第15話エミリア、撃沈する


 それからは毎日のように、婚約証書にサインしてくれたかルーカスに確認した。その度にルーカスは「もう少し冷静になって考えましょう」とか「今は忙しいのでまた後で話しましょう」とはぐらかした。


 あたしだってバカじゃない、ルーカスはあたしと結婚する気がないのは分かったわ。でもあたしは簡単には諦めないわよ! 



 今日は皇太子の結婚式でお勉強もお休みだし、お母様たちも式に出席するから留守にしてる。お昼は自室で食べるから、ルーカスに運んできて欲しいと頼んである。今日こそはっきりさせるんだから。


 お昼に食事を運んで来たルーカスはいつもと違って表情が硬かった。また婚約証書の話を持ち出されるのを分かっているのね。


 テーブルを整えてすぐ出て行こうとするルーカスをあたしは止めた。


「ね、ルーカス。あれ、サインしてくれた?」

「お嬢様・・・・お嬢様を傷つけたくありませんから言いませんでしたが、私には好きな女性がいるのです」


「えっ、嘘! 嘘よ!」

「嘘ではありません。その方と結婚の話が出ていますので申し訳ございませんがお嬢様とは婚約出来ません」


「相手は誰なの? 屋敷の人間なの? あたしの知ってる人? ねえ誰?!」

「相手は‥花屋の女性です」


 屋敷に花を卸している業者はどれ位いるんだろう。花を飾り付けている所を見た事はあるが、どんな人が作業をしていたかは全く覚えていない。


 でもショックだわ。ルーカスにそんな人がいたなんて全然知らなかった。戦争の英雄は生涯独身で身寄りもいないと聞いていたから、独身ならあたしと結婚できると思ってたのに。


 あたしはショックでそれ以上言葉が出てこなかった。ルーカスにも好きな人がいた・・こんな肝心な事を見落としていたなんて! 


 ルーカスは黙っていて申し訳なかったと言って出て行ったが、なんとなく様子がおかしかった。なんというか・・ほっとしたような表情に見えたわ。


 ルーカスが出て行った後もあたしはずっと考えていた。何か心の中に引っかかるものがある。花屋の女性、ルーカスの表情・・・・。



 


 数日後


「あっ、居た! ルーカス、ねえルーカス」


 お父様の書斎で片付け物をしていたルーカスを見つけて、あたしは書斎に上がり込んだ。


「あたし、花屋の女性を見つけたわ!」


 片付け物をするルーカスの手がぴくっと反応した。振り向いたルーカスの顔は気まずそうだ。


「話も聞いたわ!」

「話とは・・その、私と彼女の結婚の話ですかな」


「そうよ!」あたしは両手を腰に当ててふんぞり返った。


「金に物を言わせたわ!」


 ルーカスはハッとしている。


「ルーカスに頼まれたって言ってた。何でも事情があるから、少しの間だけ結婚を前提に付き合ってる事にして欲しいと頼まれたって。本当は何度か挨拶を交わしたことがある程度の間柄だって!」


「ば、バレてしまいましたか‥」


「一応彼女の保身の為に言っておくけど、金貨一袋では話そうとしなかったわ。あたしが泣きべそをかいてお願いしたら『こんな可愛いお嬢様に嘘は付けません』って話してくれたの。金貨はお礼だからって渡したけどね」


「そ、そうでしたか」


「昨日も一日外出してたでしょ? やっぱりあたしを避けてるのね」

「いえ・・昨日はそういう訳では・・」


「こんな嘘をつく程あたしと結婚したくないの? そりゃあたしはまた子供でチビだけど、大人になったらきっとお母様みたいに美人になるわ。それでもって、思いやりがあって聡明な女性になるから、だから‥」


 ルーカスは何故か、困った顔というより辛そうな顔になった。


「私を‥困らせないで下さい」ルーカスはあたしから視線を外して呟いた。まるで独り言みたいに。


「・・あたし、ルーカスを困らせてるの?」


 再びあたしに向き直ったルーカスの顔には険しい表情が現れていた。


「そうです! 迷惑なのです! 私はお嬢様の家に雇われている身分です。好きだと言われても逆らう訳にはいきません。でももう限界です。無茶は言わないで下さい!」


 そんな・・そんな。じゃあルーカスにはあたしの気持ちはただ迷惑なだけだったっていうの? この家から追い出されたら困るから、あたしに合わせていただけって事? 優しくしてくれたのも仕事だから?


「じゃあ‥あたしの事、本当は好きじゃない‥の?」

「・・ッ・・お、お嬢様の様にわがままな子供は好きじゃありません!」


 ルーカスは下を向いたままであたしの顔を見ようともしない。


 あたしは自分の足がぶるぶると震えているのに気が付いた。胃の辺りがきゅっと握られたように痛い。


「あたし・・あたし・・迷惑かけてごめんなさい!」


 あたしは書斎のテラスから外に飛び出した。なんてバカなんだろう、間抜けで、とんちんかんで独りよがりで・・なんて情けないんだろう。


 自分の気持ちをルーカスに押し付けて困らせてたんだ。そんな事にも気づかないバカな子供だったんだ。

 ちょっと優しくされたからって勝手に好きになって、バカみたい! バカみたい!


 テラスから飛び出したあたしは闇雲に走った。涙がどんどん溢れて来て目の前が見えなくなった。

 地面が緩やかな傾斜になって走る速度が加速しているのが分かったけど止まらない。と、足がもつれて転んだあたしは、そのまま勢いよく傾斜を転がった。


 ザパーン! ゴボゴボゴボッ。


 水に落ちたのが分かった。助けて! って叫ぼうとしたら水が口の中に入って来て苦しくなって・・・・。





 気が付いたらあたしは自分のベッドに横たわっていた。


「あれ・・」


 体がだるくてぼんやりする。首だけ動かして横を向くと、ベッド脇の椅子に座ったままでエレンがうたた寝をしていた。


「エレン?」


 あたしの声にすぐ反応してエレンが顔を上げた。「お嬢様! 良かった、目が覚めたんですね。具合は如何ですか? 痛い所はないですか?」


「うん‥だるいけど‥あたし、寝坊したの?」

「いいえ。お嬢様は昨日、池に落ちたのです。ウォーデンさんがすぐ池からお嬢様を助けたので大事には至りませんでしたけど」


 そうだった。昨日、あたしはルーカスにフラれたんだった。フラれたも何も、あたしの独り相撲だったんだわ。思い出すとまた涙が溢れて来た。


「まあっ、お辛かったんですね。可哀そうなお嬢様。もう大丈夫ですよ、少し水を飲んだだけだとお医者様もおっしゃってましたから」


 エレンは一生懸命あたしの肩を撫で、涙を拭いた。エレンってこんなに優しかったのね。それなのにあたしは意地悪したりして。こんな悪い子だもの嫌われて当たり前よね。




 

 ルーカスはあれから一度もあたしに会いに来なかった。


 あたしもしばらくは部屋で簡単な授業をアンドーゼ先生から受けたりしてほとんど自室を出なかった。


 だからルーカスの話を聞いた時は本当に驚いた。


「えっ、ルーカスが辞めた?」

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