輩を慰めたい優しさなのか。


 纏まらない頭の中、俺を見つめるヒナ先輩を見返す。

 握った手は少し汗ばんで、不安そうに震えていた。


 静かすぎるこの場所は、俺もヒナ先輩も、逃げたくなっても逃げ出せないほどに近いのだ。


「……自信が、ないんです」

「私も働くよ?」


 たぶん、ヒナ先輩は俺に強引に攫われたいと思ってくれているのだろう。

 自分で三人での交際なんてインモラルな選択をする勇気はないけれど、望んでいるから、こうして俺の言葉を待っている。


 だから、ウジウジせずに抱き寄せればいいだけなのに。俺はそれが出来ずにいた。

 それは、俺が分からないからだ、俺自身のことを。


「……そうじゃないんです。俺はヒナ先輩もミンさんも好きですけど。それは……恋愛感情なのか、それとも優しい女性に母のことを重ねているのか、友情の好意を勘違いしているのか、あるいは……ふたりとも魅力的なだから、単なる性欲に突き動かされているのか。俺にも分からないんです」


 ヒナ先輩の目はジッと俺を見て、ミンさんを乗り越えて俺の隣にやってきて、いつものミンさんのように抱きつく。

 俺の腕にふにふにと柔らかい胸が押しつけられて、身体と思考が硬直する。


「ひ、ヒナ先輩?」

「……私も、そんなに綺麗な気持ちじゃないよ。支えてあげたいのも本音だし、大好きなのも本当だけど。ミンちゃんに都合のいい人だと思っていて今もミンちゃんのために利用してるみたいなものだし、寂しいときに一緒にいてくれるのが嬉しいとか、褒めて認めてくれるのが自尊心を満たしてくれるとか」


 ヒナ先輩は顔を赤くしながら、わざとらしく俺の腕に胸を当てる。


「え、えっちな気持ちもあるし。純粋な、混じり気のない好意じゃないよ。……だから、というわけじゃないけど。よくない感情も含めて、トウリくんからそういう風に思われるのが嬉しいんだ」

「……俺、自覚していないだけでハーレム願望があって二人に手を出そうとしてるのかもしれませんよ」

「いいよ。大丈夫」


 唇が乾く。ヒナ先輩から来てくれたら……と思ってしまう。

 たぶん今まで、悪いことをしていないだろうヒナ先輩にそういうことをさせるのは、酷く気が重い。……けれども、良くないと分かっていながらヒナ先輩の背中に手を回す。


「……浮気ものだ、悪い子」


 甘い吐息が首筋にかかる。

 甘えるように俺の胸に顔を埋めて「うへへ」と安心したような笑い声を漏らす。


 お互いに抱きやすい位置を確かめるようにベッドの上でモゾモゾと動いて、ベッドが少し軋む音がする。


 ……ごっこ遊び、そんな関係に近いのだと思う。

 やっていることは複数人の女性に手を出すという最悪な行為なのに、俺もヒナ先輩もミンさんも、異性との交際経験なんてなく。


 ママごとのような、あるいは駄菓子みたいに甘いだけの恋を思っている。


 ヒナ先輩の小さくて、暖かくて、柔らかい体をぎゅっと抱きしめる。


 好意を持たれていることから目を逸らすのをやめて、桃色に上気した頬と潤んだ瞳を見つめる。


「……俺たちの関係をどうするか、ミンさんが起きたら話しましょうか」

「うん……。なんだか、ミンちゃんにしてやられたかも」


 嬉しそうに俺にくっつくヒナ先輩を見ると、ミンさんの影響はあまり感じないというか……。


 ミンさんを言い訳にしているように感じるけれど……まぁ、いいか。

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