第13話
ポタポタと、流れ落ちる鼻血の音を聞きながら目をつむっていた。
数分経った頃、目を開けて、静かに近付いてきた気配を待つように扉を見つめる。
「……なにしてんの?」
入って早々、目が合ったペリーが、変なものを見たような目で、私に声をかけた。
「分かりません。」
「……はー。どうしたの〜それ?」
「鼻血が出ました。」
「誰かに殴られでもした?」
「いえ。勝手に出てきました。」
そこまで言い切ると、呆れたような顔をして、ペリーは私にエプロンを脱ぐように言った。
「血は落ちにくいしシミになるから。白に血はだめだよ〜、早く脱いで洗いな?」
「…ん、はい。」
返事をしてから、近くにあったテーブルナプキンを鼻にやり、真っ赤になったエプロンを脱いで水をかける。
「……なーんか、ループスちゃんって空気みたいに気配無いよね。」
「それは悪口ですか?」
「…軍人に伝えるとしては褒め言葉だけど、世話係の君に言うには悪口かな。」
「では悪口ですね。」
ジャバジャバと、片手で揉み込むようにエプロンを洗うと、ためた水が赤に染まっていく。
「……私は騎士だったけど、君みたいに気味が悪い人間は軍の中にはいなかった。」
横で洗濯物を洗い方別に分けているペリーが、低い声でそう言った。
また……『気味が悪い』。
「私自身の事なので、よく分かりません。」
「…私は君が軍人じゃなくて、暗殺者なんじゃないかと思ってるんだけど。」
首を傾げてペリーを見ると、光の無い目で私を見つめていた。
体の芯が冷え切るようにゾッとした。
「…暗殺技術も叩き込まれていましたが、私は軍人です。」
アキシアルンドの最終兵器として、嘔吐や吐血を繰り返しても尚、毎日、血にまみれながら、戦う術は全て徹底的に叩き込まれた。
それこそ、死より辛い経験を幾度もしてきた。
「……戦いたくない相手だね。」
「私達は使用人なのに、私と戦う機会があると?」
この質問に頷けば、今後、お嬢様に手を出すと言っているようなものだ。
私も正直この人間と戦いたくない。
多分、ロイよりも強い。軽くなどいなせない事は分かる。この人と戦えば、私は死ぬかもしれない。
「…君の行動次第かな。」
「……そうですか。」
やはり内部犯はペリーなのか。
しかし、どうしてもまだ確信を持てない。
「鼻血止まった?」
ペリーは先程とは違って、取り繕うような明るい声でそう言った。
その言葉に鼻をつまんでいたナプキンを鼻から離すと、もう血が出ないことに気がつく。
「止まったみたいです。ありがとうございます。」
「私は何もしてないよ。」
ナプキンを近くにあったゴミ箱に捨て、エプロンを洗い終えた後、顔についた血を洗い流す。
「……では。」
「んー、またね。」
こちらを振り向くことも無く、洗濯物を洗う彼女を見た後、私は洗濯室を後にした。
─────────────────────
「遅れて申し訳ございません、なかなか鼻血が止まらず…」
「いっ……いいの。もう止まったのね……よ、良かったわ。」
お嬢様への謝罪と、汚してしまった服の着替えを手伝おうと部屋に入ると、出会った頃のように、ベッドの上にタオルケットでくるまるお嬢様がいた。
「……お嬢様、その…先程は本当に申し訳ございませんでした。…主人ともあろうお方に襲いかかるなど、無調法な…どんな罰もお受け致します。」
「…ち、違うの、ループス、あの、」
「やはり解雇ですか。」
その場に正座をし、ベッドの上のタオルケットの盛り上がりを見つめる。
「ば!!!馬鹿なの!!!?」
お嬢様は、自身でタオルケットを端に投げ、少し乱れた髪で、座る私を見下ろす。
「ば……え?」
「馬鹿!!」
ふんふんと息を荒らげて、私の前で腕を組んで立っているお嬢様を見上げる。
私が汚した寝衣は脱がれており、お嬢様が纏うのはシースルー生地の紫色のネグリジェだけだった。
開いた口が塞がらないとはこの事か、彼女の危機感は何処へやら、など、お嬢様の事がもはや心配になる。
「……お嬢様、その、先にお着替えお手伝い致します。」
私の発言で、やっと自身の格好に気が付いたのか、真っ赤な顔をして私を非難するような目で見る。
長い沈黙の中、お嬢様の新しい寝衣をゆっくりと着させていく。
シュル……とシルクの寝衣が、お嬢様の白い肌を滑る音がやけに大きく聞こえる。
ボタンを留めるため、寝衣を少し引き寄せると、お嬢様の腰がピクリと動いた。
……くそ、なんでよりによってボタンタイプのワンピースなんだ。
ボタンを付けるために、徐々に下へ向かう。
膝をついて座り込むように、彼女の腰の高さにあるボタンを付けようと、寝衣を引っ張った時、お嬢様は私の頭を自身の下腹部に押し付けた。
「……!?!?」
「ループス……私、」
このままでは謝罪したのに同じ過ちを繰り返すだけだと思った私は、お嬢様の薄いお腹を掴んで顔を離した。
「……お嬢様!!」
私の理性がアテにならない事は今日、よく分かった。
彼女は不用心すぎる。
大きな声で叱責するようにお嬢様を呼ぶと、私を見下ろす瞳が揺れる。
「……ずるい、のよ…っ」
思わぬ言葉に意味が分からず、黙ってお嬢様を見上げる。
「わたくしばかり…恥ずかしがっていて……必死で…、やっと、わた……わたくしにっ……欲情してくれたかと思えば、貴女は上手く逃げ道を与えてくれるから……。逃げるなと言われた方がよっぽどマシよっ!」
ボタボタと大粒の涙が、私の頬に降りかかる。
「逃がさないで、ループス。逃げないで、わたくし、貴女が好きよ……恋、してるの。盗られるなんて嫌……貴女はあの男が好きなの……?あの男とキスをするの…?」
蜘蛛に囚われた蝶のように、私は彼女の瞳を見ると動けなくなってしまう。きっと、今、目の前の彼女にナイフを突き刺されても、私は逃げられない。
恋?
私のこれはなんだ。
主人であるお嬢様に対して、持っては行けない劣情を持っている。
彼女が他の殿方と結婚する未来をみては、胸が軋むように痛い。
恋ってなんだ。
そんなもの、誰にも教わっていない。
愛しか知らない。
恋とは、こんなに暗くて、汚い感情なのか?
「……お嬢様は、私に恋をしているんですか。」
未だ呆然としたままの頭は役に立たない。
浮かんだ疑問は直列回路で口から発せられる。
「…ええ。好き。大好き。」
潤んだ瞳は、トロトロとそのまま溶け落ちてしまうようで、不安になってしまう。
「……恋とは、なんですか。お嬢様は、私に欲情しますか。私が他の殿方と楽しく話していたら、その人を……殺したくなりますか。私を閉じ込めて、何処にも、誰にも、知られたく無くなりますか。
……それなのに、外にしかない美しい景色を見て、感動して欲しくなる矛盾を抱えておられますか。
…ふと、抱き締めて壊したくなりますか。」
お嬢様の赤が、夕陽に照らされより一層輝きを増す。
この瞳も、彼女のすぐに赤く染ってしまう白い肌も、可憐な笑顔も、怒った顔も、悪戯な表情も、誰よりも強くて、それでいて繊細なこの人を、誰にも渡したくない。
こんな汚くてドロドロとした感情が芽生えるのが恋なのか。
「……そ、それはもう、愛…じゃないかしら。」
「…………愛。」
「…ル…ループスは、私にそう思っているの?」
「……」
…肯定してはいけない。
私はただの世話係なんだから。
戸惑う様子をみるに、彼女は私のような感情は持っていないみたいだ。
昔フェルマーに貰った童話に、恋愛を含む童話があった。
恋愛は男女がするもので、閉じ込めたくなったり、ましてや壊してしまいたくなるような事は無い。
私のこれは恋でも愛でも無い。
これは、私の軍人としての加害欲で、長年の訓練と戦争によって歪んだ精神がきたした後遺症だ。
こんなに優しくて美しいお嬢様に対して…私は、紛れもないクズだ。
戦わなくて良いこの場所で、私はただの不良品でしかない。
『殺せ 殺せ 殺せ 殺せ』
……ああ、分かってる。
『殺さなければ』
「価値が無い……」
「…え?」
驚いた様な顔をしたお嬢様に、胸が軋む様に傷んだ。
「私は価値の無い人間です。」
「…何を言っているの?」
「お嬢様のそれは、一時的な感情だと思います。恋愛とは、移り変わるものだと聞いたことがあります。私はただの世話係で、お嬢様に恋をしていただくほどの価値はございません。」
ペラペラと、こんなに良く喋れたのだな、なんて、他人のように自分を見つめているような気分になる。
「……。」
「先程の言葉は無かったことにして貰えませんか。先程の行為に関しても、私はお嬢様の優しさに甘えてしまって図に乗ってしまったのだと思います。解雇でも、如何様な罰則もお受け致します。」
「…ループスは、私の世話係を辞めたいと思っているの?」
彼女の質問で狼狽えている自分に、心の中で嘲る。
「……お嬢様がそのような罰を下すのであれば。」
「…ループスは逃げるのが好きね。」
私の頬を酷く冷たいお嬢様の手がなぞる。
「逃げる……?」
「私から見たら、どう考えても私の事が好きでたまらない様に見えるわ。……いつも理性的な貴女が、あんなに必死で私のことを求めたくせに。ずっと、勘違いだったら辛いから、勘違いしないようにしてた!なのに……、私にだけ、……っ、あんなに優しい笑顔を見せるなんて、ずるいわよ!」
膝を付く私に、倒れ込む様にして抱きつくお嬢様を、つい、抱き込んでしまう。
「……私は…」
「答えて、ループス…私を…欲しいと思う?」
欲しい……?
私は、彼女の世話係で、元はただの殺人兵器だ。
彼女にはつり合わない。
「わ、わたしは……女です。結婚は出来ません。」
「……」
黙り込むお嬢様に焦りを感じた私は、言葉を重ねる。
「私は庶民で世話係ですし、お嬢様は公爵令嬢です。身分が違いすぎますし、お嬢様は公爵の一人娘です。貴女しか後継者はおりません。」
「……うるさい。質問に答えてって言ってるでしょう。」
もう、だめだ。問題点は山程ある。私のこれが恋愛感情なのか分からない事も、私が元軍人なことも、この質問に答えて得られるメリットは、デメリットよりも大きく下回る。
それなのに、彼女が傷付くのが嫌で、これ以上舌が回らない。
「……お嬢様…」
「ループス。早く」
お嬢様の顔が近い。早鐘をうつ心臓がやけに鬱陶しい。
「……っ、お嬢様との関係を変えたいとは思っておりません。」
その言葉に、お嬢様は顔をゆっくりと離して、ガッカリしたような、苦しそうな顔をした。
「……そう。」
「…でも、欲しいです。本当は、たまらなく欲しい。」
私の、台詞じみた言葉に、お嬢様は目を見開く。
「……。」
「…恋仲にはなれません。お嬢様の気持ちを、受け入れることも出来ません。」
「……分かったわ。」
「そばに居たいです。」
「……ループス、今貴女が言ってる事は、私にとっては辛い事なのよ。」
理解している。でも、離れたくないから。
「主人として、リビア・エヴィルバード様を世話係の私にくれませんか。」
彼女の手を、できるだけ優しく握ることを心掛けて握る。
「……やだ。」
拗ねたように泣き出すお嬢様を見て、自分のキャパシティを越えた事により、隠すことなく盛大なため息が出てしまう。
「私のこれは愛でも恋でもありません。薄汚い感情です。それを美しいお嬢様に対して持つのは嫌です。」
「薄汚い感情は恋には付き物なのっ、もうやだ、このカタブツっ、なんでこんなの好きなのよわたくしはっ。」
あまりな言われように、こちらが泣き出してしまいそうな勢いだった。
私も分かっている、自分が面倒臭い人間だと。
でも、今まで生きてきた世界に、急に現れた優しい世界に慣れないから。
自分がこんな場所にいてはいけない存在のように感じて、いなくなってしまいたくなる。
「……やはり、私はお嬢様の迷惑に」
「もう!うるさいっうるさいうるさいっ!」
癇癪を起こしたように泣き叫ぶお嬢様。
もう、どうすれば。
「…お嬢様は、私とどうなりたいのですか。」
「お付き合いしたい……っぐすっ……恋人になりたい。」
ドストレートな言葉選びに、頭が揺れるような感覚になる。
羨ましい……なんて。私はカタブツ…らしいし、色々考えすぎてしまうのは自分でもわかっている。
「…結婚は出来ませんよ。」
「ずっと一緒にいられるのなら、わたくしは書類の誓約なんていらないわ。」
2人して床に座り込み、向き合う。
この状況に今更ながら変だな、なんて思って笑いが込み上げてしまう。
「な、何笑ってるのよ!」
「……可愛いな、お嬢様は。」
「な゙っ……!」
可愛くて、ずるいなあ。
ずっとなんて、いられないのに。
本当にこの人は、私とずっと一緒にいる気満々なんだろう。
愛らしくて、酷いお方だ。
「私はお嬢様がやめたいと言われるのなら、いつでも恋人をやめます。」
「……。」
彼女のくるみ色の髪がふわふわと揺れる。
一束を手に掴み、身体を乗り出すように彼女に近付く。
「お嬢様、ずっとなんて無理です。でも、少しでいいですから、貴女を私だけのものにしたい。」
「……っぅ。」
彼女の頬と鼻の頭が赤く染るこの瞬間が好きだ。
「誰にも言えない関係です。」
「……うん。」
「いつかは壊れる関係です。」
「……。」
「私は、貴女にはつりあいません。」
「……うるさい。」
「……お嬢様は、きっと辛くて苦しい思いをすると思うんです。」
最後までそばにいられない関係なんて、辛いに決まってる。
だから、この提案は酷く我儘で自分勝手だ。
バレたら、庶民の私は死で逃げられるけど、公爵家であるお嬢様は逃げられない。
非難され、身分の高い彼女の方が、きっと重く長い罰が下される。
バレなくても、恋人の関係はいつか崩れる。
「私と……恋人になってくれませんか?」
「ぅ〜〜っ……」
目をぎゅっとつむって、泣き出すお嬢様の返事をじっと待つ。
「遅いのよっ……ばかぁ……っ!なるわよ……っ。」
号泣しても尚、悪態をつくお嬢様に、少し笑ってしまう。
「…私も貴女も馬鹿ですね。」
「……ぐすっ……終わりなんて来させないからっ。ループスはずっとわたくしと恋人でいるのよ。」
そう言って、お嬢様は私の顔を手で挟み、柔らかな口付けをした。
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