第3話

 比奈綺と海へ行った次の日のことだ。

 私はいつもの通りベッドから身体を起こし、気を振り絞って大欠伸をしながら自室を出た。


「おはよ。」


 誰もいないリビングルームに向かって朝の挨拶を告げたが、当たり前の如く返事は返ってこない。

 カーテンを勢いよく開けると、昨日の夜まで降り続けていた雪はすでに止んでおり、雲ひとつない快晴が私の目を覆った。


 その後、適当に食パンにスライスチーズを乗っけてトースターで焼き、ひとりぼっちの朝食にありつく。


 私の家の構成は、母、私、以上だ。

 兄妹は最初からいなかったし、父は私が幼い頃に死んだ。もともと父の収入が若くして多かったこともあり、家自体は一軒家の立派なものだが、貯蓄だけで生活もできないため生活基準はかなり低めだ。

 母はいつも朝早くに出かけて夜遅くに帰ってくる。

 今日だって、今七時三十分だというのにもう家を出ているし、帰ってくるのはおそらく日にちを回ってからだろう。何時間働くんだってくらい働いている。


 さすがに母を見ていると自堕落な私に罪悪感を覚えないわけでもないのだが、それでも物事にやる気が出ないのだから私という人間は真性のクズ人間なのかもしれない。


 朝食を済ませ、顔を洗って髪をセットする。といってもただ長い黒髪をポニーテールに縛るだけなので大した時間でもない。多少ボサボサでも大して気にはしない。


 一度自室に戻り制服に着替えると、今日の授業がなんだったかも確認せず、適当にその辺に散らかっている教科書をカバンの中に突っ込んでそのまま家を出た。

 いつものことだけど、今日もやっぱりやる気がない。比奈綺がいなければ学校に行く価値もなくなってしまう私にとって、日々の日常というのはあまりにも退屈な時間が長すぎる。それが人生ってもんか、と勝手に納得しているものの、こんな風に生きているのは自分だけなんじゃないかと若干不安視している面もある。


 まあ、そうは言ってもこの場で人生を変えるイベントが起こるわけでもあるまい。なのでいつも通りの平凡な日常を繰り出す必要がある。


 誰もいないので家の鍵を閉めて、いつも通り家前の道路に出た。


 運命の歯車が動き出したのはその時だった。


 ドンッ


 私の身体が何かにぶつかった。


「うわっ。」

「いたっ。」


 ぶつかった相手は人だったらしく、お互いに悲鳴をあげて、私のほうは反動で身体が後ろに追いやられ尻餅をついてしまった。


「あ、ごめんなさい。」


 この場面でぶつかってしまったことがどちらが悪いかはともかく、私が確認しなかった責任があるのでとりあえず反射的に謝った、のだが、


「あれ?」


 そこには私がぶつかったはずの相手が



 いなかった。



 道路に顔を出して確認しても誰もいない。遥か遠くに登校する小学生の列が見えるだけだ。

 そんなはずはない。

 姿は確認しなかったが確かに人にぶつかった感触があったし、私とは別の女の子の悲鳴が聞こえたのも確かだ。

 

 どういうことだ?


 仮にぶつかったのが人じゃなかったとしても、何もないのはどう考えてもおかしい。こうやって尻餅をついた以上、確かにそこに何かあったはずなのだ。

 それなのに、いま私の目の前には何もない道路が広がっているだけだ。


「……さすがにこれは、まあいいやで済まされないよね………。」


 昨日も海でおかしな音を聞いたが、今日のこれはその比ではない。いるはずの人間がいないのだ。西から日が出るようなことだ。


 わけがわからない状況に頭が混乱していた私に、直後、さらに動揺を招く出来事が起こる。

 

『あの、もしかしてわたしのこと視えてますか?』


 どこからともなく声が聞こえてきたのだ。声質はかなり若い女の人なものだ。それもすごい至近距離から。


 咄嗟に振り返って声がした場所をたどるが、やはりそこには誰もいなかった。


 今の声、どこから聞こえた?


 スピーカーみたいなものも特にありそうにはない。そして、私の周りには誰もいない。

 誰もいない場所から声が聞こえてきたのだ。


『………見えてますか?』

「うわっ!?」


 今度はより近くから、距離にして30センチあるかというところから声が聞こえて、思わず飛び退く。


 なんだ?

 どこから声が?

 天の声?

 いやそんなバカな。


 そんなファンタジーみたいなことが現実で起こりうるはずがない。なら今起こっている現象はなんなんだって話だけど。


「えーっと。見えて……ないです。」


 訳がわからず完全に私の神経が大混雑を起こして機能不全状態だが、とにかく聞かれたのだから咄嗟にそれに適した答えを出した。


『えーっ!?せっかく見える人に見つかったと思ったのに。あれ?でも答えてくれたってことはわたしの声は聞こえてるってことですよね?』

 

 さっきと同じ場所から同じように謎の声が発せされ、またしても体がびくっと跳ねるように揺れ動く。生物としての本能が、目の前で起こっているありえない現状を否定しているかのようだ。


「え。あ、はい。声は聞こえてます。でも何もないです。」


 そしてある一定の理解の範疇を越えると、逆に冷静になって質問に答えられるのもまた本能によるものなのかもしれない。


『むむむ。姿は見えてないけど声は聞こえる感じですか。………でも、わたしの声が聞こえるってことは、間違いなくあなたは運命の人です!そこで一つ提案があるんですけど。わたしが…って、ちょっ、待ってくださいー!』


 気づいた時には私はカバンを両手に抱えながら猛ダッシュで逃走していた。

 動物というのは未知の事態を認識した時、自然と取る行動がある。それは逃避だ。敵なしのクマだって状況が把握できずに本能的に逃げることもあるし、人間だって熱いお湯をかけられたらそれが何なのかを理解する前に飛び跳ねるだろう。

 それと同じ原理で、考え抜いた上で脳内のキャパシティがなくなった私は、何も考えられなくなってただ逃げることしかできなかった。


 何もない場所から聞こえた声の正体について、論理的に考えるなら、超小型スピーカーから発せられたものとか私の何かしらの体調不良で聞こえてしまった幻聴とか、可能性がありそうなものはなくもない。しかし、この時の私は本当に全力で声の主から逃げることが最善だとしか思えなかった。

 たぶん、小学校でやった鬼ごっこ以来か、こんなに本気で走ったのは。


 


 

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