狐の婿入り

 小太鼓が腹の底に響く。甲高い和笛が旋律を奏でていた。摺鉦が楽しげにも祭囃子を支えている。とてもごく一般的な祭囃子に、笑い声に楽しげな話し声で充満する参道を駆け抜けた。

 旅籠屋式の屋敷を飛び出してから、とにかくがむしゃらであるが走る。あの子がいる場所はなんとなくであるが、わかった。なぜわかるのかはわからない。だけど、そこにいるんだろう。そしてきっと、一人なのだ。

 短い期間。雨の降る間だけであるが、彼女と共にいた時間は今までの人生の中でなによりもかけがえのないものだった。そしてそれが、あの子にとってもそうであってほしい。

 無駄に重ねられた着物姿に走りずらい下駄のまま、祭りのために苔が取られた石段を駆け降りた。鳥居を潜って、人の流れに反って、アスファルトの道路に飛び降りる。祭りの客が走る私を不思議げに見つめていたが、興味はなかった。

 こうやって走るのは、初めてだった。

 息が上がって脇腹が痛み始めた。吹き出た大粒の汗が輪郭をなぞっていることが手に取るようにわかる。

 それでもそれ以上に、会いたい気持ちと清々しい気分でいっぱいだった。まるで初めて来た世界にいるようだった。なににも縛られていない。ずっとあった暗雲はあの子が照らしてくれた。行くべき道のりは面白いくらいにはっきりと理解できて、足が止まらない。

 ああ、これが自由というやつなのか!

 走りながら今までの人生が巡る。まるで走馬灯のような記憶の巡りに笑い声が漏れた。実際走馬灯なのであろう。だって今まで生きていた私という存在は死んでいくのであろうから。

 でもやっぱり、色鮮やかなのはあの子との記憶なのだ。

 初めて会ったのは、まさしく偶然だった。

 刻一刻と迫る儀式による緊張感を緩ませたくて、雨の中であるが村を見回っていたのだ。休憩だと廃れた停留所にいたとき、彼女が飛び込んできた。

 今でも覚えている。見えているのか、見えていないのか。早い鼓動を抑え話しかければ、口からでたのは堅苦しく責めるかのような言葉。すぐさま後悔して、恐れられるかのように思えた。人間の姿をしているけれど、人間ではないから威圧感がきっとあっただろうし、初対面の男にああも言われれば嫌悪を抱いても仕方がなかった。だけども彼女はムッと、不満げな顔をすれどそれ以外はなにもしなかった。

 勇気をかけて話しかければ受け答えもしっかりしてくれる、礼儀正しい子。私を見つめる瞳が綺麗で、時々であるが笑う顔が可愛らしくて、冷たいように見えて実際は私をよく見てくれている優しい子。

 会話はどれも楽しかった。傘を持っているのに、わざわざ私の元まで来てくれた。私を、家柄ではなく、次期当主としてではなく見てくれた。君は知らないだろうけれど、それがどれだけ嬉しかったか。

 向かった先は停留所だった。祭囃子の音が微かに聞こえて、途切れ途切れに置かれた街灯が唯一の光源だった。

 あの子は、君は、停留所にいた。どこか遠くを見ていて、ただぼうっとしている様子だった。そんな何より愛してやまない黒曜石の瞳が私を捉える。

 彼女は驚きで目を見開いた。信じられないものを見るかのように、私を見ている。実際、信じられないのだろう。息を切らしている私は、口を開こうとして固まった。

 なにを言えばいいのだろうか。

 会いたいがために、走り抜けてきた。だけどもあったときのことを、なにも考えていない。考えていたのは、目の前の君だけだ。

 なんと、情けないことか。

 顔が熱い。羞恥なのか、それとも彼女とまた会えたことからなのか、首も耳も全身も熱かった。

「今日は……」

 彼女は私を確かに見つめた。声は震えていて、瞳がゆらゆらと揺れていた。

「雨じゃ、ありませんよ」

 思わず、彼女を抱きしめていた。

 人間の体は狐とは違い暖かくて、生きていることがはっきりとわかる。冷たい己の体に熱がじんわりと伝わっていった。

「雨じゃなくても、これからは会いにいくよ」

 彼女の体はびくりと揺れた。ゆっくりと背中に手を伸ばし、彼女も私の体をぎゅうと包み込む。彼女は泣いていた。暖かい大粒の涙が肩にあたって、小さな嗚咽が耳に入る。

「お願いがあります」

 涙声混じりの彼女の言葉に聞き溢さぬよう、耳を傾けた。

「はい」

「どうか、あたしと生きてください」

 歓喜で震えた。君も私と同じ感情であったことが、今ここで死んでいいほどに嬉しくて仕方がなかった。

 きっと移ってしまったのだ。彼女があんまりに、嬉しそうに泣くのだから私の目頭が熱くなっていく。震える声をなんとか、正した。

 もちろん答えは。

「喜んで」

 次の瞬間、滝のように雨が降った。空には数多の星屑が散りばめらていて、見守るかのようにいる満月は確かにそこにあるというのに雨は降った。

 それはまるで私たちを祝福しているかのようにしか見えなくて、ざあざあと振る雨に呆然となる彼女に笑いかけた。

「私は生きていくよ」

 生き方すら選択できないような人生は息苦しい。その息苦しさは、どれだけ辛いものよりも息苦しいと思う。

 だからこの道が、どれだけ茨の道であろうとも、私は生きていく。


 狐という存在は不思議だ。神の眷属と奉られ、ときに悪さをする妖怪と恐れられることもある。

 そんな、神なのか妖怪なのか定かではない狐に、過去つままれたことがあった。

 それは高校二年生の、例年よりも長く続いた梅雨のころだ。

 そして今も、私はつままれ続けている。

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狐の婿入り @hiyonosaito

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