第15話

私は真っ暗な自室の天井をぼうっと見つめていた。


「眠れん…。」


今日のキスが頭から離れない。

唇の内側の粘膜と粘膜が擦れるあの甘美な感覚が、まだ私の唇に残っている。


お嬢様の唇は、ソヌのワンタンという食べ物に似ている。中の肉をもっと柔らかな何かに変えたら、そっくりだろう。

滑らかで、蕩け落ちてしまいそうなあの唇。

噛み付いてしまいたくなる。



「はぁ……。」



腕を目元に押し付け、大きくため息を吐く。


「もう、公爵様と目を合わせて話せない…。」



彼の大切に育てたお嬢様を、あんな風にしてしまうなんて。


じんわりと染められた赤い頬と鼻の頭、涙が滲む赤い瞳、下まぶたの桃色の粘膜、かすかに震える艶やかな唇。

その唇から奏でられる甘美な高音。


モワモワと、今日の溶けそうなお嬢様の表情が蘇る。


思わず腰がびく、と動く。


「……興奮と腰の筋肉は連動するのか?」


自身の出っ張った腸骨に触れる。


「…はぁ、寝れん。」



過去の亡霊に責め立てられる悪夢は、煩悩と戦う悪夢に変化した。


どちらも地獄だ……なんて考えながら、私はまぶたを落とした。








チチチッ



鳥の声が聞こえる。

朝がきたのだと、ベッドからゆったりと身体を起こす。



初めて夢を見ずに眠れた。



「……やはり、前者の方が地獄か。」














─────────────────────


「さあ、皆さん、失礼のないように。気を張りなさい。さて、行きますよ。」


未だかつて無い緊張の面持ちで、メイド長の言葉を聞いたメイド達は、一斉に仕事に取り掛かる。


私とメリルも、指示された仕事を着々と進めていく。



「はぁ〜やばいわ、緊張する。」


陰険な顔をしたメリルが、ふぅ、と息を吐き出す。


「そんなに緊張しますか?」


「するする。もう早く日常に戻りたい。」



パタパタと空を仰ぐような仕草をして、メリルは手元の仕事に集中した。


チラリと、廊下に面した大きな窓から門の方を見ると、黒く豪華な馬車と、これまた豪華な装飾の施された馬車が2台止まっていた。


黒い馬車から、真っ黒なスーツで着飾った、厳格な男と、その従者が降りてくる。


対してゴテゴテに装飾された方の馬車からは、七三分けで小太りな、いかにも貴族といった見た目の男と、狡猾そうな顔をしたひょろりとした従者が降りてきた。


その二人に対し、公爵様が笑いかけ、ロイ、メイド長、ペリーの3人が頭を下げる。



「どこの国も同じか…。」



貴族だの庶民だのくだらない。

結局殺し合いになれば武力の強いものが勝つ。


底辺の貴族はプライドだけ高く、金で命を長らえてきただけ。


戦争になった時、初めて自分の意思で殺したいと思ったのは貴族だったな、なんて思い返す。



「ループス、ちょっとそれ取ってくれない?」



メリルの言葉に、淀んでいた頭に閃光を巡らせる。


「……あ、はい。」



「…もしかしてループスも緊張してる?」



ボーッとしていたのを見てか、メリルが心配そうな目をしてこちらを見ていた。



「いえ…少し考え事を。」



その後も、言われた仕事を黙々とこなし、ついに公爵家の会議が始まった。





─────────────────────


「ループス、お嬢様のお食事持っていきなさい。」


公爵達の食事を作るのにバタバタとしていた調理場で、メイド長がせこせこと私にお嬢様のお食事を渡した。



「かしこまりました。失礼します。」


一礼をして、お嬢様の部屋へと向かう。







廊下を歩いていた時、クレアモント家のひょろりとした従者が前から歩いてきた。


廊下の端により頭を下げる。



通り過ぎるのを待っていた時、私の前でその男が足を止めた。


「……悪魔の令嬢の世話係とはお前の事か。」


男にしては高く聞こえる、耳障りの悪い声。



「…はい。」


少し……いや、普通に腹が立つ。

こんなひょろりとしたいけ好かぬ男に、あの方が貶されるのは聞いていられない。


「ふん、汚らわしい赤い瞳を持つ令嬢など、公爵家の恥晒しにも程があるわ。」


「……。」


ミシリと、持っていた銀プレートが歪む。




「エヴィルバードの名も落ちたな。跡継ぎの男を産めぬどころか、悪魔を産みおとし死んだ無能な妻と、平和ボケした当主か。ひひひっ、お前はどう思う?」


黙っていればベラベラと……。


「………私からは、何とも。」


奥歯を強く食いしばる。

ここで私がこの男に危害を加えてしまうと、この家に、お嬢様に、迷惑が被るのはいくらなんでも理解に易い。



「……お前も可哀想に、悪魔に食い殺されぬよう精々生き延びるのだな。」


ガンガンと脈打つほどに頭に血が上る。


今ここで、お前を食い殺してやろうか。


本当の悪魔にあった事がないから、あんなにか細く、小さなお嬢様を悪魔だと言えるんだ。



『殺せ』


黙れ、黙れ、黙れ。



『殺せ』


やめろ、今はあんたの命令に、従ってしまいそうになる。



『ループス』


やめろ。





『殺せ』





「────失礼します。」



ぐにゃぐにゃに歪んだ銀プレートを持ち、早足でその場を去る。


背中が汗でじっとりとする。



「……は、はは。」


廊下で一人、自嘲するように笑う。



私はまるで野蛮な狼だな。









─────────────────────


ドンドンッ



まるで八つ当たりをするかのように、いつもよりも強く扉をノックする。


「……ループスです。お食事をお持ちしました。」


自分の声が頭の声にかき消されそうだ。


戦場にはもう戻りたくない、それなのに、今この状況より、命令通りに人を殺していた時の方がよっぽど楽だ。


もう死んだはずの司令官の命令は、いつまで経っても死んでくれない。

私の中で、まだあの戦争は続いている。


「ル、ループス、なの?」


扉から、そーっと私を覗き込む、少し怯えた赤い瞳と目が合った。


「……はい。」


「入って。」


彼女の部屋へと足を踏み入れる。


怯えるお嬢様を見て、強く扉を叩いてしまったことを後悔した。



「おじょーさまー!」



廊下から、陽気な声が響く。


思わずカトラリーを手に取り、お嬢様を背に隠す。



「……ペリーさん。」


ニッコリと笑うペリーの瞳は、笑顔とは程遠く、私への警戒心と若干の敵意が含まれていた。


「ループスちゃんじゃん!

そうそう、お嬢様にお土産。料理長がループスちゃんに渡し忘れてたからって。」


そう言って、私の手に軽いラッピングが施されたクッキーを手渡した。



「……ペ、ペリー?」


私の背から、ぴょこっと覗き込むようにお嬢様が顔を出す。



「お嬢様〜!お久しぶりです!休暇から戻ってきたんですよ。」


「そ、そうなの。あ、あの……お、お母様のご様態は?」



まだ人と話すのが慣れないのか、おずおずと会話をするお嬢様に面を食らう。


ペリーはお嬢様のある程度の信用を得ているように見えた。


「あははは!大丈夫ですよ。ご心配ありがとうございます。」



目を細めて優しく笑うペリーに、私の心はざわつく。



「そ、そう、良かった……。」


「……お嬢様、お食事を。」


「…あ、ええ。ありがとうループス。」


お嬢様と部屋に入り、持ち手がぐにゃぐにゃになってしまった銀プレートを机に置く。



「お嬢様、私とお話しませんか〜?」


まだ閉じていない扉から、ペリーがお嬢様に話しかける。


「えっ、あっ……ええ。入ってきていいわよ…。」


緊張しているが、どこか嬉しそうなお嬢様を見て少しだけ朗らかになる。

しかし、相手がペリーなだけに、私の緊張感も高まっていく。


「やったー!じゃ、失礼しまーす。」


スキップをする様に部屋に入り、明るい表情でお嬢様を見るペリーから、未だに私に対する警戒心を感じる。



「……ループス、これ、どうしたの。」


握り込みすぎて、ぐにゃぐにゃになってしまった銀プレートを指さし、お嬢様が困ったようにそう言った。


「……申し訳ありません。」


「何したらこんな事なるのさ、ループスちゃんゴリラなの?」


少し呆れたように言うペリーに、肩がすくんだ。


「…まぁいいわ、いただきます。」


スプーンでスープを掬い、口に運ぶお嬢様を、私とペリーはじっと見る。



「……ん、美味しいけど……食べにくいわ。」


恥ずかしいのか、顔を赤くしたお嬢様は、眉間に皺を寄せて講義の目を私に向けた。


「私はいつも通りですが。」


いつも通り、お嬢様の言うようにそばに立って彼女の食事の風景を見ているだけだ。


いつもと変わったことは……


お嬢様と目を合わせ、視線をペリーに移らせる。



「へ?私?」



目をぱちぱちと瞬かせ、自身を指さすペリーに、2人して大きく頷く。



「えぇ……だってさぁ…んー、どうしてるのがお嬢様的には良いですか〜?」


ペリーが拗ねたように質問すると、お嬢様は考え込んだ。




「……喋ってて。」


「かしこまりました〜!」



明るく返事をした後、ペリーはくるりと私に顔を向ける。


「お嬢様の食事、いっつもこうやって見てんの?」


「…はい。」


「へー。いつから?」


「……1ヶ月ほど前からでしょうか。」


「他にはお嬢様と2人きりでなにするのー?」


その質問に、昨日のキスが頭をよぎる。


「……お話、とかですね。」


「…ふぅん。…ねえ、お嬢様。」



目を細めて、見定めるように私を見たあと、ペリーはお嬢様へ向き直った。


「んぐ……ん、な、なに。」


お嬢様は、食事を口に含んでいた最中だったのか、身体をビクリと跳ねさせてから、焦りながら返事をした。



「お嬢様は、ループスちゃんのこと好きですか?」


「……なっ、え、……っ、なんでそんなこと、」


思わぬ質問だったのか、お嬢様は顔を赤く染めてわたわたとした。


「えー……気になるから、ですかねぇ。」



お嬢様の焦りようを見ても、攻めの姿勢を崩さないペリーに、まんまと余裕を無くすお嬢様。


意図が分からず、ペリーに目線を送ると、ペリーは片方の口角を上げ、ニヤリとした。


「……は?」


馬鹿にしたようなその顔にイラッとする。


尚も私を見定めるように笑うペリーと、目を合わせたまま時間が過ぎる。



「……す、……好き…。」


そのピリピリとした空気を引き裂くように、お嬢様が質問に答えた。


「…。」


「……へぇー?信頼されてるんだね、ループスちゃん?」


ペリーの、谷底を彷彿とさせる仄暗い瞳に、悪寒がした。




「…ペリーさん、お嬢様のお食事が進みません。公爵様方への仕事に戻った方がよろしいのでは?」


この探り合いが気持ち悪くなった私は、暗に、ペリーをこの部屋から出ていくよう伝えた。


それを聞いたペリーは、ふっと鼻で笑ったあと、扉へと向かった。


「じゃ、ループスちゃんも忙しいんだから早く戻ってきてね。分かった??」


念を押すように、二度重ねて言った言葉には、有無を言わせない重みがあった。


「かしこまりました。」



「…お嬢様、またお話しましょうね?」


「ええ、また。」


お嬢様の返事に、優しい笑顔を向けた後、ペリーはお嬢様の部屋から出ていった。



「……はぁ。」


あの短時間で筋肉が凝った気がする。


「…ループスはペリーが苦手みたいね。」


コテ、と首を傾げながら、お嬢様は私を見つめる。


「……あまり、好ましい性格をされていないので。」


躱せぬと悟った私は、諦めて本音を明かした。


「ふふ、ペリーはやかましいもの。」


「…そう言いながら、お嬢様は彼女が好きなご様子ですね。」



お嬢様の目元に垂れた髪の毛を、指で耳にかけると、お嬢様は目を伏せて耳を赤くした。


「……ヤキモチやいたのね、ループス。」


「…ヤキモチ?」


思わず聞き返すと、お嬢様は悪戯っ子の様な笑みを浮かべて、「嫉妬」と、一言だけ発した。


何秒か経ってから、自身のその感情が、お嬢様の言う通りのものだと知って、顔が熱くなる。


「…おやめ下さい、お嬢様。」


「……リビア、2人きりの時はリビアと呼びなさい。」


口を尖らせて、照れた表情をしたお嬢様に、また胸が締まる。


「…リビア様、お食事が進んでおりません。」


「……ん、おいひい。」


フォークで刺した白魚のムニエルを、小さなお口でもぐもぐと食べる彼女の艶やかな唇に目がいく。


ふと、ペリーの質問を思い出す。


「2人きりの時は、他にどんな事をしているのか。」


「……え?」


ぱちりと目を見開いて、こちらを向いたお嬢様の唇を親指の腹で撫でる。


お嬢様は眉を下げ、まつ毛を震わせた。


「……他にはどんな事をしていますかね、私達は。」


そんな私の言葉に、お嬢様の赤い瞳は、情欲からの期待でいっぱいになった。



「……知らない…。」


しらばっくれるお嬢様に、私は愛らしさから笑みがこぼれる。


「本当に?」


彼女の唇から指をゆっくり動かし、下の前歯をなぞる。


「…ぁ、……っ、」


「お嬢様……本当に、知らない?」


「……る、ぷすが……、おしえて?」


潤んだ瞳で私を見上げたお嬢様に、かなわないな、なんて心の中で思ってしまう。


前歯を下に押しやり、お嬢様の口を軽く開かせたあと、自身の舌で上の前歯をなぞる様に舐める。


「……ぅ、ぁ。」


喉から漏れ出たお嬢様の息を逃さないように、指を離して唇でお嬢様の口を塞ぐ。


「…は、」


口を離したあと、満足気に吐いた自分の息が、やけに大きく聞こえた。


「へ……ぁ、」


私の欲を煽るように、お嬢様は舌を出して私を見上げる。


腰が今までにないくらいゾクゾクと震えるのを感じた。


彼女の赤く濡れた舌に、自身の舌を乗せると、電気が走るように快感が全身に巡る。


「…ん、ぁふ、んっ。」


お嬢様が、私の袖をギュッと握りしめる。



可愛い、……まずい、止まらない。



くちゅくちゅと口内を掻き回す音が部屋中に響く。


短くも長くも思える甘い時間に呑まれそうになる。




「……っ、」


完全に壊れかけた理性を取り戻すべく、お嬢様から顔を離して、思いっきり自分の頬を平手打ちする。


これ以上は、なんか、だめだ。



「え、な、なに?」


困惑した表情のお嬢様は、まだ快感が抜けきらないのか、呼吸が乱れ、瞳を潤ませて頬を染めている。


目に毒とはこの事か。



「……これ以上は、私がおかしくなってしまいます。」


額に手をやり、うるさい心臓を落ち着かせる。



「…………おかしくなればいいのに。」


小さく聞こえたその声に、私は反抗の目を向ける。


「……お食事中申し訳ありませんでした。お食事を続けて下さい。」


「…………ふんっ、…はむっ。」


立腹したように眉間に皺を寄せて食事をするお嬢様を見て、思わず笑ってしまう。


「美味しいですか?お嬢様。」


「……ええ。」


素っ気ないながら、きちんと返事をしてくれるお嬢様に胸がぎゅっとした。
















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