第36話エミリア、モーガン卿に謝罪される
「お茶を淹れ直して参ります」
セドゥ親子の声が聞こえなくなると、アンがテーブルの上で冷め切ったお茶を片付けながら言った。
「イライザを呼んで欲しいわ。イライザの分のお茶も用意してくれたら、今日はもう帰っていいわよ、アン」
新婚なのだから早く帰ってあげないと、そう言いかけた言葉を私はぐっと飲み込んだ。アンは50歳を目前にゴールインしたこの結婚の話をされるのをとても嫌がる。本人たちが幸せならいいことだと思うのだが、アンは必要以上に恥ずかしがるのだ。私が子供の頃、アンはずっと年上だと思っていたが、私付きの侍女になった頃はまだ20代だったのだわ。年増だとか、私は随分と失礼なことを考えていたみたいね。
そんな風に思いながらアンの背中を見送っていると、ニールが声を掛けて来た。
「やりましたね!」
「ええ、あなたのお陰よ。ありがとう」
「妹が敬愛するエミリア様にご助力ができ、私としても歓喜に堪えません」
ニールがほころんでいると、まだ開け放たれたままのドアからイライザが入って来た。稽古着姿で頬が上気している。
「どうしたの? 何がそんなに喜ばしいの?」
「イライザ、剣術の稽古だったの? 呼び出してごめんなさいね」
「いえ、ちょうど終わった所でした。ご用はセドゥ家の事でしょうか?」
「ええ、掛けてお茶をどうぞ。稽古の後は喉が渇くでしょう」
私はイライザがお茶を飲んでいる間に、先ほどのセドゥ親子とのやり取りを話して聞かせた。
「やりましたね!」
兄と同じセリフを、手を叩きながらイライザは言った。
「これもコークス家のお陰よ、ニールは短い期間で本当に良くやってくれたわ」
「いえ、お礼を申し上げなければいけないのはこちらの方です。エミリア様がなぜうちの領地に目を付けられたのか存じませんが、これでコークス家は持ち直す事が出来ます」
「そうです、エミリア様がうちの領地を視察したいと言われたときは驚きました」
イライザも兄に同調した。
「視察したのはコークス領だけではないのよ。組合員の領地を近場から順に見て行っただけ。組合の古い記録に、閉山した鉱山を更に深く掘り下げた所、別の鉱石の鉱脈が見つかった事があるとあったからなの」
「それがたまたまコークス領だったわけですね。ですが、採鉱する費用や人員の手配、隣の領地の買収に掛かる費用の出資まで、エミリア様には本当にお世話になって・・」
「私は投資をしたの。これからコークス領は大いに潤うでしょうから、私はおいしい思いをさせて頂くことになるわね」
私のウインクを合図に3人は声を上げて笑った。
「それにしてもジュリア・セドゥの嫉妬心は凄まじいですね。実際、モーガン卿とエミリア様の間に何かあった訳ではないのに・・えっ、ないですよね?」
『また私だけが知らないんじゃ?』という不安げな表情がイライザの顔をよぎる。私は慌てて否定した。
「ないわ! アレクだってビジネスでこの屋敷に足を運んでいたのよ」
そのアレクが私を訪ねて来たのは、セドゥ親子の騒動があった数日後だった。
「今日はまずビジネスの話からさせて貰うよ」
アレクはまず鉱山組合への融資が通った事を報告してくれた。これで一安心だ。融資が危うくなって、工事が止まっていた鉄工所の拡張を再開できる。
「それから・・君には本当に申し訳ない事をした。ジュリアから聞いたよ、君をバルコニーから突き落としたと。僕は近くに居たのに気づきもしなかった」
ジュリア自らアレクに告白するとは意外だった。
「ジュリアはあなたの婚約者かもしれないけれど、あなたのせいではないでしょう? でもジュリアがあなたに話すとは思わなかったわ」
「エミリアは黙っていてくれるつもりだったんだね。いや、本当に申し訳ないよ。君にもルーカスにも大けがを負わせて・・僕が浮ついていたからこんなことに・・」
ジュリアがアレクに話したのは、先日の公爵家での件で父親と口論している所をアレクに聞かれてしまい、仕方なくの事だったらしい。
「僕のせいでなはいと言ってくれたけど、ジュリアは僕とエミリアの仲を嫉妬してやった訳だし・・正直に言うと、僕も君と再会してジュリアへの気持ちが揺らいだのは事実だから」
ふう~と大きく一息をついてから、アレクはまた話し始めた。
「ジュリアとは銀行の上司に紹介されて付き合いを始めたんだ。実はアカデミーの頃から好きだったと言われてね、僕も悪い気はしなくてさ。何年か交際してから婚約を決めた」
ジュリアがアレクの事をアカデミーの頃から好きだったのだとしたら、私と付き合っていると噂が流れた時はショックだったでしょうね。それでも時を経て、やっと付き合いが始まり、婚約までこぎ着けたと思ったら私が現れて・・。
「あの・・デビュタントの事も聞かされたよ。だから今度も銀行の融資を通す為に僕は利用されているんだと、『目を覚まして!』と言われたよ」
「今度は私が謝る番だわ。融資の事は違うけれど、デビュタントの話は本当よ。私、お母様をけん制するためにあなたとお試し期間を設けることにしたの。ひどい事だわ、あなたの気持ちを利用して・・本当にごめんなさい」
アレクは優しく笑って言った。
「もう昔の事だよ。ジュリアから聞かされた時は少しショックだったけど、君が僕を利用しようと思わなければ、お試しもしなかっただろう? 僕はあの時間がとても楽しかった。君の気持ちを引き寄せる事は出来なかったけど、大切な思い出を残せたんだ」
私は自分の良心がチクチクと痛むのを感じた。アレクがソファから少し身を乗り出して、真剣な表情を私に向けた時、彼がこれからどんな事を言おうとしているのか分かってしまったから。そしてアレクが以前と同じ答えを聞かされることになるのを知っているから。
「エミリア、僕は婚約を解消した。これはジュリアが君にした事のせいだけじゃない、君への気持ちを自覚したままジュリアと結婚するのは誠実な態度じゃないと思ったからなんだよ」
私は思わずアレクから目を逸らしてしまった。
「アレク、私・・」
「ごめん、困らせてしまったね。今日はもうお暇するよ、それじゃあ」
アレクは私の返事を遮るように立ち上がった。彼もまた以前と同じ答えが返ってくるのを分かっていたのかもしれない。
アレクが去った後、私も重い腰を上げた。メイドを呼んで外出の支度をする。融資が決定したのだ、朗報を組合に届けなければ。
護衛として馬車に一緒に乗り込んだのはルーカスだけだった。色々な事が片付き、もう通常の体制に戻っても問題ないだろうと判断したのだ。
「モーガン卿がいらしていたのですね、馬車が出て行くのを見ました」
「ええ、融資が通った事を伝えに来てくれたの」
「屋敷まで足を運んでくれたのですか・・わざわざ」
ルーカスにしては珍しくとげのある言い方に、私は驚いた。ルーカス自身も自覚しているのか言った後すぐ、苦い顔をして窓の外に視線を向けた。
「ジュリアがした事を知ったそうなの。それで謝罪をしてくれたわ、ルーカスにも申し訳なかったと」
「結婚はどうするんでしょうね・・」
「婚約は解消したそうよ」
「そうですか・・エミリア様は、あのっ・・いえ、何でもないです」
ルーカスはこの件については消化不良の様だった。だが彼が何を言いたかったのか、私も追及はしなかった。
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