No.004
冷たい海水が俺の全身から熱を奪っていく。長くは潜っていられないことを本能的に理解する。
時間がない。このままではメリーナの身体がもたないだろう。
俺は必死に目を凝らし、メリーナの姿を探した。
しかし夜の海中は想像以上に暗かった。月明かりも、少し潜っただけで届かなくなる。
(くそっ、どこだ……!)
心臓が激しく鼓動を打つ。肺が酸素を求めて悲鳴を上げる。さっさとメリーナを見つけないと、俺の身体も限界がくる。
その時、前方に金色の光が見えた。
(あの光……)
それは確かにメリーナだった。彼女の全身が、金色の淡い光を放っていたのだ。
メリーナは意識を失っているようだった。そして、ゆっくりと海の底へと沈んでいく。
俺は全力で泳ぎ、手を伸ばし、どうにか彼女の腕を掴む。
(よし……!)
そして俺は意識を集中し、海中で魔法を発動させた。
◆◆◆
月明かりに照らされた静かな浜辺には、俺とメリーナ以外は誰もいなかった。
余裕がなかったので、適当に飛んだが……ここはどこだ?
いや、そんなことを気にしている場合じゃない。
メリーナの呼吸がないのだ。それどころか心臓の動きも……。
迷ってる暇はないな。
【
俺は即座に魔法を使い、メリーナの全身に魔力を注ぎ込む。
淡い光が彼女を包み、全身を魔力が循環していくのが見える。
循環が始まり5秒……10秒……15秒……。
だが、まだ反応はない。
「クソッ……もう一度!」
俺は何度も魔法を繰り返す。一度、二度……そして五度、六度と……。
「頼む! 目を覚ませ!」
額から汗とも海水とも知れない雫が垂れてくる。
海風に吹かれ、濡れた身体がどんどん冷える。それでも俺は蘇生措置を続けた。
こんなに魔力を使ったのは久しぶりだ。
八度目の魔法を放つ。その時――。
「――ゴホッ……ゴホゴホッ……!」
突如、メリーナが激しく咳き込んだ。
そして彼女の瞼がゆっくり開かれ、金色の瞳が俺を見つける。
「ウェイター……さん……?」
安堵のあまり、俺は危うく彼女を抱きしめそうになった。が、寸前で踏みとどまった。
代わりに、優しく声をかける。
「無理に動かなくていい。もう何も心配ないから」
「わたしが海に落ちた後、どうなったの……?」
「ドラム・ピンクコインが自爆したんだ。あの船を道連れにしてな」
「招待客は……」
「無事だよ」
たぶんな。まあ、護衛付きの王族連中なら、そう簡単に死なないだろ。
「ウェイターさんがわたしを助けてくれたの……?」
「ああ、俺の責任でもあったからな」
「ありがとう……命の恩人だね……」
「そんな大層なもんじゃないさ。海に飛び込んだら、ちょうど目の前にキミがいたんだ」
俺は軽く冗談まじりに言う。すると、メリーナは笑顔を見せてくれた。
彼女の顔色も次第によくなっている。頬もほんのり色づいてきて、瞳も潤んできて……これならすぐに回復するだろう。
◆◆◆
しばらく休むと、メリーナも身体を起こせるまでに回復した。
本当なら、すぐにでも病院に連れていくところなのだが、俺には任務の後始末が残っている。
そんなわけで、俺たちは月明かりに照らされた浜辺に座り、少しだけ話す運びとなった。
「あの、えっと……本当にありがとう……」
メリーナがしおらしく礼を言ってくる。これでもう何度目になるだろうか。
「気にしなくていい。俺のことなんて忘れてくれていいんだ」
「そんな! それは……ダメ……」
なんでだろうか。妙に気まずい。原因は恐らく俺じゃない。メリーナの態度というか、雰囲気が、船に乗っていた時と違うのだ。
彼女は緊張しているようにも見えるし、恥ずかしがっているようにも見える。
おかげで、こっちまで何を話していいかわからなくなってしまう。
「まあ、今回のことは残念だったけど、結婚相手なんてまたすぐに見つかるさ」
「結婚? あっ……そうか……わたし、結婚しようとしてたんだ」
「おいおい、もしかして何も覚えてないとかじゃないよな?」
「ううん、覚えてる。あなたと話したことは全部……」
「はっ? ああ……そう。それはよかった……」
メリーナは無語のまま、じっと俺の顔を見つめてくる。
なんか嫌な予感がする。というか、俺にとって好ましくない展開になりそうな気がする。
その後、しばらく無言の時間が流れ――。
「わたし、結婚しないわ!」
唐突にメリーナが声をあげた。今までとは打って変わって元気のいい声だった。
「まあ、本人の自由だしな」
俺がそう言うと、メリーナは笑顔でうなずいた。
「わたし、これからの人生は、自分で切り開いていくことにしたの」
「……いいんじゃないか」
「理由を聞きたい?」
メリーナがグッと顔を近づけ迫ってくる。
その勢いに負け、俺は思わずうなずいてしまった。
すると彼女は何度か深呼吸をしてから、俺の目を見すえて言うのだった。
「あなたに恋をしたから!」
メリーナは力強く言うと、すぐに顔を真っ赤にし、そっぽを向く。
一方、俺は唖然としながら、ふと思うのだった。
聞かなかったことにできないかな、と。
いや、無理だよな……。
「そうか……」
どうにか声を振り絞るが、何を言うべきなのかはわからない。
するべきことは決まってるんだが……。
「あっ、もしかして返事しようとしてる? 待って、まだ言わないで! いえ、やっぱり聞きたい! ううん、聞きたくない!」
どっちだよ。まあ、どっちにしろ返事はしないけど。
「それで、えっと……そう! やっぱり返事はもっとちゃんと考えてほしいというか……じゃなくてウェイターさんはわたしのことをどう思ってるのか聞きたいというか……」
メリーナは一人であたふたしていた。
こういうところは、王女も庶民も変わらないな。
「って、そうだ! ウェイターさんじゃないでしょ!」
「……なにが?」
「名前よ! わたし、あなたの名前、聞いてない! 教えてほしいわ!」
気づかれたか。このまま名乗らずにいけそうだと思ったんだが……。
「ねえ、教えてよ。あなたの名前はなんて言うの?」
「その前に、これを飲んでくれないか」
俺は青い液体の入った小瓶を取り出し、メリーナに差し出した。
「これは……なに?」
「飲んでくれたら教える」
「名前も?」
「いいだろう」
「約束よ? 破ったら許さないからね」
「こう見えて、約束だけは破ったことがないんだ」
そう言ってやると、メリーナは決心した表情になり、うなずく。そして小瓶の中の液体を一気に飲み干した。
「ふぅ……味は特にないわね。それで、これはなんなの?」
「<
「……………………え?」
初めは呆気に取られていたメリーナの顔が、次第に驚愕に満ちた表情に変わる。
「どういうこと? なんの記憶が消えるの? わたしの記憶よね?」
「キミは、『今から24時間前までに、豪華客船メロディスター号内で接触した、青いタキシードを着たウェイターに関するすべての記憶』を忘れる」
「それってあなたの……どうして? わたし、あなたのこと忘れたくないわ!」
メリーナの表情が哀しみに染まっていく。
「すまない。これが俺のルールなんだ」
「あなたのルール……なによそれ……」
彼女の瞳から大粒の涙がこぼれ始めた。
「嫌だ……絶対に忘れない……初めて恋したのに……」
さすがに俺も少しだけ胸が痛い。
だけど、この仕事を続けている限り、一時的な感情に流されるわけにはいかないのだ。
「許してくれとは言わないさ」
「わたし……怒って……ない……」
次第に、メリーナの瞼が重そうに降りてくる。
記憶消去剤を飲むと、睡眠薬よりもはるかに強い眠気に襲われるのだ。
そして目覚めた頃には、指定した記憶だけを綺麗さっぱり失っているというわけだ。
「名前……まだ……」
メリーナが最後の力を振り絞って俺にしがみついてくる。
ああ、約束したもんな。
「俺の名前はライ。ライ・ザ・キャッチーだ」
「ライ……いい……名前……」
メリーナは優しく微笑んでいた。
「絶対に……忘れない……わ……」
そして彼女は最後の言葉をつぶやきながら、静かに意識を失った。
一度深いため息をついてから、俺はイヤーピースの向こうに小声で話しかける。
「アイマナ、サンダーブロンド家の警護隊を呼んでくれ。場所はわかってるだろ?」
『すでに手配しています』
さすがアイマナだ。わざわざ指示を出さなくても、俺が望んでいることには先回りして対応してくれる。
「他の乗客は?」
『死亡者、怪我人、ともにゼロです』
「そいつはよかった」
『ところで、どうしますか?』
「なんの話だ?」
『今のおふたりの会話も録音してたんですが、保存しておきますか?』
「趣味が悪いぞ。すぐに消せ」
『でもセンパイが王女様に告白された記念の会話ですよ?』
「どうせ二度と会うこともない……」
淡い光を放つ金色の髪の少女は、俺の膝の上で穏やかな寝息を立てている。
俺は今夜の出来事を振り返りながら、しばらくのあいだ彼女の寝顔を見つめていた。
少しだけ興味深い王女様だったな。でも、俺たちが会話を交わすことは二度とないんだ……。
――1年前の俺は、愚かにもそう信じて疑わなかったのだった――
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