第8話
あの夢から一睡も出来ないまま日が昇った。
異変を感じたのは早朝のトレーニングを終え、シャワー室に向かっている時だった。
「……?」
何か、人だかりが……
「なによこれ。気持ち悪い」
「一体誰がこんな事を…」
各々独り言のように感想を述べている。
輪を描くように何かを取り囲んでいる人だかりに近付くと、その中にいたメリルが私の顔を見ると足早に近付いてきた。
「おはよ、やばいわよ。ちょっと見て。」
私の返事を待たず、メリルは私の手を取り引っ張るようにして輪の中へ入っていく。
人々が取り囲んでいたのは、一本の剣と、赤い目をした色素の薄い烏だった。
その剣は烏を貫通して地面に刺されており、廊下は血に濡れている。
薄い茶色の羽毛に赤い瞳……これはまるで、
「リビアお嬢様のような色だ……。」
1人がそう呟くと、使用人達は一斉に取り乱す。
中には悪魔を恨んだ人物の仕業等とくだらない事を発する使用人もいた。
「……なんてこと言うのよ、そんな訳ないわよ、ねえ、ループス。」
メリルが、いつもは気だるげな目を大きく見開く。
その声には怒気を含んでおり、彼女があの発言に否定的であることを顕著に示している。
「……くだらんな。」
こんな所に居るとむしゃくしゃしてやってられない。
私は後ろから聞こえるメリルの制止の声を無視してシャワー室へと向かった。
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シャワー室から部屋に戻る道中、既に誰かの手によって片付けられたのか、先程の廊下には烏と剣は見当たらなかった。
しかし、まだ噂話をし足りないのか、何人かの使用人が集まって話をしていた。
本当にくだらない。
横を通り過ぎようとした時、噂話に精を出していたメイドのひとりに声を掛けられる。
「ちょっとあなた、お嬢様の新しい世話係でしょう?もう2ヶ月も続いてるのよね!」
「……ええ、まあ。なにか御用ですか?」
「さっきの烏の死体、見たでしょ?あれはきっとお嬢様の中にいる悪魔に殺された人が生まれ変わって復讐しに来たのよ!」
嬉々としてくだらない噂話を私に話すそのメイドに、フツフツと怒りが湧いてくる。
一体こいつらはお嬢様に何をされたと言うんだ。
何もされていないのに、どうしてあんなに可憐で小さな少女を噂話で貶めようと思うのか。
「復讐……ですか。」
「ええ……。それに今日の夜中にお嬢様を狙って夜襲があったらしいわ。たまたまとは思えない……やっぱりお嬢様のあの瞳は災いを……」
深刻なふりをし、内心は嬉々として話しているその女に、1歩、足を踏み出し近付く。
「復讐など試みる不届き者、何度生まれ変わっても私が殺して差し上げます。」
女の目を見つめながらそう言うと、その女は青い顔をして、よく動いていた鬱陶しい口の動きを止めた。
その場を後にすると、後ろからは悪魔の従者だのなんだの、根拠もない話をまた口々に話す声が聞こえる。
「……くだらん。」
ああ、先程から声がうるさい。
『殺せ、殺せ、殺せ、殺せ』
うるさいんだよ、どいつもこいつも。
心臓がバクンバクンと拍動するのに合わせて、全身の血管が突っ張るように循環する。
気持ち悪い、気持ち悪い。
私は割れるような頭の痛みに顔を顰め、自室へと着替えに向かった。
昨日の夢から、私の精神は間違いなく異常をきたしていた。
─────────────────────
「ループス……どうして昨日来なかったの。」
朝食を渡す為、お嬢様の部屋の扉をノックしてすぐ、お嬢様が扉を開けてくれた。
寝惚け眼で私の迎えたお嬢様は、入ってすぐ、朝食が入ったトレイを置く暇も無いままに、私の胸元に顔を埋め、抱きついてきた。
「……お嬢様、昨日はお休みを頂いていました。メイド長から聞いていると思うのですが……。」
今朝、休みを頂いた際、メイド長からお嬢様へ伝えるので心配は要らないと聞いていた。
メイド長の事だから、伝えなかったという事は無いはずだが。
「……貴女からは聞いていないわ。」
「…もうしわけありません、お嬢様。」
私の胸元に顔を埋めているせいで彼女の表情は分からない。
「…今日の夜中に…私を狙った者達が屋敷の中に入ってきたらしいの…。門番の2人が…捕まえてくれたそうなの。」
そういえば、昨晩の件は門番が鎮圧したということにしてもらった。
メイド長には頭が上がらない。
「……ええ。」
返事をした後、私の白いエプロンを掴む手が小さく震えていることに気が付いた。
心臓が締まったように痛む。
「…平気よ、ループス。だって、ほら、私瞳が赤いから。これを見ると…皆、怖がるでしょう?だから、きっと私を狙った者達も…私の目を見て逃げ出すわ…。」
お嬢様顔を上げて、自身の赤い瞳を指さした。
取り繕ったその笑顔は、私には酷く悲しく歪んだ様に見えた。
「……お嬢様…お嬢様の瞳は綺麗です。だから、誰かが夢中になって手に入れようとするかもしれません。」
「あはは……もう、バカね、そんな事言うの……ループス……だけよ……。」
赤い瞳がゆらりと揺れる。
「…お嬢様の事は、私がこの命に代えてでも守ります。昨日、私は貴女に寂しい思いをさせましたか?」
そう言うと、お嬢様はまた私の胸元に顔を埋める。
「………ずっと、そばにいて、こわ……っ……怖かったぁ……ループス、……わたくし……」
私にしがみついて泣くお嬢様の姿を見て、私は初めて昨日の夜の3人を、『殺して良かった』と思った。
その思いに湧き立つ様に、頭の中の声が大きくなる。
ああ、もう、やめてくれ。
うるさいんだよ。
ズキズキと痛む頭に嫌気がさして、きつく目を閉じる。
「ループス…好き、よ。」
下から聞こえるお嬢様の声に、頭の声が嘘みたいに静かになる。
夢でも、現実でも、お嬢様の声はいつも私を助けてくれる。
心の中の誰かが、『価値の無い人間なのに』と、呟く声が聞こえた。
残念ながら同感だな、と思いつつ、
ほっと息をついて、私は彼女が泣き止むのを待った。
─────────────────────
「ループス、この鶏肉美味しいわ。」
もはや恒例となった、お嬢様の食事が終わるまでその場にいるこの状況。
私としても美味しそうにご飯を食べるお嬢様を見れて都合が良い。
彼女が食べているところを見ると、何故か安心するから。
「チキンのマリネですね。料理長に伝えておきます。きっと喜びますよ。」
「……ループスは、朝食は何を食べたの?」
想定していなかった質問に、私は目を瞬かせる。
「…朝は食欲が無かったので何も食べておりません。」
ずっと、声がうるさくて、頭痛で食欲が無かった。
そう話すと、お嬢様は顔を顰める。
「だめよループス。ちゃんとご飯たべないと。」
出会ったばかりのお嬢様に言われたら、きっと貴女がそれを言うのか?と思っていただろう。しかし最近、食事中私を傍に置くようになってから、お嬢様は朝昼晩をきちんと食べるようになった。
今は、標準より痩せてはいるが、女性らしい柔らかな身体になってきている。
「……善処致します。」
その返答が気に入らなかったのか、お嬢様は眉間に皺を寄せる。
「………あーん。」
すると突然、お嬢様はフォークに刺さったチキンのマリネを私に向ける。
「な、……そのような事は一使用人である私にしてはなりません。」
「……うるさい、ループス、命令よ。」
ずい、と私の顔にめいっぱい腕を伸ばして食べるよう指示してくる。
……いやいや、だめだろう。
「いけません、お嬢様。私はただの使用人で……」
「…む、…ループス、め、い、れ、い、よ!!」
お嬢様はそう言いながら、キッと私の事を睨みつける。
「……はぁぁ」
私は座ったお嬢様の隣に片膝を付け、フォークの先に刺さったチキンのマリネに口をつける。
何度か咀嚼して、嚥下する。
……美味い。
やはり使用人が食べる食事とお嬢様が食べる食事は格が違う。
もちろん腕がいいシェフ達が作るので、使用人が食べるものも美味しいが、これはまた別物だ。
「……美味しいです、お嬢様。ありがとうございます。」
お嬢様の視線はフォークの先と、私を交互に行き来していた。
「……。」
私の言葉に返事をしないまま、いそいそとチキンのマリネをフォークの柄に近い根元に置く。
「……お嬢様?」
「あ、あーん。」
また、私の顔の前にフォークを持ってくる。
「……お嬢様、もう私は」
「あーん!」
一体なんなんだ……。
もう完全に諦めた私は、そのマリネを口に入れる。
フォークの根元に近い所にあったため、フォークに口を付けるしかなかった。
マリネを飲み込み、お嬢様の顔を見る。
お嬢様の顔は髪の毛で隠れていて見えないが、髪から覗く耳は真っ赤に染まっている。
何やらフォークを凝視している様に見えるが……。
「……お嬢様、シルバーを交換致しますのでそちらの物をお渡し下さい。」
「……っだ、だめ。」
振り向いたお嬢様の顔はりんごのように真っ赤だ。
だめと言われても…使用人の唾液が主人であるお嬢様の口に入るなんて、許されることでは無い。
「……早くお渡し下さい。すぐに変えますから。」
「……っ。」
私がフォークに手を伸ばすと、お嬢様は皿が音を立てるくらいの勢いでチキンのマリネを刺し、それを口に含んだ。
俯いた髪の間から見える耳は、先程よりも真っ赤になっていた。
「……お嬢様。」
何か変な気分になってしまい、私は断りも入れずに彼女の髪の毛を真っ赤になった耳にかける。
耳に指先が触れた途端、お嬢様の身体がピクリと跳ねた。
それを見て、私はゾクゾクと身体を震わせる。
───── 一体なんなんだ、この感情は。
「お嬢様のお顔はすぐに真っ赤に染まりますね。」
そう言って、耳を撫でるように触ると、
「……んっ。……〜〜!」
お嬢様は高い声を小さく漏らしてから、目を見開いて口に手を当てた。
私の腰がゾクリと震える。
「どうしました?先程より赤くなっておりますよ。まるで熟れた林檎の様ですね。」
「……ぁ……うぅ。」
ポロリとお嬢様の目から雫が零れたのを見て、私の頭は急速に冷えた。
「っ…お嬢様、申し訳ありません。主人に断りもなく触れるとは…失礼でした。本当に申し訳ありません。」
すぐに手を離し、彼女の目を見る。
「……〜〜っなに、ばか、ループスのおバカ。」
お嬢様は涙を滲ました目で、私を睨む。
「……お嬢様が望むなら如何様な罰もお受け致します。」
「……〜〜っもう!!一々重たいのよ!」
ゴン、と頭を殴られた様な衝撃を受ける。
とある日にフェルマーが言っていた言葉を思い出した。
『あんなぁ、感謝にしろ愛情にしろ、重たい思いをこっちに向けられんのは鬱陶しいだけなんだよ。』
だよ……だよ……だよ……、と嫌にフェルマーの声が響く。
……………まさか私、お嬢様に鬱陶しいと思われている?
「あ………の、私、もしかして……鬱陶しい、ですか?」
恐る恐る聞くと、お嬢様は困ったような顔をしてして、
「……鬱陶しいというか……面倒臭い。」
頭の衝撃第二発目。
お嬢様は、項垂れた私を心配してか、大丈夫?などと、面倒臭くて重たい私に声をかけて下さる。
「…お嬢様は私のことがお嫌いですか。」
「はあっ!?……私、あなたのこと大好きって……言ったと思うんだけど…。」
ゴニョニョと小さな声で呟くお嬢様に、ほっと一安心をしてから心に誓う。
私はもう絶対お嬢様に無断で触らない
と。
─────────────────────
お嬢様の食事が終わり、彼女の部屋から出る。
お嬢様と一緒にいると、頭の中の声が聞こえなくなる。
まるで、嫌なものを払ってくれる聖女のようだな、と思いながらトレイを返却しに調理室へと向かった。
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