第4話

 はぁはぁ、と息を吐き続けながらも、なんとか私の学校の私の教室の私の机まで辿り着くことができた。


「うわっ!?どうしたのあかりん。汗だくじゃん。まだ遅刻するような時間でもないのに。」


 いつもの通り正面の机から後ろを向いて挨拶をしようとしていた比奈綺が私の異変に気がついて速攻で指摘する。

 少しずつ整ってきた息を大きく吸うと、ようやくこれまでの自分の行動を思い出すことができた。制服のYシャツを見ると、確かに朝でベタベタになっている。


「聞いてよひな。さっきね───…………………いやなんでもない。」


 先ほど起こった摩訶不思議な出来事を比奈綺に報告しようと思ったが、すんでのところで思いとどまってやっぱりやめた。

 だってよくよく考えたら、いきなり何もない空間から声をかけられた、なんて言っても絶対に信じてもらえないし、信じてもらえたとしても『幽霊だ!』とか言って勝手にビビられそうなので、この子にあまり迷惑をかけたくない。


「え?そこまで言ってやっぱなしって……逆に気になるじゃん。教えてよ。」

「いや、ほんとになんでもない。急いで来たのもちょっとした勘違いがあったからだよ。」


 話の続きをねだる比奈綺を強引な言い訳で躱わして、なんとか自分の思考の時間を作ることなら成功した。


 朝のホームルームのために担任が教壇に登ったことにも気付かず、さっきの謎の声について考察する。正直恐怖が強くてバクバクしているが、それ以上に何が起こったかについての疑問の念の方が大きい。


 まず何かしらの機械音の可能性。あの場では見えなかったけど、それだけ小さい機械から音が発せられた可能性はなくはない。しかし、それにしてはあまりにも音の流れが自然すぎた。電話と同じように考えれば分かるが、どうしても機会を通した音声というのは籠るものだ。さっきの声はそれを全くと言っていいほど感じなかった。

 次に私の心身状態の乱れによる錯覚の可能性。これも有り得なくもない話ではある。原因はさっぱり分からないが、噂によると幻聴というのはかなりはっきりと聞こえるケースも多いらしい。現状ではこれが有力か……?いやでも本当に覚えがないからな。


「じゃあこの問題を………月道。答えてみろ。」


 さまざまな考察を巡らしていたが、自分の名前が呼ばれたことに気がついて顔を上げる羽目になった。


「えーっと?」


 なんの授業なのかすらも気がついていなかった私にとって、問題に答えるなんて無茶すぎる話だ。というかいつの間に授業が始まっていたのか。今はそんな事をしている暇はないんだ。

 教壇を覗くと、メガネをかけた凛とした様子の白髪の先生が腕を組んで私の答えを待っている。あの爺さんは数学の先生だったか。怒らせるとめんどくさい人だったなぁ。どうしようかな。


『12√6ですよ。』


 私の右隣から聞き慣れない声が届いた。

 

 きっと困っている私に手助けのつもりで答えを教えてくれたのだろう、と勝手に判断した。誰だか知らないけどありがたい。


「じゅうにるーとろくです。」

「……正解だ。ちゃんと教科書開いとけよ。」

「はぁい。」


 どうやら数学の爺さんは私が教科書を開いていないのを見つけて、恥をかかせてやろうと私を指名したらしい。


 黒板に書かれた問題を見ると、数学な苦手な私は多分真面目に解いてても分かってなかったであろう問題だった。というか今日の朝起こったことに関わらず、私が真面目に授業を聞くことなんてなかっただろう。どっちみち回答不可能な問題の答えを教えてくれたのだから隣の誰かさんには本当に感謝しないと。


「あの、さっきはありが………と……。」


 愚かにも、そこでようやく私は事態を理解した。起こり得ないことが起こっていることに。


 私の右隣には最初から席なんてなかったのだ。


 一番後ろの列である私の席は左隣には別の席があるが、右隣はスペースになっている。

 さっき、確実に右隣から答えが聞こえた。


 そして、今朝起こった見えない存在からの声。


 それらを鑑みて導き出されるものは、


『今の問題は加法定理で辺CDを求めたあとで二倍角の公式を使うんですよ。』


 平然と流れてくる無形の音源に、一瞬の沈黙のあと、体を吹き飛ばすくらいの衝撃が訪れる。


「ぎゃあ!?」


 すぐさま机を飛び上がって戦闘体勢に入る。


 なんで!?今朝の不可思議な声がまたしても私の前に現れるなんて!

 しかもここ教室だよ?どうして私の居場所を知ってるんだこいつ。透明人間か!?透明人間なのか!?


 もはや科学的にあり得ない妄想を膨らませないと説明がつかない。なんなんだこいつ。


『そんなに怖がらないでくださいよ。というか怖がっているのはクラスのみんなの方では?』


 十代か二十代であると推測される女の声は、衝撃と動揺で真っ白になっている私に、当たり前のように話しかけてくる。


 でもこいつのいうことは間違っている。どう考えてもこの場で一番恐怖を抱えているのはこの私だ。

 ……………ん?クラスのみんな?


「あ、あかりん?どうしたの急に叫んで…。」


 今度は聞き慣れた声が聞こえてきて、すぐさま視線を向けると、比奈綺が何が起こったのか分からない様子で唖然として口をあんぐりと開けている。比奈綺だけではない。クラス中の生徒の目線が私に注がれ、注目の的となっている。

 なんで私?

 注目すべきは私ではなく、さっきからぺちゃくちゃ話しているこの透明人間(仮)じゃないのか?


『あ、朝にもおんなじような話をしましたけど、わたしの声が聞こえてるの、あなただけですよ。』

「は?何言って……」

『みなさんこんにちはー!!』


 いきなり透明人間(仮)が馬鹿でかい声で叫んだ。

 至近距離から不意に鼓膜を傷つけられた私は思わず耳を塞ぐ。


 だが、


 辺りを見渡すと、耳を塞いでいるのは私だけだった。それどころか何事もなかったかのように反応せず、むしろいきなり耳を塞いだ私の方を奇妙がるような様相だった。


 どうなっているんだ。

 私は幻聴を見ているのか?それとも本当に透明人間や幽霊的な何かが存在して、私の前に立っているの?

 何がどうなっているか本当にわからない!


「あかりん。……大丈夫?」


 ふと、比奈綺の心配する声が飛び込んできて、私はハッとさせられた。

 比奈綺の声はなぜか私を安心させ、心の動揺をわずかに沈めた。


「来て。」


 本当に存在するかも分からない透明人間(仮)に短いひと言を残し、私は教室を出た。


 これからどうするかは私次第だが、とりあえず状況を落ち着けないとどうにもならない。今分かっていることは、私だけにこの声が聞こえるということであり、その正体がなんであれ、話を継続しないといけないということだ。

 

 大きく息を吐いて決意を固め、私は後ろから誰かがついてくるのを感じながら廊下を歩いた。


 

 

 

 


 

 

 

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